2020年1月1日水曜日

年の初めに…

新たな年が始まりました。
昨年は、自然災害の多い年だなと思いました。
今年は、皆様にとって穏やかで平和な年になりますように記念いたします。
ほぼ毎日の更新でマンネリなブログですが、今年もよろしくお願いします。
(「祈念」を「記念」と誤変換していました。こんな間違いが多いですσ(^-^;…)
想像の動物「ヘテ」
 物事を正しく判断するといわれる伝説上の動物。
入口の方向を示す以外にも厄払いの意味を持っています。
(公園の説明板)

検索すると元は中国で獬豸(かいち)と呼ばれ。
日本では狛犬の起源になるそうです。
朝鮮半島に伝わり「ヘチ(해치)」「ヘテ(해태)」と呼ばれるようになったようです。
去年は、自然災害などが多発しましたが
上に立つ者が自分たちの都合のいいように政治やマスコミを動かしていたな
お友だちということで無罪にもなっていたような国だから
差別がまん延し、基本的な人権が無視されている不正な日本の司法制度の人質ではなくなります」(12月31日 NHKニュース)を違うだろうと言えなのが情けないな…

今夜Eテレで午後10時から「100分deナショナリズム」がある。
今月の100分de名著では「貞観政要(じょうがんせいよう)」が取り上げられる。
新年といえばすぐに思い出すのが大伴家持の歌です。
今までにも紹介していますが…(^^ゞ
 (アトリ

   三年春正月一日に、因幡国の庁(ちやう)にして饗(あへ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
(あらた)しき 年(とし)の初(はじ)めの 初春(はつはる)の 今日(けふ)降る雪の いやしけ吉事(よごと) (巻二十・4516)

 《歌 意
新たな年の初めの初春の今日降る雪のように、ますます重なれ、良い事よ。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)

 《鑑 賞
 巻二十巻末歌、即ち万葉集最後の歌である。
また年次判明歌として最も新しい歌でもある。
天平宝字3(759)年正月一日、42歳の家持は因幡守であった。
左遷中である。
しかし家持がかつて記しとどめた「新(あら)たしき 年(とし)の初(はじ)めに 豊(とよ)の稔(とし) しるすとならし 雪の降れるは」(巻十七・3925、葛井諸会<ふじいのもろあい>)に明らかなように、新春の雪は瑞祥(ずいしょう)であった。
国司・郡司らに饗を賜う宴で、家持は未来を寿(ことほ)ぐのである(ヨゴトを「寿詞」と見る説もある)。
そして都で「大宮(おほみや)の 内(うち)にも外(と)にも めづらしく 降れる大雪(おほゆき) な踏(ふ)みそね惜(を)し」(巻十九・4285)と歌った家持は、ここ因幡でも、白雪の清潔さに憧憬を感じ、希望を見出しているように思われる。
「新しき年の初めの初春の今日」は、降り積もる雪そのままに重なった表現である。
その通り、この年は、元旦に立春が重なったのであった。
その暦法の偶然を捉えて、賀の歌の序を構成したのは、いかにも家持「歌日誌」のしめくくりに相応しい。
古今集が「年の内に春は来にけり」(在原元方)という年内立春の歌で始まる、という照応は、あるいは偶然でないのかも知れない。
(『万葉集鑑賞事典』神野志隆光編 講談社学術文庫 2010年)
巻第一 春歌上 一
  ふる年に春立ちける日よめる  在原元方
一年のうちに春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年(ことし)とや言はむ

  旧年中に立春となった日に詠んだ歌  在原元方
暦の上ではまだ十二月だというのに、もう立春になってしまった。
この一年を去年と言ってよいのか、それとも今年と言った方がよいのか。

