2019年6月4日火曜日

蒸し暑い曇り空

昨日は、主治医の先生の受診日でした。
血液検査の結果は、基準値を上下に超えているのが幾つかありましたが
ひどくなっていないので様子を見ることになりました。

二日ぶりの公園は曇り空で、蒸し暑かったです(・_・;)
母が好きだった合歓の木の花が咲きだしました♪
昨夜のEテレ2355でトビーが

人は、6月のことを「水無月」って書くけど
むしろ、ハゼ的見地からすると
「水有月」なんだけどなぁ


昨夜ではありませんが(^_-)
 「かなりくるしい だじゃれで一年間」では、

⑥月〇〇〇に〇〇〇〇〇 みんな好き~(水無月)

この中でみんな好きなのは何でしょう?(^^♪
みなづき【水無月・六月】
〔名〕陰暦六月。[季]夏
◆「な」は「の」の意の上代の格助詞で、水の月の意。
「水無月」は当て字。
(『古語林』林巨樹・安藤千鶴子編 大修館書店 1997年)
巻第十(夏の相聞) 1995
   日に寄(よ)せき
六月(みなづき)の地(つち)さへ裂(さ)けて照る日にも
(わ)が袖や乾(ひ)めや
君に逢はずして


   ◆日に寄せた
六月の地面まで裂けるほど照りつける日でも、
私の袖は乾かないでしょう。
あなたに逢うことがなくて。
▽夏の烈日を詠う珍しい例。
第四句は涙が尽きないこと。
(『万葉集(三)』佐竹昭広他校注 岩波文庫 2014年 )
1日(土)に因幡堂(いなばどう)などを訪ねたときに
たまたま、新玉津島神社(にいたまつじんじゃ)に参拝することができました。
その時に忠度が俊成に巻物を献じた逸話があると紹介しました。
その逸話を『平家物語』より現代語訳で転記しますφ(..)
京に勧請・新玉津島神社」(玉津神社 和歌山)
  忠度(ただのり)の都落(みやこおち)

 薩摩守忠度(さつまのかみただのり〔清盛の末弟〕)は、
落ちてゆく途中何処からひっかえして来たのであろうか、
五騎の侍に童(わらべ)一人と我が身をくわえて七人、
三位俊成(さんみのしゅんぜい)卿の五条の宿坊へやってきてみると、
門をとざして開かない。
「忠度です」
と名乗ると、内では、
「落人(おちうど)が帰ってきた」
と騒ぎたてている。
薩摩守は馬からおりて、声高らかに、
「別に差障りのある事ではありません。
 三位殿に申上げることがあって、ひきかえしてきたものです。
 門をあけなくても宜しいから、門際までお出下さい」
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
 そう申入れると、俊成卿は、
「何かわけがあるのだろう。
 その方ならば、差支えはない。お入れ申せ」
ということで、門をひらき面会したが、
落人の身となった忠度の姿は、さすがに哀れふかい。
薩摩守が申すには、
「年来御教授にあずかり、歌道大切と心得てまいりましたが、
 この二、三年は京の騒動、国々の争乱、
 すべて当平家の上にかかわる事なので、
 失礼する考えはなくても日ごろお伺いができず、
 御無沙汰がちになっております。
 しかし主上もはや都をたちのかれ、平家の運命は終りになりました。
 勅撰(ちょくせん)の歌集が編まれると聞きましたにつけ、
 一代のほまれにせめて
 一首なりとも御選にあたりたく思っていましたところ、
 このような騒ぎがおこって計画も沙汰やみとなり、
 じつに残念に存じております。
 世がしずまりましたならば、又勅撰の御沙汰がございましょう。
 これに持参した巻物のうち、
 これぞと思われるものがあって一首でも御選をいただき
 草葉の蔭でよろこぶことが出来れば、
 世を隔てても報恩のため御守護申上げるでありましょう」
 忠度は日頃詠み置いてあった歌のうち、
すぐれた歌と思われそうな百余首を巻物に書きしるして、
これを最後と都をうちたつ時持って出たが、
それをば右脇の鎧(よろい)の引合せから取りだして俊成卿にさしだした。
三位(俊成)は巻物をひらいて見て、
「このような忘れ形見を下しおかれましたからは、
 決して粗末には扱いませぬ。その事は御安心ください。
 それにしてもこのような際、わざわざお訪ねくだされましたのは、
 風雅にたいするお情けのほども深く感じられ、
 おいたわしくさえ覚えられて、涙をとどめかねる思いです」
 そう言われると、忠度はよろこび、
「西海の浪(なみ)の底に沈ませば沈め、
 山野に屍(かばね)をさらすならばさらせ、
 この上はもう浮世に思いのこすことはありません。
 では、お暇(いとま)申します」
といって馬にまたがり、兜(かぶと)の緒をしめ、
西をさして落ちてゆく。
三位が後から遠くまで見おくっていると、忠度とおもわれる声で、
前途ほど遠し、思を雁山(がんさん)の夕(ゆうべ)の雲に馳(は)
と朗詠集にある送別の詩を、高らかに口ずさむのが聞えてくる。
俊成卿はひとしお名残りが惜しまれ、涙をおさえて内へ入った。
 その後世の中が静かになって、
勅撰の千載(せんざい)集が編まれる際、
忠度のその折の様子、言いのこした言葉、
今さらのように哀れふかく思いだされるにつけ、
あずかった巻物の中採用したい歌はいくつもあったが、
朝敵となった平家方の人なので、
「故郷の花」という題の歌一首だけをえらび、
名を隠し読人(よみひと)知らずとして勅撰集にのせた。

