2020年9月16日水曜日

明日には…

昨日は、気づかなかったのに彼岸花の蕾がいくつも姿を見せていました。
明日、咲くかな?

彼岸花 真紅の絨毯の物語」(NHK みちしる 動画3分29秒)
Agnes Chow 周庭さんのTwitter

【質問募集中】
国家安全法で逮捕されてから、もう一ヶ月以上が経ちました。この間、皆様からの応援をたくさん頂いて、ありがとうございました。
色々辛いですが、YOUTUBEチャンネルへの30万人登録に感謝して、日本語で日本の皆様からの質問に動画で答えたいと思います。


#周庭に聞きたいこと 
 9月16日
 島津斉彬(しまづなりあきら)が写真機を研究させた。 1857(安政4)年

 秋晴れの美しいこの日のひるごろ、試験工場にやってきた薩摩藩主島津斉彬は、研究中の写真機をいじったり、自分を撮影させたりした。
 この写真機は、現像用の薬や使用法を書いた本といっしょに、この春オランダ人から買ったもので、松木弘安(こうあん<寺島宗則(むねのり)>)、市来四郎(いちきしろう)らに研究させていたのである。
 斉彬は「写真をおもちゃのようにいう奴もいるが、父母の姿を百年後にも残せる貴重なものだ。ご苦労だがよく研究してくれ」と市来たちをはげました。
斉彬はこのほか、製鉄・造兵・造船などいろいろなヨーロッパの技術を研究させた。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
写真(島津斉彬)」(尚古集成稈)

薩摩藩へは複雑な思いがあります(母と私の故郷が沖縄ですし、父と妹の故郷は徳之島)。
幕末維新人物事典』より「島津斉彬」を転記しますφ(..)
島津斉彬――しまづ・なりあきら 1809~1858(文化6~安政5)
■出身地=江戸(東)・芝 ■父=島津斉興 ■母=鳥取藩主池田治道の女・周子
■幼名=邦丸 ■雅号=惟敬・麟洲 ■墓=鹿児島市・旧福昌寺境内

