2019年7月12日金曜日

梅雨寒かなと思ったら…

5時前にガラス戸を開けるとヒンヤリとして
雨の後の梅雨寒かなと思ったら
なんのなんの風がほとんどなくて蒸し暑かったです!
8時前に歩きだしたのですが湿度が90%前後だった(^-^;
(大阪)毎正時の観測データ」(気象庁)
坂東の風雲児●平将門」(林睦朗)の続きを転記しますφ(..)
平氏一門の私闘
 都での立身出世を断念して坂東に帰った将門は、
一族の内紛に巻き込まれた。
ことの原因についての詳しい事情はわからないが、
女性問題と土地争いというとかくありがちな事柄であった。
将門に私怨(しえん)をもった外戚(がいせき)
前常陸大掾(さきのひたちのだいじょう)源護(まもる)の子息たちが、
筑波山(つくばさん)の西、野本(のもと)付近で
将門を待ち伏せて襲いかかったのが合戦の端緒となった。
この戦いで、仕掛けた扶(たすく)・隆(たかし)・繁(しげる)という
護の子息たちは逆に殺され、
これに協力した将門の伯父平国香も敗死したのであった。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)

・「とかく」に脇点(、、、
 その後、子息を失った護は将門を朝廷に告訴し、
護の女婿(じょせい)で国香の弟の良正(よしまさ)
これに同情して将門を討つための兵をあげるが、逆に敗北する。
一方、都で仕官していた国香の子貞盛(さだもり)は、
父の死をきいて帰郷したが、
なかなか父の仇(かたき)を討とうとはしなかった。
都での出世を第一に考えていた貞盛は、
在地での私闘の深みにはまりたくない気持があった。
  国香の没後、
一族の惣領(そうりょう)格で現職の下総介でもあった良兼は、
はじめ積極的な動きを示していなかったが、
やがて良正の説得によって反将門の中心となり、
これに躊躇(ちゅうちょ)していた貞盛も加わり、
ここに将門の孤立化をはかりながら一門は結束して戦線を統一していく。
こうして将門は一族の大部分を敵にまわして戦いがくりかえされる。
小飼(こかい)の渡(わた)し、
ついで堀越(ほりこし)の渡しで将門は破れるが、
再起して筑波山麓(さんろく)では良兼らの軍をうち破る。
この後も戦いは続くが、形勢は将門の優勢裡(り)に展開した。
 こうしたなかで一門私闘の泥沼に身をおくことを
不利と考えた貞盛は上京をはかった。
これを察知した将門は、
貞盛の都での讒言(ざんげん)を危惧(きぐ)してただちに追跡し、
長駆して信濃国千曲川のほとりで追いつきこれを撃破した。
こうした迅速な追撃が可能であったのは、
馬の機動力によるものであり、
「僦馬(しゅうば)の党」の伝統でもあったろう。
しかし執拗な将門の追跡にもかかわらず、
貞盛は好運にも都にたどりつくことができた。
 こうように将門の行動をみてくると、
それは一貫して一族間の私闘であり、
国家権力への叛逆という要素は全くみられない。
むしろ将門は公的紛争を避け、
公権力に順応しようとする態度さえみられるのは注目すべきであろう。
たとえば下野国の国府の合戦での将門の態度である。
将門は国府に逃げ込んだ良兼らを完全に包囲しながら
国府攻撃を避けて良兼らを逃がしてやり、
国府の日記に敵方の不法のさまを書きとどめている。
また源護の告訴により朝廷から召還をうけると、
将門はいち早く上京して弁明しているし、
その後、逆に良兼らの不法を訴えて
良兼・貞盛ら追討の官符(かんぷ)をさえうけているのである。
  このように将門は公的紛争への拡大を避けようと努めているのであった。

