2019年6月13日木曜日

風が気持ちいいと…

毎朝の楽しみは、甘い香りのクチナシ
学名の「Gardenia jasminoides Ellis」は、
「ジャスミンのような匂いのある」という意味だそうです。
story 日本の歴史―古代・中世・近世史編』で
関ケ原の戦いについて簡単に復習したいと思います。

7 関ケ原の戦い
秀吉の死

 徳川家康が三人目の「天下人(てんかびと)」となった関ケ原の戦いは、
1600(慶長[けいちょう]5)年のことである。
以後徳川氏という一家系が、
約270年間の政権を担当する大きな意味を持っていた。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編
  日本史教育研究会編 山川出版社 2001年)

 1598年8月、伏見城で豊臣秀吉が病没した。
家康ら有力大名に6歳の秀頼(ひでより)の行く末の
後見(こうけん)を頼みながらの死であった。
朝鮮出兵は失敗、秀吉の死、
すぐに豊臣政権の瓦解(がかい)が始まる。
秀吉と彼が育てた子飼(こが)いの大名たちとは、
それぞれ強固な絆で結ばれていたが、
その大名間の横の結束は希薄で、
団結して秀頼を非豊臣方から守るという意識は弱かった。
しかも秀吉側近ですら、石田三成(いしだみつなり)
増田長盛(ましたながもり)らの吏僚(りりょう)派と
加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)
武将(ぶしょう)派の対立が根強く、
朝鮮出兵の手柄の評価をめぐってその対立は深刻になっていた。

りりょう【吏僚】 役人。つかさびと。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
その対立を背景に、秀吉が生きている時は協力し、
秀吉に「律儀な内府[ないふ(内大臣)]」といわしめた
五大老筆頭の家康が声望(せいぼう)を高めていた。
家康は肥前名古屋(ひぜんなごや)まで
出陣したにもかかわらず朝鮮には出兵していない。

名護屋城とは」(名護屋城博物館)
秀吉の生前から、
東国の主導権をめぐり家康と上杉景勝(かげかつ)が対立し、
これに五奉行の一人浅野長政(あさのながまさ)らは
家康と組んで東国大名の協調路線を取ったのに対し、
同じ五奉行の石田・増田(ました)らは上杉と組んで統制を強化し、
家康にも対抗しようとしていた。
複雑な対立関係を秀吉の個性で抑えていた豊臣政権は、
秀吉の死とともに、全大名間の対立抗争に発展したのである。
関ケ原の戦い
 秀吉の枕元に呼ばれ、
手を取って「秀頼のことを頼む」と懇願された家康は、
五大老最年長の前田利家(としいえ)が死ぬと、
加藤清正ら秀吉子飼いの大名を味方につけ、
伏見城から天下に号令する姿勢を示した。
石田・増田・佐竹義宣(さたけよしのぶ)らと結んだ会津の上杉が、
家康の上洛(じょうらく)命令を拒否したことは、
家康に上杉討伐の口実を与え、
1600年7月、家康は諸大名を率いて東下(とうか)した。

 三成は、吏僚派や西国諸大名を中心に
毛利輝元(てるもと)を盟主(めいしゅ)として、
家康打倒の兵を挙げた。
宇喜多秀家(うきたひでいえ)・島津義弘(しまづよひろ)ら8万余の西軍である。
この挙兵を心待ちにしていた家康はすぐに西上(さいじょう)した。
井伊直正(いいなおまさ)ら徳川譜代(ふだい)の武将のほかに、
加藤・福島正則ら秀吉恩顧(おんこ)の武将派や
東国の諸大名9万余が従った。
9月15日午前8時頃、濃霧の中、両軍は美濃(みの)関ケ原で激突した。
はじめは両軍とも譲らなかったが、
西軍小早川秀秋(ひであき)の内応(ないおう)により、
午後2時頃、東軍が大勝した。
戦いの前からの、家康の外交戦略の勝利といえる。

ないおう【内応】ひそかに敵に通ずること。うらぎり。内通。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)
家康が将軍に
 家康は、形の上では豊臣家を守る大老の立場で
関ケ原の戦いに臨(のぞ)んだのであり、
敵対した西軍を「秀頼さまに対する逆意(ぎゃくい)」で裁かざるをえなかった。
そもそも東軍の主力をなしたのは徳川一門や譜代の武将ではなく、
福島ら秀吉子飼いの武将たちであった。
つまり、ただちには将軍になることはできず、
戦後処理によって自らの地位を固めることが先であった。
まず、西軍についた大名88家を領地没収、
これに減俸5家を加えると没収総高は630万石余である。
当時の総石高の三分の一を一度の戦いで手に入れたのである。
そして、東軍に味方した外様(とざま)大名には思い切り加増し、
そのかわり中央から遠くに移し、
新規分だけでも68家の譜代大名や
徳川一門(親藩[しんぱん])を取り立て、
残りは直轄領(ちょっかつりょう)に組み込んだ。
大坂に豊臣秀頼がいるものの、大名配置が徳川氏中心となる。
 1602年7月、領地関係の処理が終わり、周囲から勧められるる形で、
家康は翌年2月12日、伏見城で将軍宣下(せんげ)を受け、
同時に、武家の棟梁・源氏の長者としての地位を天皇から承認される。
(『story 日本の歴史―古代・中世・近世史編
  日本史教育研究会編 山川出版社 2001年)
関ヶ原古戦場 天下分け目の戦いの地」(動画)

関ヶ原の戦い」(小学校6年)
今朝の父の一枚です(^^)/
青空が広がりプカリと浮かんだ雲を写していました。
日差しが真夏のようでしたが
時折吹く風が気持ちよかったです!
明日から天気は崩れるとか…