退職して6年、隠居生活でノンビリしているはずなのに
昨夜、期日が迫っているのに仕事が片付かない夢をみた(-_-;)
昨日、中曽根康弘元首相が101歳で亡くなられました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
亡くなった方に申し訳ありませんが
私は、中曽根氏の国鉄民営化で過疎化が一気に進んだと思っています。
国鉄を民営化する場合、
大都市圏などは収益があがるから民営化しても影響はないでしょうが
地方は、収益が上がらないために廃線や規模が縮小されています。
父と妹が義弟の故郷の北海道へ行った時に
電車の本数があまりに少ないのにビックリしていました。
移動の手段が悪くなると人口は減少します。
収益が上がらない地方は国営のままにするという考えがなかったのかと思う。
国民の生活を守るために税金は使われるべきです。
今の政権のように後援会の飲み食いや、
反社会的団体の宣伝に利用されるために
私たちの税金が使われるのは許せません。
11月30日
美智子妃、第二子ご出産
【東京=1965(昭和40)】
今日午前零時22分、皇太子妃美智子さまは、宮内庁病院で第二皇子をご出産。
身長51センチ、体重は3千グラムの元気な赤ちゃんは、来月6日、命名の儀によってお名前が決定する。
有力候補は礼宮文仁(あやのみやふみひと)か。
ちなみにこの赤ちゃんは、3番目の皇位継承権を有することになる。
(『日本歴史新聞366』武光誠監修 小学館 1997年)
「秋篠宮さま きょう54歳の誕生日」(NHK)
秋篠宮さまの仰っていることはまっとうな事だと思います。
天皇陛下が仰ることができないことを代弁されています。
ご発言などを見ている三笠宮崇仁さまと重なると思います。
NHKニュースの中で触れられていないのはどうしてなのかな?
宮内庁のホームページではちゃんと
記者が、大嘗祭の支出について質問したことに
秋篠宮さまは、
「それについては今も昨年お話しした時と気持ちは変わりません。」
と明言されている。
「秋篠宮皇嗣殿下お誕生日に際し(令和元年)」(宮内庁)
昨年のお話は
「文仁親王殿下お誕生日に際し(平成30年)」の 関連質問1 お代替わりに関する日程や規模についての中で 私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成のときの大嘗祭のときにもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、その頃はうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。 今回も結局、そのときを踏襲することになったわけですね。 もうそれは決まっているわけです。 ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています。 整理の仕方としては、一つの代で一度きりのものであり、大切な儀式ということから、もちろん国もそれについての関心があり、公的性格が強い、ゆえに国の国費で賄うということだと。 平成のときの整理はそうだったわけですね。 ただ、今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。 今でも。 ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。 大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。 ただ、そのできる範囲、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。 少なくとも皇室の行事と言っていますし。 そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし、そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。 ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。 そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。 |
文部科学大臣が「身の丈にあった」という言葉を使ったけど、
その意味は全く違い、言葉の使い方で人格が表れると思います。
『今昔物語集』に石清水八幡宮や護国寺が登場する物語があります。
「東山科の藤尾寺の尼、八幡の新宮を遷し、奉る語、第一」を転記しますφ(..)
