2020年1月24日金曜日

濃霧…

濃霧の朝…
来る途中、ライトをつけて運転しました(^-^;
昨日からの雨が温められて霧になったのだと思うけど
まだ1月だというのに暖冬の影響なんだろうな…
本当は、向うに大きなものが建っているのに…
河津桜も蕾が赤くなっていました。
昨夜のEテレ「デザイン トークス+(プラス)『杉』」(再放送、29日午前10時25分~)
現在の日本では、花粉症になどで嫌われ者になっているけど
神木として信仰の対象になってきましたし、
日常の暮らしなどに利用されてきました。
その杉の価値をデザインの面から見直そうと
活動している南雲勝志さんの話が興味深かったです。
日本全国スギダラケ倶楽部」があるそうでうよ(*´▽`*)

倶楽部が発行している「月刊杉WEB版」もおススメです(^^)/

スギやヒノキが全国で植林されたのは戦後の政策によってです。
日本国民が払わされかねない林業政策のツケ」(東洋経済)
政策の失敗によって日本の山は荒れてしまいました。
森林・林業とスギ・ヒノキ花粉に関するQ&A」(林野庁)
を見ても有効な手立てはないようです。
内閣の隠蔽体質は、
国民は、すぐに忘れると高を括っているからでしょうね。
それに加担しているのがマスコミなんだと思いますが…
戦前、私たちの毎日の生活にかかせない気象情報も報道管制の対象になっていました。
日本列島の四季――くらしと気象』から
天気予報は平和のシンボル」と「気象と戦争協力」を転記しますφ(..)

天気予報は平和のシンボル
 「気象」といえば、だれでも一番最初に思いつくのは天気予報です。
だが、戦時中はこの天気予報は軍から発表が禁止されていました。
 1945(昭和20)年8月22日、敗戦から一週間後のこの日、気象管制が解除され、久しぶりに天気予報がラジオから流れたのです。
敗戦直後の混乱と空白のなかで、家の外にもれるあかりと、このラジオの天気予報は、多くの国民に平和がやってきたという実感をもたせ、大きな話題になりました。
 戦時中の気象台や測候所では、戦場にかり出された男性のあとをうけて、女性や動員学徒が気象観測をしたり、天気図をつくったりしていました。
しかし、天気予報だけでなく、気温や風向、風速など、観測した結果でさえも、軍事上の機密として一般国民に知らされませんでした。
戦争のための「気象管制」がこれです。
 再開された22日の最初の天気予報では、残念ながら台風がくることを予測できず、豆台風が銚子から関東地方に上陸して不意打ちをかけ、平和のシンボルも黒星になってしまいました(『気象百年史』)。
 いま、ジェット機が飛ぶためには、高層の風の具合や気温を知ることが、運航や燃料の消費量からも重要です。
海上の船にはうねりや風の予報が欠かせません。
また、1980年は記録的な冷夏だったため、農家の人たちには、気温の長期予報が注目のまとになりました。
 夏休み中の子どもたちから、「いつになったらプールに入れるような暑い日になるの?」という問い合わせが気象台に相ついだのもこの年です。
(『日本列島の四季――くらしと気象』岡林一夫 草友出版 1983年)
 ところで、一口に天気予報といっても、いろいろなものが発表されています。
たとえば、災害が起こりそうなときに出される注意報や警報、週二回火曜日と金曜日に発表される週間予報から、数カ月先の長期予報まで。
なかでも一番多く利用され、みなさんの関心が高いのが短期予報といわれる「あす」「あさって」などの予報でしょう。
 とくに、朝に出される「きょう」の予報と、夕方の「あす」の予報は、ずばぬけて多く利用されています。
子どもたちが、「あすは野球の試合だ」「ピクニックへいくんだ」と楽しみにしているような週末の予報がはずれたときなどは、おしかりの電話がジャンジャンかかってきます。
これは予報官としてもつらいことなのです。
 「きょう」「あす」の天気予報に使われる言葉にはさまざまなきまりがありますが、案外正確には知られていません。
そこで、それをちょっと説明しましょう。
 「ときどき」と「一時」は似ているようですが、実際は図19(省略)に示したような違いがあります。
また、「きょう」というのは日の出から日没まで、「今夜」は翌日の日の出まで、「あす」は翌日の日の出から24時までなどです。
「朝のうち」というのは、日の出から9時ごろまでのことをいうことなども、あまり知られていません。
 こんなことを知っておくと、天気予報を見たり聞いたりするときに便利です。

