2019年7月6日土曜日

汗をあまりかかなかった(^^)v

風が吹いているためか
蒸し暑さがやわらいであまり汗をかかなかったです(^^)v
昨日、訪ねた芝川ビルの住所が「伏見町」でした。
大阪なのに伏見町となっていることについて
県史27 大阪府の歴史(第1版)』より転記したいと思います。
また、図書館の展示で知った北山寿安のことも調べてみました。
1 城下の復興・整備 
 松平忠明の入部●
 大坂城落城によって戦火がおさまった
翌日の元和元(1615)年6月8日、
将軍徳川秀忠(ひでただ)は外孫の
伊勢亀山(かめやま)城主松平忠明(ただあきら)
摂津・河内両国のうち5万石を加えて10万石とし、
大坂城主に起用して戦災の復興にあたらせた。
(『県史27 大阪府の歴史(第1版)』
  藤本篤他編著 山川出版 1996年)
 期待されて着任した忠明は、
まず戦塵を避けて東天満(ひがしてんま)・船場(せんば)
西船場から離散した町人らを引きもどし、
荒れ地を整備して家をたてることを命ずるとともに、
大坂城地のうち本丸と二の丸とを残し、
広大な三の丸の地には新しく市街を開くことを考えた。
しかし、天満や船場の人びとを移しただけでは
十分な市街地にはなり得なかったため、
あらたに伏見(ふしみ)町人らの移住を求めた。

もともと伏見の町は城下町として繁栄し、
徳川家康も伏見城によって大坂城に対抗したところでもあったが、
大坂を支配地とした幕府は、もはやその価値を重視せず、
城代さえ廃止するほどであったから、
その将来に見切りをつけていた八十余町の伏見町人らは、
忠明の招きに応じ旧大坂城三の丸の新天地に集団移住をした。