巻第三十一 第一
東山科の藤尾寺(ふじおでら)の尼、八幡(はちまん)の新宮を遷(うつ)し、奉(たてまつ)る語(こと)、第一
今は昔、天暦(村上天皇)の御代に、粟田山の東、山科郷の北の方に寺があり、そのとき、はじめて藤尾寺というようになった。
その寺の南に別のお堂があり、その堂に一人の年老いた尼が住んでいた。
その尼は、財産もゆたかで、すべてに満足した年月を過ごしていた。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』
武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
この尼は、若いときから、熱心に八幡に帰依し、参詣をおこたらなかったが、心中、「自分は、長年、大菩薩をおたのみし、朝夕おいのり申しあげている。同じことなら、自分の住んでいる近くに大菩薩をおうつし申しあげて、つねに思いのようにあがめ申しあげたいものだ」と思って、さっそくそのあたりの土地をえらんで、神殿をつくって、りっぱに荘厳(しょうごん)し、大菩薩をおうつしして、あがめ申しあげていた。
こうして、長年たつうちに、この尼は、また、願いをおこし、「石清水のお社では、毎年の年中行事として、八月十五日に法会を行ない、放生会(ほうじょうえ)といっている。これは、大菩薩の御誓願によるものである。だから、わたしのこのお宮でも、同じ日に、この放生会を行なおう」と思いついて、もともとは諸社が一年の内にそれぞれ行ってきたのだが、本宮のように、八月十五日に放生会をいとなむようになった。
その儀式は、本宮の放生会とそっくりそのままであった。
そこで、さまざまな高僧をまねき、すばらしい音楽を奏し、歌舞をととのえて法会を行なったが、この尼は、もともと裕福であり、不自由なことは一つもなかったから、招請した僧への布施も、楽人への祝儀などもたいしたものであった。
そんなわけで、本宮の放生会にまったく見劣りしなかったのであった。
このように、行事として毎年行うようになって、幾年か過ごすうちに、本宮の放生会は、新宮にくらべて、しだいに劣っていき、祝儀なども新宮の方がすばらしいので、舞人や楽人などもあらそって、この粟田口の放生会に集まるようになった。
そのため、本宮の放生会は、すこしすたれてきた。
このことを本宮の僧俗の神官たちは、みななげいて、相談した上で、使いのものを、粟田口の尼のもとにやって、「八月十五日は、これ八幡大菩薩の御誓願によって、昔から今にいたるまで行われてきた放生大会(ほうじょうだいえ)であって、人間の発意によってはじまったものではない。しかるに、その当日、本宮とは別にそちらで、放生会を行うがために、当方、本宮の恒例の放生会は、まさにすたれようとしている。されば、そちらで行われる新しい放生会は、八月十五日に行わず、繰り延べて他の日に行うのが当然である」と申し入れた。
尼は、これに対して、「放生会は、大菩薩の御誓願によって、八月十五日に行うものです。されば、この尼が執り行う放生会も、同じく、大菩薩をあがめ申しあげるためのものですから、やはり、八月十五日に行ってしかるべきもので、決して他の日にかえて行うわけにはいきません」と答えた。
使いのものはかえって、この尼の返事を伝えると、本宮の僧俗の神官たちは、これを聞いてたいへんいかり、また相談して、「われらは、さっそくかの新宮に行って、神殿をこわし、御神体をとりかえし、本宮に安置し申しあげなければならぬ」と決め、無数の神人(じんにん *)たちが雲のように集まって出発し、粟田口の宮に押しかけ、尼が昼夜あがめ申しあげる新宮の神殿を思いのままにすべて破壊し、御神体をうばって本宮におうつしして、護国寺に安置し申しあげた。
それゆえ、その御神体は、いまもそのまま護国寺に鎮座なさって、霊験あらたかである。
こんなわけで、粟田口の放生会は、それから後、絶えてしまった。
この尼は、もともと朝廷の認可をうけて執り行っていたことではなかったので、訴え出ることもなかった。
ただ、世間では、尼のことをそしったのである。
本宮から、「日延べして別の日に行え」と言ってきた折り、それにしたがって、別の日に行っていたならば、今でも、双方ならんで放生会が行われたであろう。
むりに、自説に固執して、日延べをしなかったのがわるいのだ。
しかし、これも、そうなるはずの[該当語未詳]ことであったのだろう。
大菩薩をあがめ申しあげるといいながら、昔から、尊崇しなければならぬ法会であるのに、その盛大さを争うようにしたのを、大菩薩が、けしからぬとお考えになったのであろうか。
その後、本宮の放生会は、いよいよ盛大で、今にいたるまで少しもおとろえることがない。
このように語り伝えているとうことである。
*)神人
いわゆる石清水神人のこと。神事に奉仕した下級の神官であるが、神事につかえる代償として種々の特権を持っていた。
淀のかいそえ・松井の御幡神人・下鳥羽の駒形神人・下奈良の獅子神人・大山崎神人など。
神人は、神社側の強訴に際し、神輿を奉じて先兵となり、また、神社側に対して神殿にたてこもって要求をつきつけることもあり、その勢力が知られる。
(『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』
武石彰夫訳 講談社学術文庫 2016年)
放生会は現在「勅祭 石清水祭」として行われています。