武蔵の紛争に介入
 一門の私闘がいつ、
いかなる条件で将門の叛乱といわれるようになったのか。
そこでクローズアップされるのが武蔵国の紛争への介入と
常陸の藤原玄明(はるあき)事件である。
とりわけ後者は将門の国府占拠ということに発展したので重要である。
 まずはじめの武蔵国の紛争であるが、
これは在地豪族である足立郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)
同国の権守興世(ごんのかみおきよ)王・
(すけ)源経基(つねもと)との対立であって、
『将門記』はこれを良吏と悪吏、
善玉と悪玉の対立としてえがいているが、
この当時各地にみられた
豪族による国衙反抗という要素もあったかとみられる。
将門はもちまえの「侠気(きょうき)」から武芝の窮地を察し、
この争いを鎮(しず)めようとして介入する。
その結果、武芝と興世王との和解は成立したが、
経基との和睦(わぼく)は失敗した。
そして逆に経基に訴えられることになる。
さらに意外にも権守興世王が新任の守百済貞連(くだらのさだつら)と対立して、
結局将門のもとに身を寄せることとなる。
このようにして将門は悪玉興世王を保護するはめになるが、
これが将門の今後の方向を狂わせる要因になる、という筋書きである。
『将門記』の作者としては、
将門を叛乱の方向にむかわせた元凶としての
興世王と次の藤原玄明の極悪ぶりをえがくことと、
「窮鳥(きゅうちょう)ふところに入れば……」という
将門の「俠気(きょうき)」ぶりを強調することに主眼があったのであろう。
( 「はめ」に脇点「、、」)
これが『将門記』作者のアングルといってよいが、
これとは別に、研究者のなかには、将門が民衆の味方であり、
国衙に反抗する闘争の要素をこの事件にみいだそとする角度もある。
しかし、将門が肩をいれた善玉であり反国衙の闘将である武芝が
その後の将門陣営に姿をあらわさないという事柄をこの角度からは理解しがたい。
 私は将門がこの事件に介入した主たる契機は別にあったと推測している。
それは『将門記』作者とは別のアングルなのであるが、
権守興世王のほかに存在した武蔵国の正任の守藤原維幾(これちか)の役割である。
維幾は事件の前々年たる承平(しょうへい)6年(936)に武蔵守となり、
事件後に新任された百済貞連にかわって常陸介に転出するのであり、
その常陸在任中に次の藤原玄明事件がおきたのである。
このことは意味深長な条件といわねばならない。
  そのうえ注目すべきことは、
この維幾は実は将門の祖父高望(たかもち)王の
娘(つまり将門の叔母)を妻としており、
その間に一子為憲(ためのり)をもうけていることである。
すると維幾は平良正や良兼らと義兄弟になるわけである。
当時の武力結合は族縁的な結合が中心であったこと、
将門が良兼・良正ら平氏一門のほとんどと
敵対していたことなどを考えると、
維幾は源護と全く同様な意味で良兼らと親密な関係、
つまり将門と敵対関係にあった可能性は強い。
そしてこれは単なる推測にとどまるものではなく、
維幾の次の任地常陸では将門の宿敵貞盛をかくまい、
子息為憲はその貞盛と共謀して
将門に戦いを挑(いど)んでいるという事実は重要である。

 このように常陸国における将門と維幾・為憲父子との鋭い対立、
その伏線としての要素が、
実は武蔵国紛争への将門の介入の契機としてあったのではないか、
と私はみる。
つまり、この事件は将門にとっては、
一族私闘の延長線上においてとらえられるような種類のもの、
という理解が可能だと思うのである。
(『人物群像・日本の歴史 第4巻 貴族の栄華』学研 1977年)
 かわいい雄しべの秘密
 (ツユクサの)花は、ちょうど2枚貝のようにたたまれた
包葉(ほうよう[苞(ほう)ともいう。花に付随した特殊な形の葉])の間から、
毎朝ひとつずつ(まれに2つ)顔を出す。
 花びらは3枚。
ミッキーマウスの耳のような形に広がる2枚が大きくて青く、
下の1枚はごく小さく白い。
 雄しべは6本。
2本の雄しべは雌しべとともに長く前方に突き出されているが、
茶色であまり目立たない。
短い3本の葯(やく[花粉袋])はX字型をしており、
花の中心で黄色く目立つ。
そして残る1本は両者の中間の位置にあり、
Y字型で、色も黄と茶の中間だ。
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【春夏篇】
  多田多恵子 ちくま文庫 2019年)

  花の多くは雌しべと雄しべの双方をもつ両性花だが、
中には雌しべを欠く雄花も混じっている。
両性花が実を結ぶには多量のエネルギーを費やすが、
雄花が花粉をつくるだけなら少量ですむ。
エネルギーを節約し、花粉をばらまいて
あわよくば父親として子孫を残そうとする花のたくらみだ。
  ところで、目立つ3本の短い雄しべは、
実際は花粉をほとんどつくらない。
ほんの少し出す花粉は中身がからっぽの偽物だ。
虫を誘うための「飾り雄しべ」(仮雄しべ、仮雄蕋[かゆうずい]とも呼ぶ)なのである。
花粉を出す役割は長くて地味な雄しべが請け負っている。
中間の雄しべも花粉を少し出し、長い雄しべとともに、
目立つ飾り雄しべに口を伸ばす虫のおなかに花粉をそっとつける。
 一般に、花を訪れる虫は、蜜と同時に花粉を食料として利用する。
植物によっては蜜をつくらず、
虫に花粉だけを提供している種類もある。
しかし花にしてみれば、
花粉には卵細胞に精核を送り込んで
子をつくるという重要な任務があるので、
多量に食べられてしまっては困る。
花粉の製造には貴重なタンパク質や核酸を要するので、
コストの面でももったいないのだ。
そこでツユクサは「飾り雄しべ」を用意し、
たんまり花粉があると見せかけて虫を誘う。
(だま)された虫が長い雄しべや中間の雄しべの花粉に触れて
次の花の雌しべに運んだとき、花は目的を成就する。
(『したたかな植物たち―あの手この手の㊙大作戦【春夏篇】
  多田多恵子 ちくま文庫 2019年)