明日は、もう師走!!!
カレンダーが一枚になります…
今日は、三条大橋を渡りました。
「三条大橋の補修・修景」について
三条大橋は、安土桃山時代 天正18年(1590年)に架橋した日本で最初の石柱橋で、現在も当時の「石柱」や「擬宝珠(ぎぼし)」が使用されていると言われています。
江戸時代には三条大橋を「東海道五十三次」の終点と位置付け維持管理を行い、明治13年(1880年)に架け替えられ、昭和25年(1950年)に現在の三条大橋が完成しました。
本事業が開始された平成30年(2018年)当時、更新から約50年経過していた木製高欄の老朽化が進んでいたため、木製高欄、舗装、防護柵の更新を実施することとしました。
これらのデザインは、家村浩和京都大学名誉教授を座長とし、楽式経験者、地元関係者等により設置された「三条大橋デザイン検討会議」において、川崎雅史京都大学教授の監修のもと、検討されたものです。
三条大橋は、安土桃山時代 天正18年(1590年)に架橋した日本で最初の石柱橋で、現在も当時の「石柱」や「擬宝珠(ぎぼし)」が使用されていると言われています。
江戸時代には三条大橋を「東海道五十三次」の終点と位置付け維持管理を行い、明治13年(1880年)に架け替えられ、昭和25年(1950年)に現在の三条大橋が完成しました。
本事業が開始された平成30年(2018年)当時、更新から約50年経過していた木製高欄の老朽化が進んでいたため、木製高欄、舗装、防護柵の更新を実施することとしました。
これらのデザインは、家村浩和京都大学名誉教授を座長とし、楽式経験者、地元関係者等により設置された「三条大橋デザイン検討会議」において、川崎雅史京都大学教授の監修のもと、検討されたものです。
(旧三条大橋の石柱)
防護柵には、魔除けと成長を願う意味の「麻の葉模様」を施し、「檜皮(ひわだ)色」の石柱も設置しています。
また、歩道舗装は「銀鼠(ぎんねずみ)色」で、繁栄の意味が込められた「市松模様」としました。
多くの皆様の御寄付と御支援を賜り完成しました「三条大橋」を新たに財産として、後世に伝えてゆきたいと存じます。
令和6年1月 京都市
「三条大橋の補修・修景事業の取組」(京都市 建設局 2024.10)商店街がさびれてシャッター街になっているのではありません(^_-)
まだ午前9時20分頃の「三条名店街」「イノダコーヒ本店」「京の朝食」がOPEN~11時までのメニューなので最初に訪ねました。
2007年9月1日に訪ねた時は、並ばなかったけど(この時のblogはありません)…
すこし並んで2階でいただきました(1830円)
(12月から2月のメニュー)
食レポは、「オイシイ」という言葉しか浮かばないので(^^ゞ鴨さんの2012年のblogから(画像は、私の撮影)
「イノダで朝食を」(2012年5月6日 日曜日)
たまにはゆったりとした気分で一日を始めたい。
そんな願いを叶えるために向かったのがご存知「イノダコーヒー」の本店。
ちょっと出足が遅かったためすでに旧館、メモリアル館ともいっぱいでしたが
少し待ったただけで本館の2Fに案内されました。
注文したのが「京の朝食」というモーニング・セット。
ご覧のとおりたっぷりのスクランブルエッグ、ハム、人参のグラッセ、サラダ&クロワッサン。
それにジュースとお約束の「アラビアの真珠」(イノダの看板珈琲のことです)が付いています。
こちらのハムはこれまた私の大好きなサザンの地元
湘南・茅ヶ崎の「ハム工房ジロー」のボンレスハムを使っています。
これがまたなかなかなのですよ(^_^.)