時代を先取りした開明派君主

 島津斉彬は文化6年(1809)江戸・芝にあった薩摩藩邸において島津斉興(なりおき)の嫡男として生まれた。
 しかし、開明的な新しいタイプの君主出現をきらった藩内の保守勢力に長く藩主就任をさまたげられたため、ようやく嘉永(かえい)4年(1851)43歳で第28代薩摩藩主となった。
 おしいことに50歳で急死したが、藩主として君臨した7年半というきわめて短時日のあいだに大きな実績をあげた。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
 斉彬にもっとも大きな影響をあたえたのは曾祖父・重豪(しげひで)である。
重豪は斉彬の聡明さを愛し、シーボルトが江戸へ行ったときは、82歳のという高齢であったにもかかわらず、斉彬をともなって大森までむかえに出た。
 このとき18歳であった斉彬は、重豪の期待どおりの大きな人間として成長していくことになったのである。
 もともと表高(おもてだか)77万石の薩摩は裕福であった。
 琉球をはじめ中国(清)など、外国の蝦夷(えぞ)コンブの密貿易によって得た利益。
 貨幣鋳造権をもっていて琉球通宝(つうほう)や天保銭(てんぽうせん)をさかんに鋳造して得た利益。
 奄美大島その他の砂糖を総買占めしてこれを大坂で売りさばいたり、抵当(ていとう)に入れたりして富豪から金を引き出したこと。
また、紡績、織物、砂糖精製、農機具の製造に力を入れて財政の安定をはかってきたこと。
 こうした経済的な政策によってストックされていた莫大な利益の上に、斉彬はのっていた。
 そして、これら莫大な利益を、斉彬は藩士たちの政治活動と最新技術の開発におしみなくそそぎこみ、安政2年(1855)には藩の独自の技術で製造した蒸気機関を搭載した国産初の蒸気船(雲行丸)の試運転に成功した。
 斉彬は視野を世界に向けていた。
 世界から届けられてくる情報から、日本は早急に近代化をはかるべきだと考えて「花園製錬所」(理化学研究所)や「集成館(しゅうせいかん)」(大工場)を創立し、反射炉を築いた。
 そこで大砲をはじめ、ガラス、陶磁器、アルコール、火薬の製造から、電信、ガス、電気の実験まで行われた。
最盛時には職工が1200名もいたという。
 安政5年(1858)鹿児島を訪れたカッテンディーケ(オランダの海軍軍人、咸臨丸<かんりんまる>とともに来日した)が記録している。
「工場のある場所は港のかたわらである。……われわれは静かに鉄や銅の鋳造場、製鉄炉、火焔(かえん)炉、大きな錬鉄場、砲身を作る穿孔(せんこう)盤、製陶場、硝子(ガラス)工場、硝子磨き場……次から次へと見てまわった。またわれわれはここで造られた電信機も見せられたが、それはオランダ皇帝ウィンヘルム2世より日本に贈進されたものにならって作られたものである。……薩摩藩主たちがいかに旺盛な企画精神を持っているかを知るに足るであろう」(水田信利訳)
 具体例をあげると、切子面(ファセット)と色彩が完璧なまでに美しい「薩摩切子(きりこ)」である。
 このガラスの技術は、世界でも屈指の技術をもつに至った。
その技術は、現代でも再現がむずかしいほどの高さを誇るものであった。
 本格的なガラス工場とはいえない初歩的な工場であったが、これがのちの板ガラスの製造技術へとつながっていった。
 また、斉彬は日本最初の西洋式軍艦も建造しようとしていた。
 話が先へ飛ぶが、日本は明治10年(1877)の西南戦争前後に明治政府が名実ともに確立する。
同時に西欧諸国から先進工業技術が大挙して導入された。
 つまり、米の経済を主軸とする農業国家から日本はすさまじい勢いで工業国へと変身する。
 というと、水田に突然白亜(はくあ)の工場が出現するような印象をうけるが、そうではなかった。
稲に鉄を接木(つぎき)するようなわけにはいかないのである。