図19天気予報に使われることば(図は省略)
晴れのちくもり
予報した期間の前半が晴れで、後半がくもりのとき
くもりときどき雨
1.予報した期間の1/2未満が雨のとき
2.予報した期間の1/4以上1/2未満が雨のとき
晴れ一時くもり
予報した期間の1/4未満がくもりのとき
気象と戦争協力
 1941年12月8日は、日本がハワイの真珠湾を奇襲し、太平洋戦争をはじめた日です。
 私は当時、京都の中学(旧制)4年生でした。
この日は、記憶ではたしか快晴の小春日和でした(あとで資料を調べて記憶にまちがいないことがわかりました)。
しかし、翌日の9日、近畿地方では12月にはきわめて珍しい大雨が降っています。
しかし、これは全然記憶にありません。
戦争がとうとうはじまったという鮮明な印象と、その日の天気だけおぼえていたのでしょう。
 この日から全国の気象報道管制が実施されました。
防災のため、暴風警報などの例外はありましたが、新聞、ラジオなどからは天気予報だけでなく、風や気温など観測資料もすべて姿を消しました。
ふたたびラジオから天気予報が流れはじめたのは、4年後の敗戦から一週間あとのことです。
 日本中の山という山には観測所がつくられ、どの測候所でも深夜まで観測がおこなわれましたが、すべては戦争のためで、国民の目にふれることはありませんでした。
 全国各地の多くの測候所は府県立で、中央気象台(いまの気象庁)の出先である支台と共存しているところもあり、国営一本化は懸案でしたが、戦争協力のため一挙に実現しました(1939年)。
陸軍や海軍の気象部も急速に拡充され、戦争協力のための気象の準備がすすめられたのです。
 『気象百年史』によると、海軍は開戦の年の夏からハワイ真珠湾近海の気象調査をはじめました。
当時、日本では外国の気象資料は不足していたため、千島列島南部から三陸方面にわたる移動性高気圧の東南東への移動に注目することで、ハワイの天気予報をおこなう方法を調査しました。
 ハワイ奇襲の機動部隊は、11月26日に千島の単冠湾(ひとかつぶわん)を出港して、ハワイ近海へむかいました。
航路は例年になくよい天気で、真珠湾上空だけ雲が切れ、機動部隊の気象担当者に「天佑(てんゆう)」といわせるほど、天気にめぐまれたようです。
 緒戦で広範囲にひろがった戦線は、大陸や太平洋の島じまに次つぎに測候所がつくられ、気象技術者が大量に養成されていきました。
日本国内の測候所では、軍隊へいった男子職員のあとをうけて、多くの女性が気象観測をやったり、天気図をつくったりしました。
 連合軍の反撃がはじまり、敗戦へとむかうと、のびきった戦線は次つぎと玉砕の悲劇をともなって縮小してゆきました。
私たちの先輩の多くの気象技術者も、太平洋の島や大陸、沖縄で亡くなりました。
 「有事立法」など戦争のにおいのする計画では、ふたたび気象事業や気象庁が戦争協力をさせられるようになっています。
予報官をはじめ気象台の多くの人は、戦争協力のためラジオやテレビから天気予報が消える日が二度とないよう、誓っています。
(『日本列島の四季――くらしと気象』岡林一夫 草友出版 1983年)
朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』より
朝鮮人を想ふ」の続きを転記しますφ(..)

