2017年8月4日金曜日

永遠の新人(織田作之助 1/4)

今朝、喉の痛みで目が覚めて、熱を測ると37度の微熱がありました。
耳鼻科で吸入をしていただき、休養することにしました。
リハビリ散歩は、無理なのですが買い物などには行っていました。
発病前なら喉が痛くても仕事に行っていましたが、
無理をすると長引くので二、三日は大人しくしていると思います。
寝込むほどではないので織田作之助の「永遠の新人」を四回に分けて転記したいと思います。
いつものことですが原文通りではありませんし、転記間違いがあると思います。
なお、「永遠の新人」の前に「起ち上る大阪」を発表しています。
こちらは「青空文庫」に載っていますので参照してください。
(後日、「起ち上る大阪」も転記したいと思います)

   永遠の新人
      ――大阪人は灰の中より

 この前僕はこの雑誌に「起ち上る大阪」という文章を書いた。
それは丁度、大阪が三月十四日の空襲を受けた直後のことだ。
そして今、再び同じ種類の文章の依頼を受けたのは、戦争終結の御大詔を拝した二日後のことだ。
多少の感慨なきを得ない。
 この前の文章で、僕は最初の戦災から起ち上ろうとする大阪の気配に就いて、些か触れて置いた。
しかし、相次ぐ空襲は、起ち上ろうとする大阪の出鼻をくじき、足をすくい、応接に暇(いとま)のない打撃は、遂に僕らの大阪を土俵際まで押し込んだ。
 多くのものが焼かれ、失われ、ことに大阪の郷土色の殆どが亡びてしまったかと思われた。
万物は逝いて復らずという人生流転の感傷が、回顧的な大阪の人人の胸を熱くしたのだ。
  「かたはらに秋草の花語るらく
   亡びしものはなつかしきかな」
 焦土の中に佇んで、この若山牧水の歌を口ずさんだ人もあったろう。
 しかし、大阪は亡びたのではない。
土俵際まで押し込まれたが、土俵の外へ全く押し出されたのではない。
戦いに敗れたが、万事は休してしまったのではない。
 例えば、僕は「起ち上る大阪」という文書で、文楽の復興を予言して置いたがその後文楽は起ち上ろうとする出鼻を何度か敲かれながら、遂にこの間復興興行を行ったではないか。
文楽は三月の空襲で、小屋も人形も衣裳も文献も焼かれてしまい、たいていの人は、もう文楽は亡びてしまったと諦めてしまったくらいだ。
が、文楽の人々や心ある大阪の人達は黙然として、この国宝(になっていないが、ある意味で国宝以上だ)的な郷土芸術の復興に努力して、はや六月には老松町の老松松竹座を新しい文楽座と改称して、旗上げを行うところまで漕ぎつけたのだ。
ところが、その初日を明日に控えた総稽古の最中に、小屋は焼かれてしまった。
――と知った時、さすがの僕ももう文楽はだめかと、がっかりしたが、それから四十日の後には、朝日会館に太棹(さお)の三味線が、この大阪の音を聴けやと鳴り響き、今ではもう興行も二度に及んでいる。
その二回目の興行では古靱太夫は戦災死した令嬢や姪御の位牌を懐に入れて語ったということである。
肉親の死を悲しむ前に、まず芸の亡びるのを悲しんだ古靱太夫の心は、古靱太夫ひとりの心のみであろうとは僕は思えない。
僕は第一回興行の千秋楽の夜の部を聴いたが、(因みに言う、文楽は見るというよりやはり聴くというべきではなかろうか)戦災の老苦にやつれた出演者の表情の中に、明日の死を覚悟しながら、郷土の、ひいては日本の、伝統芸術を亡ぼすまいする悲痛な決意が見えていた。
それかあらぬか、朝日会館でのこの人達の芸は、かつて四ツ橋の文楽座で聴いた以上に、僕らを陶酔させた。
(『織田作之助全集 8』講談社 昭和45年)

・豊竹古靱太夫とよたけ こうつぼだゆう)(二代目)

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