 このときできた新市街地の名称は伏見の旧町名を残したり、
または町名のうえに「伏見」の二字を冠したりした。
宝暦3(1753)年9月、
大坂町奉行の命により大坂三郷の起源や行政組織の来歴、
町名の沿革などを書きあげた
『初発言上(しょはつごんじょう)候帳面写』には、
伏見から移転した八十余町のうち64町の名がのせられている。
それらのなかで伏見の名を残しているのは、
伏見町・伏見両替町・元伏見坂町・
玉造(たまつくり)伏見町だけであるが、
注記によって常盤長四丁目は元の伏見立売(たちうり)町、
江戸町は伏見江戸町、和泉町は伏見和泉町、
小倉町は伏見大黒(だいこく)町、徳井町は伏見権助(ごんすけ)町、
松江町は伏見納屋(なや)町、五幸町は伏見町、
葭屋(よしや)町は伏見葭屋町、
桑名町は伏見伊勢町であったことがわかる。
(『県史27 大阪府の歴史(第1版)』
  藤本篤他編著 山川出版 1996年)
 北山寿安(きたやまじゅあん)
 大阪の道修町(どしょうまち)は、薬の問屋街として全国に知られる。
なぜこんなに多くの薬問屋が集まったかといえば、
偏屈医北村寿安がこの地で開業したからだという俗説がある。
寿安の父栄宇は中国人で明時代の薬種商、
戦乱を避けるため長崎に渡り、日本女性と結婚し寿安を得た。
幼い頃から聡明で父から製薬を、
父の友人の医師僧化林、独立の二人から、中国の新医学を学び、
小倉侯の招きを断って大坂に来て、道修町で診察した。
(『大阪人物辞典』三善貞司 清文堂出版株式会社 平成12年)
当時古くさい漢方に頼っていた大坂では、彼の新しい医術に感嘆し、
いつしかどんな難病も治るとの風評が立って、
身分の上下を問わず多くの患者が押しかけてくる。
江戸期の大坂には偏屈医の誉れの高い仁医が多いが、
寿安はその最右翼であった。
富裕な患者からは礼金が少ないと声を荒げて大金をとりたて、
貧しい人には治療費をとるどころか薬袋に小判を入れて渡し、
お前の病気は栄養不足じゃ、
これでうまいもんを食えば治るわいと大笑いする。
ために大人気で、ますます繁盛するわりに収入は一向に増えなかった。
しかも高価な薬を惜し気もなく使うものだから、
いつも借金取りに追いまくられる。
ある時、どの医師からも見放されていた尾張の殿様の難病を、
見事に治してやった。
久しぶりに莫大な金銀を手に入れると、
借金取りよ、遠慮なく持っていけとの内容を張紙し、
大きな樽に小判を入れて玄関に置いた。
たちまち証文の山に変わるが、
彼の人徳からか弟子が収支決算したところ、
一文の誤りもなかったという。
寿安は父から薬草の秘術を教え込まれたが、
それを少しも隠そうとはしなかった。
当時の医薬界には一子相伝の秘法が多いだけに、まことに異例だ。
そこで薬草の調合法を教えてもらおうと全国から薬種商が殺到するが、
順番待ちのため医院の近辺にまず住みついた。
これが薬問屋街道修町の起こりであると伝える。
道修町といえば、
町中にある少彦名(すくなひこな)神社(中央区道修町2丁目)は、
「神農(しんのう)さん」と呼ばれて、大阪では有名な神社である。
これも寿安が死んでから、
彼が肌身離さず持っていた
父親譲りの中国伝来の神農氏像(中国の薬祖)を祀ったのが始まりとされる。
「今日一日を大切にせよ。これが大事だ。
 しかるに人は明日に心を奪われ、今日をおろそかにする。
 明日は明日はと心配すれば何もできぬ。
 昨日のことも忘れろ。どうにもならぬだ。
 今日一日に全力を尽くせ」。
これは『一日暮し』と題した彼の文章の意訳である。
他に『北山医案』『北山医話』『首書医方大成論抄』など著作も多い。
元禄14年(1701)3月3日寿命の尽きるのを感じた彼は
「太平寺」(天王寺区夕陽丘町)に、
かねて用意した石不動を運び、大きな穴を掘らせた。
平素から「わしは不動が大好きだ」といって、
自分の身長と等身大の不動尊を彫らせ、
裏に自筆で
「爾生前是誰 吾死後是爾 截断死和生 爾吾空也耳」
と記していた。
門人たちが涙声で止めるのも聞かず穴に入った寿安は、
わしの声が聞こえなくなったら、土で埋めよ、
そして上に不動を置けと命じた。
しばらく読経の声と鉦を叩く音がするが、
同月15日物音一つしなくなったため、
泣きながら人々はこのまま埋葬したと伝える。
行年不詳。
その後、いつしかこの不動尊に供えた水が、
眼病に利くと風説が流れた。
古書に「北山のおこう水」とあるのが、それである。
また不動が背負っている火炎が、
風に吹かれているようにも見えたので、
「風吹き不動」とも呼ばれていた。
現在の不動は火炎がとれ、
同寺も戦災に逢いしばらく野ざらしのままだったが、
近年美しく整備されている。
なお寿安の孫に当たる北山寒厳は、
山水人物画に秀でた画家で、門人に谷文晁がいる。
江戸時代の文人西沢一鳳の文章の一部を意訳しておく。
「寿安が諸国を遊歴していた頃、津波にあった。
 了海という禅僧が人々が逃げ惑うなか、
 これ天命なりと坐禅を組んで動かず水死した。
 ところが翌日浜辺に打ちあげられ、
 まだ暖かいようだと村人は寿安に診療を乞うた。
 ところが寿安はこの方は天命を知って往生なされた、
 今さら医薬で蘇生さえると本意ではないだろう、
 天命に背くことになるからとて手当をしなかった。
 またある時石田某という鉄砲の師匠の病気を診察し、
 三和散を用いましょうといった。
 石田はこれ迄三和散を服用したが利きません、
 他の薬にして下さいというと、
 あなたは鉄砲の名手だそうだが、
 同じ筒に同じ玉薬で同じ的を狙っても、
 弟子とは違う結果が出るはずだ、
 薬も同じで三和散を使っても私のは利き目があると服用させた。
 そうすると日ならずして全快した」。
(『大阪人物辞典』三善貞司 清文堂出版株式会社 平成12年)
くすりの道修町資料館を訪ねたときは(2018年10月26日
道修町がくすりの町と言われる様になったきっかけは、
 寛永年間(1624~1644)に堺の商人小西吉右衛門が
 道修町1丁目に薬種屋を開いたこととされています。

と書かれていました。
時々近くまで行きながら知らなかった
大平寺の北山不動明王にも会いに行きたいです。
今朝の父の一枚です(^^)v
蓮の花が咲いているのも撮っていましたが
これが面白いといったのでプリントしてあげました。