2020年1月13日月曜日

風が冷たいけど

今朝は、時折吹く風が冷たかったですが、青空が広がっていました。
成人式を迎えられた若者を祝福しているかのようでした(^^)v
午後からの方が気温が上がっているはずなのに寒かったです。
先日から蜜が溢れているツバキを写していますが
今日は、別の場所でも見つけました(^^)v
チョットだけ指につけて舐めるとほんのり甘い。
メジロたちにとってご馳走ですよね(*´▽`*)
録画していた番組を見ました。
認知症の第一人者が認知症になった」(NHK)
認知症になって研究が完成すると、先輩医師から言われたそうです。
外からしか診ることができなかった認知症を
当事者として内から観ることができるという意味だと思いますが、厳しいな…
長谷川和夫さんが最後に仰ったのが
認知症になっても見る風景は変わらない

そして
SWITCHインタビュー 達人達「松坂慶子×秋吉敏子」
秋吉敏子さんの言葉
『まだまだ』はいつまでたっても『まだまだ』
前半は、アメリカで日本人で女性である秋吉さんが
アメリカのジャズ界で認められるまで
苦労を一杯されているのにお茶目で可愛かったです。
後半、秋吉敏子さんが足を組まれて対談されている姿に若いなと思いました。
松坂慶子さんの話し方を聞いているとほんわかしていいなぁ…
長谷川さんも秋吉さんも90歳になる。
再放送は、
長谷川さんの番組が総合16日(木)午前0時55分(15日深夜)~と
秋吉さんの番組はEテレ18日(土)午前0時~
昨日の続きを転記しますφ(..)

 (「その治政を『貞観の治』と称えられた 唐の太宗(たいそう) ●谷川道雄」より)
壮大な世界への道
(続き)
 しかしそれにしても、帝王としてこれほどきびしい道を歩んだ例は数すくない。
その理由はどこに求められるのであろうか。
(『集英社版人物中国の歴史6 長安の春秋』駒田信二編 集英社 1981年)
 貞観(じょうがん)4年(630)、政府は人民を動員して洛陽(らくよう)宮の整備を進めた。
太宗の行幸に備えるためである。
しかしそれが大がかりな事業になったので、張玄素が意見書を上呈した。
「かつて隋(ずい)が洛陽宮を営みましたときには、一本の柱を運ぶのに何十万という労力をかけるぜいたくを致しました。今また国家の財力が隋代と比較にならぬほど貧困なときに、かくも大量の人力を使ってあの隋のまねを遊ばすとは、煬帝(ようだい)よりもひどいではございませんか」
 太宗は腹立ちまぎれに言った。
「朕は煬帝にも劣るというが、それでは夏(か)の桀(けつ)王、殷(いん)の紂(ちゅう)王(いずれも暴君の代名詞)と比べてどうだ」
「もしこの労役をお止め遊ばさなければ、また内乱になりましょう」
 結局工事を中止したのであるが、「煬帝と変るところがない」「煬帝にも劣る」というのが、太宗には一番こたえる言葉であった。
臣下たちは最後にはこの手を使って太宗を諫めた。
太宗もまた、隋の遺臣たちが煬帝時代にどういう態度であったかを、折にふれて問うた。
それは必ずしも相手の非を責めるためではない。
それは、第二次大戦後の日本で戦争責任が論議されたのと、どこか似たところがある。
一人一人があの悪夢のような時代にいかに生きたか、そしていまどうであるかという反省を通して、そのような時代が二度と訪れないことを期したのである。
 その意味で、煬帝は貞観時代のいわば反面教師であった。
人びとが煬帝から受けた傷痕(しょうこん)はじつに深刻なものがあった。
まえに想像したところによれば、太宗自身も少年時代に深い失望を味わわされたのであった。
だが、反面教師とは、他人を悪人に仕立て上げて自分を免罪にすることではない。
自分にも同じ道をたどる可能性があり、それとの内なる闘いのために設定されるのである。
言いかえれば、煬帝と自分とは決して別種の人間ではないことを認識した上で、それと決定的に異なる道を歩むことを心に誓うのである。
 太宗はいちど煬帝の詩文集を読んでみたことがあるが、その作品はどれも煬帝の教養のひろさ、感情の深さを示すものばかりで、かれはすっかり感心してしまった。
こんなすばらしい賢人がどうしてあのような虐政の主となったのか。
この疑問に張玄素が答えた。
「人君たる者はいかに賢くても、おのれを虚(むな)しくして人を受け入れるべきであります。そうしてこそ人はその智謀と勇力をつくすものであります。ところが煬帝は自分の才能を鼻にかけて、我(が)ばかり通そうといたしました……」
 張玄素はまた別の機会に語っている。
「煬帝は政務をすべてひとりで処理し、群臣には任せようとしませんでした。そこで群臣は何ひとつ煬帝にさからわないようになってしまいました。しかしながら、たったひとりの人間の頭で、天下の政務を処理してゆくなどできることではありません。臣下は独裁君主の威光をおそれてその誤りを正そうともしませんので、結局亡国の道をたどったのであります……」
 これまで述べて来たことのすべてを、張玄素の言葉が要約しているようにおもわれる。
一人の人間の力は弱く、そこには限界がある。
かれがいかに豊かな才能にめぐまれていようとも、それは知れている。
煬帝は権力を用いて自我を世界の大きさにまで極大化しようとしたが、そう努めれば努めるほど、世界はかれから離れてゆき、最後には側近の手で弑(しい)されるという、あわれな最期を遂げたのであった。
  太宗はこの厳粛な事実を自己の原点とした。
かれは反対におのれを虚しくすることによって、壮大な世界を築き上げた。
大唐世界帝国は一人の帝王の自己との闘いによって創出された、と言うのは言いすぎであろうか。
もちろん、太宗のこのような意味での聡明さは、すでに生来のものであり、それはかれの軍事的成功に表わされている。
しかし若い太宗を帝王として鍛え上げていった臣下たちの誠実な努力も、決して見すごされてはならないであろう。
 こうして見ると、これら君臣を葬る九嵕(きゅうそう)山は、単なる貴人たちの共同墓地ではない。
世界の再建のためにたたかわれた、人間らしい戦いの巨大な記念碑と見るべきではないであろうか。
(『集英社版人物中国の歴史6 長安の春秋』駒田信二編 集英社 1981年)

唐太宗昭陵九嵕山遠望」(東京国立博物館)
転記しながら思ったのは、アメリカには大統領と違う意見を言える高官がいる。
だから、罷免される高官が次々と出てくる。
一方、日本では辞職する大臣などは不祥事で庇いきれなくなってしぶしぶ辞めている。
昨日、日蓮の「佐渡御書」のほんの一部を紹介しましたが
弟子の中に、日蓮のあまりにも戦闘的な態度を批判し、もっと柔軟な態度を取ろうといいだす者があり、……これはそれに対する痛烈な反撃の消息である。
と解説にありました。
政府与党に与(くみ)しているK党は、日蓮の教えを学んでいるはず
日蓮の教えを忘れるほど「権力の座」の蜜は甘いのだろうな…
今晩、100分de名著では「貞観政要 第2回 判断の座標軸をもて」が放送されます。
今朝の父の一枚です(^^)v
ジョウビタキ♂を写していました。
この子は、この辺りが縄張りのようです。