2019年7月16日火曜日

青空が見えました

今朝は、青空を見ることができました。
いっぽう
日照不足で各地に影響 東京都心は日照3時間未満が20日連続

身近な気象の科学 熱エネルギーの流れ』に
興味深いことが書かれていたので転記しますφ(..)
18.4 気候と日本の経済
 第2次大戦終結後、日本は世界が驚くほどの速さで復興した。
多くの人々は、その理由をいろいろあげている。
しかし筆者は、その大きな理由として終戦と同時に日本、
特に東北の気候がよくなったことを無視することができないと考える。
戦後から昭和54年までの34年間、
じつは、大冷害が起こるような冷たい夏が一度もなかったのである。
(『身近な気象の科学 熱エネルギーの流れ
  近藤純正 東京大学出版会 1987年)
農業技術の進歩のほかに、
気候がよかったこともあって米の生産量が上がり、
これが経済状態をよくしたと考える。
育苗に温室を利用して稲の生育期間を1ヵ月多くしたことや、
戦争中爆弾や毒ガスをつくっていた技術が
化学肥料をつくるようになったこともある。
(経済成長の中で特需景気、神武景気、岩戸景気といわれる
3大期のいずれもその最初の年は東北の夏が暑く豊作であった。
昭和36~38年の岩戸景気は最大の高度経済成長といわれている。)
 気候がよいと、米の生産が上がり農業労働力に余剰ができ、
労働力が都市工業地帯に流出し、工業発展と経済成長につながる。
そして、農村も経済的な余裕で機械化が進み、
10日かかった農作業が1日で済むようになる。
すると農家の長男まで農業以外の職業をもてるようになり
兼業化が進んだ。
もちろん高価な農業機械の購入費を支払うために
外へ働きに行かざるを得なくなった面もある。
このようにしてよい気候条件が日本の経済発展を促進したと思う。
 米の単収は明治時代から増加の一途をたどっている。
その増加直線の中に折れ目すなわち
成長率が急に大きくなった時代が2つある。
その第1回目が明治20年代、
第2回目が上述の終戦から約10年目である。
第1回目のときは、産業革命の時代と呼ばれている。
2回とも農業生産と工業化が連動していることは同じである。
 明治20年代は東北の気候がよく米の生産量が上がり、
さらに作付け面積も増えたこともあって、
日本は米を輸出するほどであった。
ところが、明治35、38、39、大正2
(1902、1905、1906、1913)年は東北で大凶作が続き、
米を輸入しなければならなくなった。
 これらの大凶作群発生の後は、
しばらくよい気候が続き米の国内需要はほぼつり合っていた。
そのころ、外国から米を輸入するようではいけないという意見が出て、
北海道まで作付け面積が急速に拡大した。
大冷夏もなかったので冷害危険地帯まで稲作面積を拡大したのである。
北海道における稲作面積の拡大化のもう1つの理由として、
他の異常気象がからまっている。
明治38年の大冷害で、
特に宮城県では台風による水害も重なり
米が平年の12%しか収穫できず困窮した人々が20~30%も出た。
そのため宮城県からも多数の人々が北海道へ移住した。
 話をもとに返すことにしよう。
上記のように、大正時代には稲作を冷害危険地帯まで拡大した。
ところがその後で、気候は低温時代に入り、
昭和6、9、10、16、20年に大冷害に襲われた。
昭和9年の大冷害は、
農村の娘たちの身売りという悲惨な事態まで引き起こした。
 そして終戦後気候は好転し大冷害はなくなった。
人々は、大冷害がなくなったのは
農業技術の進歩によるものと考えるようになった。
東北地方の寒冷地(冷害危険地)には
江戸時代から大根をつくるようにとの教えがあった。
これは、いわゆる「大根めし」と関係がある。
岩手県東北部に軽米(かるまい)という地名があるように、
米をつくるには危険な地域である。
このような地域まで稲作が再び急速に拡大していった。
そして昭和55年からの大冷害をこうむった。
気候変動が産業・経済・社会の変動と
密接に関係してきたように思われる。
 コメの単位面積当りの収量(単収)は時代とともに増加し、
現在は明治時代の3倍以上になった。
この増加は農業術の進歩によるものと考えてよい。
一方、作況指数と夏の平均気温との関係が昔も今もほとんど変わらず、
同じマイナスの気温偏差に対して
同じ減収率を示している(図18.2[省略])のは、
広い意味での農業対策が冷害をまだ完全に克服していないといえる。
その理由は、新しい耐冷品種が見出されると
それまでの冷害危険地にまで稲作拡大化をし、
冷害を覚悟で栽培するからである。
しかし、もし東北地方で、
冷害とそれを克服する努力が繰り返されてこなければ、
今日の増収は生まれていなかったではないだろうか。
米はもともと南方の産物であるのだ。
今日の東北が日本の穀倉地帯と呼ばれるようになったのは、
このような努力によると思われる。
 米の増産努力が続けられ、米の生産は需要を上回るようになった。
さらに人々の食事の摂り方に変化が生じ、米が余るようになった。
大正時代から昭和のはじめにおける国民1人当り年間米消費量は
約160㎏であったが、最近は約80㎏に半減した。
その結果、稲の作付け面積は削減せざるを得なくなった。
稲の作付け面積はこの20年間に
全国で約30%も減少した(図18.3[省略])。
その分は相対的に畑作物が増加することになる(図18.4[省略])。

 ここで注目すべきは、現在の稲作は耐冷性にではなく、
商品価値の高い、いわゆる銘柄米づくりに重点を置く傾向にある。
銘柄米は必ずしも耐冷品種ではないので、
今後も気候変動による冷害は避けられそうにない。
  作物が不作になると困るのは農家だけではない。
直接的には、たとえば、
農業収入が減少すると農業機械の購入が少なくなり、
機械産業業界が打撃を受ける。
ちなみに1985年の国内用農機具の総売上高は5千億円であった。
デパートの売上高も減少する。
そして、これらは回り回って、
いわゆるフィードバック過程をとおして国の経済活動に影響する。
(『身近な気象の科学 熱エネルギーの流れ
  近藤純正 東京大学出版会 1987年)
用水路の水の中で何か動いているのでのぞくと…
二匹のアメリカザリガニが
寿命がつきて水に落ちたクマゼミの取り合いをしていました。
右側のアメリカザリガニが勝ち取ったようでしたが
左側のアメリカザリガニも何やらクマゼミのお尻あたりから
白い物を引っ張り出していました(内臓?)

アメリカザリガニの交尾」(動画 小学6年)

クマゼミの羽化」(動画 小学3年)

気になるニュースが
『手足口病』流行拡大 過去10年で最多に
そして
矢野顕子さんがリツイートしていた動画が
とっても素敵でしたよ(*´▽`*)
youngbulliesさんのインスタグラムも必見です(^_-)-☆