   二
 誰も朝鮮史を繙く時、その暗黒な悲惨な時として恐怖に充ちた歴史に心を蔽(おお)はぬ者はないだあらう。
東洋の黄金時代―唐の朝に於ては朝鮮にも新羅の盛代があつた。
慶州を旅する者は奈良に行つて推古天平の昔を想ふのと同じ感慨があるであらう。
併し朝鮮史はかかる明るい時代にのみ活きてゐたのではない。
(『朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』日本民芸協会編 春秋社 1972年)
 寧ろそれは束の間であつて絶えまなく襲ふ外寇と、互に傷つけた内乱とで国民は休らう暇がなかつた。
後者は自身に罪があるであらうが、前者は忍ぶのに苦しい運命であつた。
歴史家はその国是を「事大主義」といふかも知れぬが、併し地理上よりしても受けねばならなかつた彼等の宿命は、吾〻には深い同情を誘ふのである。
 強大な粗暴な北方大陸の漢民族は、彼等のか弱い体には不可抗の圧迫であつた。
彼等は絶え間ない掠奪に加へて、貢により使によつて身にしみる屈辱を余儀なくされた。
併し彼等は自由な独立の呼吸を許さなかつたのは只残忍な北方の大国のみではなかつた。
実にか弱い彼等を尚苦しめたのは吾〻の祖先であつた。
歴史家はよく「朝鮮征伐」を一国の勇敢な記録でるかのやうに語るが、それは只古代の武士が彼等の征服欲を満たすために意味なくして企てた罪深い行ひであつた。
私はかかる遠征を一国の名誉ある物語とは思はぬ。
況んや今日朝鮮の古芸術即ち建築や美術品が殆ど廃頽し破壊し盡されたのは大部分実に怖るべき倭寇の行ひであつた。
支那は朝鮮に宗教や芸術を贈つたが、それを殆ど破壊したのは吾〻の武士であつた。
是等の事実は朝鮮の人〻には骨身にしみた怨みであつたであらう。
併し国家は短く芸術は長いのである。
勝ち誇つた吾〻の武士に対してよりも、僅かに残された彼等の芸術に未来の愛は集まるであらう。
勝つのは彼等の美であつて、吾〻の刃ではない。
 今日朝鮮人の間に伝へられる美談、即ち義士とか忠臣とか烈女とかの古い物語は、殆ど全く倭寇に対して勇敢に抵抗した人〻の話のみでると聞いてゐる。
今総督府が朝鮮人の学校で歴史を教へない事実も、右の罪が吾〻にあるからである。
(私は私の知る日本の或歴史家が近く朝鮮人に読ます特別の歴史教科書を編纂してゐるのを知つてゐる。特別とはいふまでもなく日本が嘗て朝鮮を苦しめた部分を歴史から削り取る事を指すのである)。
私は私の旅行中朝鮮の家屋に貼りつけられてある乃木大将の肖像を見た。
或人の告白によれば之は取りはづしたいのである。
若し乃木大将に範をとるなら、必然乃木大将の如き義臣たるために日本には反抗すべきだからである。

吾〻の或者が所謂義臣を好んで祭り乍ら、傍ら朝鮮人の反抗心を罵るのは、丁度何人も義臣になつてはならぬといふのと等しい。
吾〻は説明出来ないディレンマに陥り乍ら、様々な詭弁によつてその矛盾した態度を弁じようと企ててゐる。
我〻日本人が今朝鮮人の立場にゐると仮定してみたい。
恐らく義憤好きな吾〻日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であらう。
或道徳家はこの時こそ志士、烈女の理想を果す時だと叫ぶであらう。
わがことならぬ故に、只それを罵るのである。
私はかかる反抗を賢い道だとも又賞むべき態度だとも思つてはゐない。
併し彼等を只罵り、尚もそれを拘束する態度を、矛盾に充ちた醜い愚かな狭い心に過ぎぬと思ふのである。
吾〻の態度に矛盾がないとどうして言ひ得よう。
今の世では政治は道徳の域にすら達してゐない。
併しこれが政治の弁解とはならぬ。
却つて意識すべき耻辱(ちじょく)でなければならぬ。
反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾〻である。
血の流れを見るが如き暴行を人は如何なる場合に於てもなしてはならぬ、併しこれと共に圧制によつて人〻の口を閉ざす如き愚かさを重ねてはならぬ。
かかる事を嘗て一度も如何なる処に於ても真の平和と友情を齎した場合がない。
刃の力は決して賢い力を生まぬ。
(『朝鮮とその芸術 新装・柳宗悦選集4』日本民芸協会編 春秋社 1972年)
今朝の父の一枚です(^^)v
σ(^-^;の最初の画像で見えなかった風車を写していました。