稲に鉄を接木しても、あらかじめそれが順調に育っていくだけの下地がなければ、国家全体を工業化することはできない。
 要するに斉彬はその下地を短時日のあいだにつくりあげるという離れ業(わざ)をやってのけたのであり、その先見性はまさに特筆に値する。
 高野長英(たかのちょうえい)が天保10年(1839)に蛮社(ばんしゃ)の獄(ごく)で投獄されたが、斉彬はその前から蘭書の購入については長英に問いあわせていたし、長英が脱獄してあちこちに潜伏したときにもその居所を知っていた。
斉彬のローマ字日記に記録してあることから、それがわかる。
 長英だけでなく、斉彬は箕作阮甫(みつくりげんぽ)、川本幸民(かわもとこうみん)、坪井信道(つぼいしんどう)、松木弘安(まつきこうあん<寺島宗則(てらしまむねのり)>)など、気鋭の蘭学者と交流して最新の情報をとりいれていた。
 しかし、斉彬は藩主であり、旧体制の指導者の一人であるという重い宿命もひきずって生きなければならなかった。
 その重い宿命とは将軍継嗣(けいし)問題である。
 13代将軍・家定(いえさだ)は、病弱なだけでなく精神に異常をきたしていて早急に14代を選ぶ必要があった。
 候補者は二人いた。
徳川斉昭(なりあき)の第7子・一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ<17歳>)と、もうひとりは紀州の藩主・徳川慶福(よしとみ<8歳=家定のいとこ>)である。
 慶喜を次期将軍にと考える大名(一橋派)には阿部正弘(あべまさひろ)、松平慶永(まつだいらよしなが<春嶽(しゅんがく)>)そして斉彬などがいた。
これに対して慶福をおす大名(南紀派)も多く、そのボス格として井伊直弼(いいなおすけ)がいた。
 斉彬が一橋派にくみしたことには理由がある。
 慶喜は聡明であり、慶福は幼すぎるということである。
聡明でなければ多事多難な政局をのりきることはできない、という判断であった。
 そして一橋派は家定に斉彬の養女が嫁(か)していることに着目し、まず江戸城大奥の意思を、慶喜をおすことにまとめようと努力した。
 さらに斉彬の腹心である西郷隆盛、松平春嶽の意をふくんだ橋本左内(はしもとさない)などに朝廷工作をやらせ、将軍は慶喜に決定するかにみえた。
 しかし、南紀派はまきかえしに出た。
 安政5年(1858)4月の井伊直弼の大老(たいろう)就任である。
直弼は勅許(ちょっきょ)を待たず日米修好通商条約に調印し、慶福を次期将軍(のちの家茂<いえもち>)に決定し、ひきつづいて一橋派を粛清(しゅくせい)した。
 斉彬は、憤(いきどお)りを発した。
 鹿児島に帰って、兵をひきいて上洛(じょうらく)しようとしたのだ。
 となると、直弼の立場だけでなく、南紀派にも、国家的にも事態は容易ならざることになる。
 しかし、斉彬は、軍事演習のさなかに急死した。
コレラといわれるが、藩の保守勢力によって毒殺されたと考えられる。
 斉彬の死に安心した直弼は、一橋派の息の根を止めて、改革に向って動きはじめていた幕府政治を反動的に守旧派の手にもどしたのである。
 しかし、斉彬の遺志は、西郷隆盛にうけつがれた。
 斉彬は隆盛がわずか18歳、郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ<年貢取り立ての下役人>)であったときに抜擢(ばってき)してお庭方役(秘書役)につかせ、日本が進むべき進路を、いつくしむように、また嚙んでふくめるように教えていた。
 斉彬の最大の功績は、あるいはこの隆盛を教育したということにあるのかもしれない。
 「英明は近世第一、水戸烈公(れっこう)、土佐の山内容堂(やまのうちようどう)、佐賀の鍋島閑叟(なべしまかんそう)などの及ぶところではない。実に英雄と称すべき」と、越前の松平春嶽がいっている。
(『幕末維新人物事典』泉秀樹 講談社+α文庫 1997年)
蒸気船」(尚古集成館)

