2019年7月5日金曜日

芝川ビル~中之島図書館~難波橋

父の歯科受診の付き添いの後、
電車に乗って淀屋橋駅で下車
朝ドラにも登場したビルを見に行きました
(と言いながら番組は見てませんが…)
芝川ビルの玄関の壁
 レトロビルに残る被弾あと
●大阪市中央区伏見町3-3-3
●地下鉄・京阪「淀屋橋駅」から南へ
 市内北浜・船場一帯はビジネス街としてのにぎわいは少し影をひそめたとしても、
いまも大阪の商業の中心地の一つです。
明治期から昭和のはじめにいたる時期に、活発な商業活動を反映して、
近代建築のすぐれた作品が数多くつくられました。
その一部は空襲に耐えていまでも残っています。
 その一つに中央区伏見町の芝川ビルがあります。
江戸時代に唐物貿易にたずさわった豪商・芝川家四代目当主が、
1923年の関東大震災を目の当たりにして、
「火事・地震に強い建物を」と1927年に新築したものです。
1929年から1943年まで、「芝蘭(しらん)社家政学園」という私学がここで営まれ、
3000人を超える「いとはん」たちが学びました。
 玄関のまわりの壁にマヤ・インカ文明を思わせる
彫りの深い濃密な装飾が施されたユニークな建物で、
国の有形文化財に登録されています。
その玄関の上部あたりをよく見ると、
装飾が欠けたり、表面がえぐれたりしているのに気がつきます。
これは、1945年の空襲で焼夷弾を被弾したためだといわれています。
 当時、伏見町は東区の一部でした。
東区は、3月13日、6月1日・15日に爆撃されました。
この弾のあとは、そのいずれかの空襲によるものと思われます。
せっかくのユニークな飾りが傷ついて、嘆いているようですが、
こんな意外なところにも戦争の爪あとが残されていることに感慨を覚えます。
(『大阪戦争モノ語り』森田敏彦 清風堂書店 2015年)
 来館者を迎えるプレート
館内8カ所でQRコードから解説をご覧いただけます。」

芝川ビルのサイトには歴史などが書かれていますので
参照してください。
開店前に着いたので入店できなかったけど
地下の「 Mole」でコーヒーを飲みたかったな…
ビル内には面白そうなお店がありますよ!