ふる年に春立ちける日 年内に立春となること。
陰暦では新年と立春が重なるのが原則だが、当時はおよそ2年に1回年内立春があった。
(『古今和歌集』小町谷照彦 旺文社文庫 1982年)
昨日、辞書をパラパラッとめくっていたら「三十番神(さんじふばんじん)」という言葉に出会いました。
インターネットでは、たいがい目的をもって検索するのですが
紙の辞書では、気ままにめくったページで気になる言葉と出会うことがあります。
電子辞書とは違う魅力だと思うな…
古語辞典に書かれていたのは
(続けて仏教辞典でも調べてみました)
さんじふばんじん【三十番神】サンジュウバンジン〘名〙
一か月の30日間を毎日交替で、仏法を守護する三十の神。
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)による考え方で、熱田(あつた)・諏訪(すわ)・伊勢(いせ)・賀茂(かも)など全国のおもだった神々が当てられる。
(『古語林』林巨樹・安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)
三十番神(さんじゅうばんじん)
 日本旧六十六か国の神々の中から勧請され、一か月三十日の間順番に国を守る三十神をいう。
この番神には禁闕守護、仁王経守護、法華経守護、如法教守護などの三十番神があり、平安中期にはすでに一般信仰となって流布していた。
鎌倉末期、日蓮宗僧日像は神天上法門の一環として日蓮宗に取り入れ、室町中期、吉田兼倶(かねとも)はこれを吉田家相伝と認めた。
こうして番神は日蓮宗独自の神祇信仰となり、日蓮宗信仰の中に融けこんで行った。
「百済寺には彼の一万大菩薩を勧請して、三十番神に加へ奉る」〔三国伝記7-24〕
(『岩波仏教辞典(旧版)』中村元他編 岩波書店 1989年)
で、三十の番神を知りたくなったので検索すると
三十番神の解説」(鎌倉のお寺さん 特別企画編)などのサイトが見つかりました。
新暦になって1か月30日から31日になったのだけどと思うと31番目の神様もいるようですよ(^_-)-☆
【五番の善神(ごばんのぜんじん)】(31日)」(日蓮宗玉蓮山真成寺)

旧暦から新暦になったのは明治6年からです。
「日本の暦 江戸から明治の改暦」(国立国会図書館)
12月30日から1月1日までの出来事を
カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』より転記すると、
12月30日 追儺(ついな)
 紫式部の日記に、
 「つごもりの夜、追儺はいと疾(はや)くはてぬれば、鉄漿(はぐろめ)つけなど、はかなきつくろひどもすとて、うちとけゐらるに……」
とあるように、追儺の鬼やらいの儀式は大晦日に行なった。
宮中では、鬼に扮装(ふんそう)した舎人(とねり)を追儺面をつけ楯(たて)をもった大舎人長が童児をひきつれて内裏(だいり)の四門をめぐって追いまわし、悪鬼をはらい悪疫をのぞくための大切な年中行事であった。
 この宮廷行事は中世にすたれたが、時代が下ると、民間では、節分の夜、豆まきで鬼をはらうという風習が広まった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
12月31日 大晦日
 新暦ではこの日が大晦日だが、旧暦では30日が大つごもりだった。
この日は一日の最後の日、家庭では新年を迎える準備に忙しく、すでに鏡餅が供えられ、神棚には夕方から燈明(とうみょう)があげられる。
商家は掛売りの勘定をとりにおそくまで走りまわり、町では正月用の南天や福寿草の盆栽が売られた。
除夜の鐘の音もまぢかな夜食には、どこでも年越蕎麦を食べ、いよいよ年を送る。
こうした風俗は江戸から明治・大正・昭和にかけて広く見られた。
樋口一葉が「大つごもり」を『文学界』に発表したのは、1894(明治27)年、22歳の時であった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
1月1日 天皇の「人間宣言」 1946(昭和21)年
 1946年1月1日、天皇は詔書(しょうしょ)を発して、天皇を「現御神(あらみかみ)」(この世に人の姿となって現われた神」とする考えが、「架空なる観念」であることを宣言した。
いわゆる天皇の「人間宣言」である。
明治以来、あらゆる機会に国民の心にたたきこまれてきた天皇を現御神とする考えは、太平洋戦争が敗北におわっても、容易に消え去らなかった。
当時一方では、天皇制の廃止か存続かの意見がたたかわされていたがその中でこの宣言が発せられたのである。
連合国軍最高司令官マッカーサーは、この詔書に満足の意思を表わした。
「象徴天皇制」の日本国憲法が公布されたのはこの年11月3日である。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
録画だけしていて後でゆっくり見たいなと思っているのが
以前、見た番組ですが再放送があった。
緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」(2013年)
再放送の予定はないようだけど
2000年を生きる 塩野七生と高校生の対話
そして、日曜日にあった
情熱大陸「福田由香里 海上保安庁ヘリコプターパイロット
当然なのだけど緊張する状況を冷静に対応されている。
1月5日(日)22時59分まで無料配信されています。
今朝の父の一枚です。
昨日の「皇室この一年」(NHK)を見ながら
父が、上皇さまと美智子さまが結婚されたのは4月10日(昭和34年)で
母の命日と重なるのだなと…
上皇上皇后両陛下」(宮内庁)