光る砂漠』より「解説 周郷博」の続きを転記します(最終回)。
 解説 周郷博 (3)

 矢沢宰君ぐらい、詩というものを、「うつくしい」ものに、そして言いようもなく「なつかしい」ものにした人はいない、と思う。
これが、矢沢宰の詩の、他のどんな詩にも見ることのできない独特な価値だ。
それが同時に、また、二十歳そこそこで短い生涯を閉じた矢沢宰という一人の人間があらわしえた「一生」の、他の何ものとも比べようもない人間的価値だ、と私は思う。
ほとんど、それは神々(こうごう)しいほどに「うつくしい」「なつかしい」詩である。
ひとたび矢沢の詩を読んだ人は、それまでに読んだどんな詩にもなかった、この矢沢の詩の不思議な魅力に吸いこまれて「化身(けしん)」とでもいうほかないような浄化、昇華(しょうか)の働きをふかく受ける。
(『光る砂漠』詩・矢沢宰、編・周郷博 童心社 1969年)
昇華とはサブリメーション subulimation すなわち、サブライム sublime(崇高な、荘厳な)なものにすること、を意味する。
ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」やヘンデルの「ハレルヤ」には比較すべくもないが、矢沢のこれらの詩は、読む人を思わず「立ち上がら」せる。
その純粋、崇高といえる「うつくしさ」は、「こぶしの花」の「白」や、看護婦さんの「白」そうして「幸」や「雪を見て」「幻想」の雪の「白」である。
「入道雲」や「再会」の風の「白」といっしょに「生命の白」の「うつくしさ」である。
この「白」は、絶筆になった「小道がみえる/白い橋もみえる………」の死の間際のイメージの中に、悲しみに耐えたノスタルジーとして、もういちど、短い生活の告別の詩語としてでてくる。
この神秘なふかい生命の「白」といっしょに、彼の好きな「ききょう」や「りんどう」の生命の「むらさき」が詩を一貫してふかい「かなしみ」を心臓の鼓動に伝えてくる。
大きくはばたく大空や雲とのうつくしい対話。
おなじテーマが、なんども音楽のリフレインのようにでてくる。
そうして、客観的にみれば、救いのない絶望と死の恐怖の中に生きていたといえるが、彼の詩は、暗い、陰気なものの影は微塵(みじん)も感じさせない。
底の底まで曇りがない。
あかるく透明で、「二人で話したこと」という16歳の詩のように、どの詩をひとつとってみても、親しげに「希望」を語りかけている。
芭蕉も藤村も、中原中也や八木重吉(この二人の詩人の詩の影響をもっとも受けた)も、啄木もよいが、ワーズワースやリルケ、杜甫の詩もよいが、そういう「大人(おとな)」の詩とは異質の、しかも敗戦後の20年を生きた日本の少年=青年の詩である。
堂々とした詩である。
そのかげのない魅力は、詩作の年齢の若さからきている。
年齢からいって、彼の詩は啄木や重吉の詩の魅力に似たものをもっている。
人間という動物は恐ろしい動物である、ということが現実になりかけているとき、彼の詩は、その詩の独特な「うつくしさ」(透明さ)「かなしさ」を通して「なつかしい」存在であることを教えてくれる。
  人の子が生まれて一人の人間になるまでの過程を7年ずつに区切って、7歳までと、14歳までと、21歳までと三段に分けてみる見かたがある。
矢沢宰君は、7歳のときにはすでに病魔(腎結核)に冒されていて、8歳のときには、右腎臓の摘出手術をうけて取ってしまった。
それから14歳まで、この少年が何を見、考えて成長したかは知るよしもない。
その手術に出かける朝、何か紙に書いて鉢に入れて門のそばに埋めていったが「そこに何が書いてあったか………」宰君のおばあちゃんが遠い思い出を語った。
何かが準備されていたのかもしれない。
生来の天分もあったろう。
しかし、13歳の秋に倒れ、もう「死んだらいいということしか頭になかった」この少年に、どういう深い「神の(生命の)はからい」があってこういう変化、ルネッサンス(再生)が起こってきたのか。
小学校5年をやっと終えたばかりの矢沢少年に、どうして、これほどまでにきらきらとはじけとぶような日本語が宿り、思索をくりひろげさせたのか。
それは彼が14歳の11月3日(文化の日)から1日も欠かさず書きつづけた「日記」その他によって、別によく考えてみなければならない一つの課題である。
そういう、天分と環境という問題をはなれても、矢沢宰君の一生は、いま私たちに、人間とは何か、とともに、15、6歳の可能性という問題を胸にふかく省みさせてくれる。
(『光る砂漠』詩・矢沢宰、編・周郷博 童心社 1969年)
今朝の父の一枚です(^^)v
テレビで印刷する画像を選んでいますが、
父がこの柿の実を母がよく見ていたと呟いて、印刷をリクエストしました。
両親とは別行動だったので母が何に興味を持っていたのかは、
こうして一緒に父の撮影した画像を見ることで知ることができます。 

16日はすっきりしない天気 17日からは雨」(えりの気象日記 9月15日)
午後から心臓リハビリでしたp(^^)q
リハビリ室前の廊下で読んでいたのは『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、新潮社)
Eテレ、心の時代~宗教・人生~「センス・オブ・ワンダーと生きて」を見た後、読みたくて取り寄せました。
センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性
素敵な詩のような文章を読んでいると心が穏やかになります。

初め前回のように時速3.0㎞から始めて、脈拍を計ってもらったら110前後だったので、途中から時速3.5㎞の上げました。
足への負担は軽いのですが、マスクをしているので呼吸が少ししんどくなりました。
25分に時速3.0㎞に落してクールダウンをしました。
30分間の歩行距離は1.66㎞、消費カロリーは105kcalでした。