ところで芝川ビルは「伏見町」にあるのですが…
京都の伏見と関係あるようです(^^)v
後日、紹介したいと思いますφ(..)
高村光太郎の「みちのく」は1953年に制作されたんですね。
σ(^-^;が生れたと年だ!
(この像は、平成6年に設置されています)
御堂筋彫刻ストリート」(大阪市)
市役所の地下食堂で昼ごはんを食べました。
カレーライスに+「冷やっこ」と「マカロニサラダ」で
合計626円(税込み)と安くておいしのですが、
土、日、祝日はしてない(T_T)
カレーを食べながら近くのレストランで
不愉快な思いをしたことを思い出してしまった。
4月にこのレストランの開店前に並んでいた。
掲示板に館内の入り口にまわるようにという注意書きを見落としていて
(その時は、ガラス戸に貼っていたと思う)
開店時間になっても入店できなかった。
ガラス越しにお客が入っているのが見えたのだけど
予約をしている客かなと思って待っていた。
スタッフも見えていたはずなのに
(こちらを見ている姿が見えた)
他のお客さんがみかねて教えてくれました。
今まで数回利用したけど、こちら側から入店していた。
そのことをスタッフのチーフのような男性に言うと
「書いていますよ」の一言。
注文もなかなか来てくれないので声をかけた。
カレーは美味しかったけど、接客態度にもう二度と利用しない。
経営者が変わる前は、
もっとスタッフがにこやかに応対してくれていた。
正直な気持ち、こんな営業妨害のようなことは
書きたくなかったのだけど…
食べログの口コミの中にもスタッフの対応に
不満を抱いた投稿者もいるけど…
 特別展「江戸時代大坂の医学と医療」を見ました。
展示品は撮影禁止。
今まで知らなかったことがたくさんあり、調べたいことが出てきました
資料室で本を見ながら転記していましたφ(..)
睡魔との格闘で間違いが多そうです(^-^;
重要文化財 国指定昭和49年5月21日
  大阪府立中之島図書館
   本館左右翼 三棟
この建物は 住友吉左衛門が図書館として本府に寄付されたもので
住友本店技師長野口孫市氏及び技師日高胖氏の設計監督のもとに
明治33年に着工、同37年1月に竣工したものである。
 建物は、煉瓦及び石造3階建てで
中央に円屋根を付けた十字型平面の本館と
左右翼(大正11年増築)からなっている。
 外観では高い四本の柱の列立する正面ポーチと
その後方に挙げられた円屋根が意匠の要であり、
内部では、半球形のドームを頂く円形ホールがもっとも特徴的である。
全体としてネオ・バロック様式の傾向が見られるが、
これをよく消化して独自の造形美を形成しており
明治時代の日本人建築家による極めて水準の高い作品である。
  大阪府教育委員会
大阪・サンフランシスコ姉妹都市提携50周年記念」(平成21年7月)
とあったのですが、今はどうなっているのかな?
五代友厚の姿が見える。
通称ライオン橋とも言われる難波橋は、公儀橋の一つでした。
難波(なにわ)
(…略…)
橋詰の親柱に四体の阿吽(あうん)形のライオン石像(天岡欣一作)が
デンと構えているところか〝ライオン橋〟の名で親しまれる《難波橋》が、
土佐堀川・中之島・堂島川を跨いで架かっている。
最初の難波橋は天平時代に僧行基(ぎょうき)が架けたといわれるが、
江戸時代には幕府の公儀橋として、
天神橋・天満橋と並ぶ「浪華三大橋」と呼ばれた。
橋の界隈は蔵屋敷が多く、それを取り巻く問屋街は繁栄を極めたが、
一方、行楽地としても賑わい、大川端は夕涼みの名所として知られた。
 明治時代までは少し西にあったが、
大正4年(1915)に堺筋の市電開通に伴い現在地に架け替えられた。
ライオン像もこのとき設置されたものだが理由は不明。
 江戸時代の橋は舟運を考慮して桁下を高くしたため反りがきつく、
その分、橋の上からの景観は抜群で橋上から十六の橋が見渡せたといわれ、
『浪花のながめ』には
「西ひがし みな見に きたに なには橋 すみずみかけて四四の十六」
という狂歌が載せられている。
天岡欣一はこの狂歌かの〝四四〟から〝獅子〟、
即ちライオンを発想したのだという話も語られている。
(『史跡名所探訪 大阪を歩く〔大阪市内編〕』林豊 東方出版 2007年)
渡辺津から世界遺産熊野古道へ
 平安時代後期(12世紀頃)から熊野参詣が盛んになった。
 白河上皇や鳥羽上皇は鳥羽離宮(現在の京都市城南宮あたり)で
身を清め道中の無事を祈願した後、京を出立。
淀川を舟で下って渡辺津(現在の天神橋のあたり)で上陸し、
熊野街道を通って熊野三山(和歌山県)へ、往復一ヶ月ほどかけて参詣した。
 熊野本宮・新宮・那智のいわゆる熊野三山への路は右図のように、
メインルートの中辺路のほか、大辺路・小辺路・伊勢路があり、
峠越えの古道を中心に、2004年世界遺産に登録されている。
 江戸時代以降このあたりは八軒家浜と呼ばれている。
  協力 城南宮 熊野三山協議会 大阪歴史博物館
  2010(平成22年).3 北浜東振興町会寄贈

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    今日は比較的過ごしやすかったですが、金曜日は蒸し蒸ししていたように思います。

    中の島辺りを散歩していると暑かったことでしょう!!
    でも、自分の好きな建物などを見ていると暑いことも気にならないですね。(^-^;

    カレーライスと冷ややっこ!
    意外な取り合わせですが、びっくりなお値段。
    食べて美味しく、お財布にも優しいがいいですね。
    暑い日ほど、なぜかカレーライスが食べたくなります。(^-^;


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    1. カイさんこんばんは(^^)/
      金曜日は蒸し暑かったですが、風が強かったので蒸し暑さを飛ばしてくれました。
      レトロな建物などを見ていると面白いですよね(^^)v

      発病前はカツカレーなどが好きでしたが
      病気をしてから野菜カレーが多いです!
      サラダにもう一品と思っていたら
      冷やっこが目に入りました(^_-)
      暑くなって食欲が落ちたときはカレーが食べたくなりますね(*´▽`*)
      地下の食堂は値段なりにそこそこ美味しいですよ(^^)v
      また、芝川ビルの中にはMole以外にもベトナム料理の店やコバトパン工場などもあります。

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