2020年1月18日土曜日

雨上がり

夜中に雨が降ったようです。
初め曇っていて空が暗かったのですが、次第に青空が見えてきました。
今日はセンター試験の日。
受験生が実力を発揮できますように!
最後の「大学入試センター試験」大きなトラブルの報告なし〟(NHK)

センター試験 受験生を痴漢から守れ!」(NHK)
地震切迫度 31の活断層で“震災直前と同じか それ以上”」(NHK)
この31の活断層に中央構造線断層帯が含まれています。
昨日の裁判所の判断に批判をしている方がおられますが
原発を安全だといいきれるのがすごいなと思います。
「スロースリップ」沖合の海底で初確認 地震メカニズム解明へ〟(NHK)
気分を変えて芥川龍之介の「産屋」を転記したいと思いますφ(..)
参照した『芥川龍之介全集 第二巻』の定価が「0円」になっていますが、
絶版の意味だと思います(^_-)-☆
「産屋」の時代背景は神話の時代ですが、
近世女性生活絵典』より「4章 出産――子なきは去る」を転記したいと思います。
  産屋(うぶや)
 男は河から芦(あし)を切って来て、女のために産屋を葺(ふ)いた。
それからまた引きかえして、前の河の岸へ行った。
そうして切りのこした芦の中に跪(ひざまず)いて、天照大神に、母と子との幸いを祈った。
(『芥川龍之介全集 第二巻』伊藤 整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)
 日がくれかかると、女は産屋を出て、芦の中にいる男の所へ来た。
 そうして「七日目にまた来て下さい。その時に子どもを見せましょう」と言った。
 男は一日も早く、生まれた子が見たかった。
が、女の頼みは、父らしく素直にうけあった。
 そのうちに日が暮れた。
男は芦の中につないで置いた丸木舟に乗って、河下の村へさみしく漕(こ)いで帰った。
 しかし村へ帰ると、男は、七日待つのが、身を切られるよりもつらく思われた。
 そこで、頸(くび)にかけた七つの曲玉(まがたま)を一日ごとに、一つずつとって行った。
そうしてその数がふえるのを、せめてもの慰めにしようとした。
 日は毎日、東から出て、西へはいった。
男の頸にかけた曲玉は、その毎に一つずつ減って行った。
が、六日目に男はとうとうがまんができなくなった。
 その日の夕、芦の中に丸木舟をつなぐと、男はそっと産屋の近くに忍んで行った。
 来て見ると、産屋の中はまるで人気がないように、しんとしていた。
そうしてただ屋根に葺(ふ)いた芦の穂だけが暖く秋の日のにおいを送っていた。
 男はそっと戸をあけた。
 芦の葉を敷いた床の上に、ぼんやり動いているように見えるものが、子どもであろう。
 男は、前よりもそっと産屋の中へ足を入れた。
そうして、恐る恐る身をこごめた。
 その時である。
河の水は、恐ろしい叫び声のために驚いて、芦の根をゆすった。
 男が叫び声をあげたのも、無理はない。
女の産んだ子どもというのは、七匹の小さな白蛇であった。……
 このごろ自分は、この神話の中の男のような心もちで、自分の作品集を眺めているのである。
  (大正6年8月)
(『芥川龍之介全集 第二巻』伊藤 整、吉田精一編 角川書店 昭和43年)
4章 出産――子なきは去る
 封建時代、人妻が一方的に離縁されても文句のいえない条件として「七去(しちきょ)」というのがあった。
その七去のなかに、「子供がきない」ということも含まれていたから、妊娠は人妻にとって大きな安堵をもたらす朗報であった。
 妊娠がはっきりすると、人妻は出産の準備にとりかかり、五か月目(三か月あるいは七か月というところもある)に入ると岩田帯をつけることになる。
ところによっては、安産のまじないとして、夫のふんどしをしめることもあった。
江戸時代は、間引きがさかんに行われたので、岩田帯をつけるというのは、その子を立派に育てるという意志表示もかねていた。
 ところで、出産はかならず出血をともなう。
日本人は出血を穢(けが)れとみていたので、出産も忌みの対象とされ、古い時代においては別に産屋(うぶや)を建て、そこを出産の場としていた。
江戸時代に入ると、そうした極端な穢れの意識も薄れ、出産も母屋の内部で行われるようになったが、妊婦と家族の食事を別々につくる(別火)など、その種の意識は残存した。
 分娩の方法も現代と異なり、座って行う座産であった。
妊婦は、無事出産が終わっても、まだ横になることができない。
妊婦の血が下がるのを怖れてのことというが、毎日少しずつ背中の「あて」をはずしてゆき、完全に横臥ができるまでには、ふつう21日を要したという。
この21日目が同時に、産婦の床上げの日でもあった。
(『近世女性生活絵典』原田伴彦、遠藤武、百瀬明治、曽根妙子 柏書房 1983年)
産室
 古い時代は、別に産屋(うぶや)を建てて産婦を移し、これを他屋(たや)、仮屋などと称した。
この風習は江戸時代にも残存したが、母屋内出産が次第に主流になっていった。
ただし、その場合でも、畳を上げて蓆(むしろ)をしくなど、産室の穢れを重視する風潮は続いた。

産屋
 農村等では産婦は分娩の際、別に建てられた産屋に入った。
分娩後も忌明けまではここで生活した。
〔三州奥郡風俗図絵〕

産室
 産屋の内部。
天井から垂れ下がる力綱と脇に置かれた俵が、当時の座産の風習をよく示している
〔三州奥郡風俗図絵〕
出産
 江戸時代のお産は座産、すなわち座ってするのが常態だった。
(へそ)の緒は竹で切って産毛とともに紙に包んで保存し、後産の胞衣(えな)は太陽にあてることを忌み、産室の軒下などに埋めた。

座産
 農家では産婦が力綱をにぎって下半身に力をこめ、自力で分娩する図
〔三州奥郡風俗図絵〕

町屋での出産
 元禄頃上体をおこし力綱を用いての座産。
夜具の下に蓆がみえる
〔日本風俗史図録〕

産湯
 産湯は初湯とも記し〝あの世〟で休んでいた人間が現世に「復活」する儀式という意味がこめられているといわれる。
いずれにしても、生まれおちた赤ん坊は、さっそく産湯を浴びて、身をきよめられることになる。
安産のお守り
 大身の武家の産室における産湯の光景であろう。
産褥熱で母子ともに死亡することが多かったので、安産のお守りに神功皇后を祭ったという。
〔女重宝記〕

産飯
 嬰児への産湯が行われている奥で、出産が無事終了した祝いとして、産婦に産飯(うぶめし)が出されている。
〔百人女郎品定〕
(『近世女性生活絵典』原田伴彦、遠藤武、百瀬明治、曽根妙子 柏書房 1983年)
『近世女性生活絵典』の図は省略しますが、
三州奥郡産育風俗図絵」(国立国会図書館)で「産室之図(14/44)」などを見ることができます。

助産学科授業風景【大原神社 産屋見学】」(京都府医師会看護専門学校)
今朝の父の一枚です。
モズ♀に出会って写せたことを喜んでいました(^^)v

しばらくお会いできなかったリハビリ仲間の先輩に出会うことができました。
お聞きすると坐骨神経痛のために病院で注射とリハビリをしていたそうです。
来月にはリハビリが終わるので、また公園に来ることができるそうです。