  さざなみや志賀(しが)の都はあれにしを  
    昔ながらの山桜かな


 題の「故郷の花」の故郷は、
天智天皇時代の昔の都であったことをさし、
その古い都も時とともに荒れてしまったが、
背後にある長等(ながら)山の桜は、
今もなお美しく咲きつづけている、といった歌意。
 朝敵となった上は、致し方ないようなものの、
惜しまれる次第である。
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
巻第七 
 忠度朝臣集
 忠度が俊成に託した一巻は今に伝わる『忠度朝臣集』(忠度集)に当る。
忠度集には諸伝本あるがいずれも約百首。
俊成に託した詠草は平家諸本「百余首」とするものが多い。
両者を結びつけることに慎重論もあったが、
忠度集が『堀河百首』を模して作られたという説は慎重論を解消したといってよい。
『堀河百首』は堀川院の時歌人十数人が一題一首で百題を詠んだもので、
その後の百首歌の起点になった。
忠度集はこれに歌題・部立(ぶだて)を学び
詠歌の趣向・用語にも影響をうけている(犬井善寿氏「忠度百首小考」参照)。
ここに残す一巻を延慶本は
「此程百首ヲシテ候ヲ」「百首ノ巻物」として(長門本も同じ)
明らかに百首歌として成ったものであると示し、
現在忠度集に相当することが知られるのである。
勅撰の一首とともに俊成によって世に残った花であった。
(『平家物語 中 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)
 「故郷(こきやう)の花

古都の桜の意。
「故郷」は旧く都だった所で、ここは志賀の旧都。
「古京」「故京」と書くも同じ。
『平忠度朝臣集』(忠度集)には
「為業歌合(ためなりうたあわせ)に故郷花を」と詞書(ことばがき)があり、
忠度23歳の時の作と考証される。
「千載集」春に「題しらず、読人しらず」として載る。

さざ波や志賀(しが)の都はあれにしを 
  昔ながらの山ざくらかな


さざ波うち寄せる志賀の都は
昔の面影もなく荒れ果ててしまったけれども、
長良山には昔ながらの山桜が美しく咲きほこっている。
近江(おうみ)の国志賀辺の総名を楽浪(さざなみ)と称し、
「さざ波や」は、その地にある、の意だが、
「志賀」の枕詞ふうに用いて、湖岸の風景を連想させている。
「昔ながら」に三井寺西方の「長良山」をかけ、
「山桜」につないだ技巧である。
 俊成と忠度

 和歌をめぐる師弟の感動的な物語であるが、
当時和歌上で固定的な師弟関係を結ぶことは稀で、
忠度も歌壇の大御所として畏敬する俊成に
大胆に悲願を託したのである。
対面も実際はこのような優雅なものではなかったはずで、
都中が平家退去に連鎖して起こりかねない狼藉を警戒しおびえていた。
俊成邸も例外ではない。
延慶本に、俊成が門を開くことなく「ワナナクワナナク」立ち出でて、
忠度は門越しに言葉をかけ、
巻物を「門ヨリ内ヘ投入テ」去った(朗詠もない)
というのが実際の状況に近いであろう。
それだけに忠度が俊成の芸術家的良心にすがって
一巻の自詠の処置を託した賭けは悲壮である。
(『平家物語 中 新潮古典集成』水原一校柱 昭和55年)
 巻下 餞別 632

前途程遠(せんどほどとほ) 
思ひを雁山(がんさん)の暮(ゆふべ)の雲に馳(は)
後会期遙(こうくわいごはる)かなり 
(えい)を鴻臚(かうろ)の暁(あかつき)の涙(なむだ)に霑(うるほ)  
    江相公(がうしやうこう)

現代語訳
 私の前途はまことに遠い旅路で、
雁がその門より飛び立つという雁門山にたなびく夕べの雲を思いやることです。
 君とこの後(のち)再会することができるのはいつのことでありましょうか。
この鴻臚(こうろ)館の夜明けの別れに、私は冠のひもを涙でぬらしております。

参 考
 渤海(ぼっかい)の客使が、任を終えてその郷国に帰ろうとするときの詩の序。
雁山は山西省の雁門山の略。
雁がその門より飛び立つという故事がある。
纓は冠のひも。
「鴻臚(かうろ)」は鴻臚館のことで、外国人を接待する迎賓用宿舎。
当時は七条朱雀(すざく)にあった。
『本朝文粋』「鴻臚館において北客に餞(はなむけ)する詩序」の摘句。
 大江朝綱の名句。
『平家物語』七、忠度都落の条に、
忠度が俊成に別れを告げる時この詩の前半を朗詠しており有名である。
『源平盛衰記』三十二にも同様の記事があり、
当該句全部を載せている。

大江朝綱(おおえのあさつな)
音人(おとんど)の孫、玉淵(たまふち)の男。
正四位下参議に任じ、天徳元年、72歳で没す。
音人が参議となり江相公(ごうしょうこ)と称したので、
朝綱は後(のちの)江相公と称す。
(『和漢朗詠集』川口久雄訳注 講談社学術文庫 1982年)
Eテレ0655で「歯と口の健康週間」(~10日)だと教えてくれていました。
正しい歯みがき」(ストレッチマンが教えてくれます)
こんな記事もあります。
世界で最も多い病気から身を守ろう!」(相田潤 BuzzFeedNews)