朝食に1,200円はかなり勇気がいります(?)が
決してそれを裏切らないのがイノダの実力ですねー。
店員さんの接客もGOOD。
庶民のプチ・贅沢「イノダ編」でした。電車の中や待ち時間に読んでいたのが白洲正子さんの『西行』
だいぶ前に読み終えていたのですが
新鮮な気持ちで読んでいます(^^ゞ
再読しようと思ったのは
芸能きわみ堂「名作の地を訪ねて 大阪・江口」で紹介されていました。
番組の最後に妙(たえ)が、当時、荒れていた野崎観音(慈眼寺)を再興し
中興の祖として「江口の君堂」に祀られています。
病気をする前、何度か訪ねていたのに気がつかなかった
いつかまた訪ねたいなと思います。
建物の沿革
この建物は、明治36年(1903)9月に着工され、明治39年(1906)6月に竣工した日本銀行京都支店の建物である。
日本銀行京都出張所は明治27年(1894)4月に東洞院通御池上るに開設されたが、業務の拡張にともない明治37年7月にこの三条高倉の地に新築移転された。
その後、明治44年(1911)6月に出張所から京都支店に名称変更された。
日本銀行は昭和40年(1965)10月に河原町通二条に移転され、建物は昭和42年(1967)4月から財団法人古代学協会の所有となり、平安博物館として使用され、昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定された。
昭和61年(1986)4月に京都府に寄贈され、京都府教育委員会文化財保護課により創建当初の姿に修理・復元された後、昭和63年(1988)10月に京都府京都文化博物館の別館として一般公開された。 建物の概要
建物は煉瓦造、二階建、一部地下一階、スレート(粘板岩)・銅板葺である。
外観は三条通に面して左右対称で、赤煉瓦に白い花崗岩を装飾的に配している。
この意匠は19世紀後半のイギリスの建築によく使われた様式である。
両翼には塔屋が付き、屋根には通気塔・採光窓などを設けて変化に富む。
内部には旧営業室の吹き抜けの大きな空間があり、カウンターのスクリーンや壁画の装飾、天井などは時代の雰囲気をよく表している。
左右の各室は応接室や所長室として使われていた。
二階には上等室、大広間が設けられた。
この建物の背後には別棟の金庫があり、渡廊下によりつながっている。
金庫塔は煉瓦造、一階建、桟瓦葺である。
設計は、明治の建築界の帝王といわれ、東京駅などを設計した辰野金吾(1854~1919)と、辰野の弟子で各地の銀行建築を手がけた長野宇平治(1867~1937)とによる。 本館では特別展「世界遺産 縄文 どっグ~な展覧会」が11月30日まで開催されていました。
と、言うことは、今日が最終日ということなので見学しました(^_^)b
撮影が「可」ということでいろいろ撮影したのですが、
枚数が多くなりすぎたので、ほんの一部です(^_^;
遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
八日町遺跡 青森県三戸町
時期:晩期
所蔵:青森県立郷土館
風韻堂コレクション
胴部には曲線的な文様が、頭部には粘土を波状につけた装飾があります。
上からのぞくと空洞が見えます。遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
藤株遺跡 秋田県北秋田市
時期:晩期
所蔵:東北大学大学院文学研究科
両脚が欠けています。
頭頂部のやや大きな突起、1個の孔で表現された口、二叉になる手先が特徴です。 遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
星宮遺跡 秋田県大仙市
時期:晩期
所蔵:大仙市
胴部に唐草模様の装飾が巡ります。
上半身に赤彩が残っており、全体が赤く塗られていたとみられます。(出産は、現代の医学でも危険を伴います。出産にかかわる土偶を見ていると縄文時代の人びとが母子の無事を祈る気持が伝わってきました)
しゃがむ土偶 Squatting clay figurine
上岡遺跡
福島県福島市
時期:後期
所蔵:福島市
膝を深く折り曲げて腰を下ろし、膝の上で腕を組んでいます。
出産を表現したものと考えられています。(現代の親たちにも通じるなぁと思ったのが)
手形・足形土製品[複製] Hand and footprint-imprinted clay tablets(replica)
原資料:大石平(1)遺跡
青森県六ヶ所村
時期:後期
所蔵:青森県立郷土館
手形は10~12か月の乳児や2歳前後の幼児、足形は生後8~10か月の乳児のものとみられます。
足形土製品[複製] Footprint-imprinted clay tablets (replica)
原資料:垣ノ島遺跡
北海道函館市
時期:早期
所蔵:函館市教育委員会
1歳前後の子どもの足形です。
埋葬された人物の形見として墓に一緒に納められたとみられます。 骨折し腕が曲がったまま治った腕
An arm with a broken bone that healed crooked.
青島貝塚
宮城県登米市
時期:中期~後期
所蔵:東北大学総合学術博物館
左腕は上腕骨、右腕は橈骨(とうこつ)と尺骨がそれぞれ骨折しています。
その箇所は曲がった状態で治癒しました。 筋萎縮症にかかった縄文人
入江貝塚で発見された男性の人骨は、手足の骨が非常に細いことから、筋肉を長時間動かすことが困難であったと考えられます。
その原因は小児マヒもしくは筋ジストロフィーであったと考えられ、常に介護を必要とする状況でした。
ところが、この男性は寿命が尽きるまで20年ほどくらしており、周りの人びとによる手厚い介護があったことを示しています。
「入江貝塚(いりえかいづか)」(北海道環境生活部文化局文化振興課)国宝
中空土偶 Hollow clay figurine
著保内野遺跡(ちょぼないのいせき)
北海道函館市
時期:後期
所蔵:函館市
中が空洞であり、頭部の突起と両腕を欠いています。
顎には黒く、胴部には赤く塗られた痕があります。
「土偶/北海道函館市著保内野遺跡出土」(文化遺産オンライン) 埋葬されたイヌ Burial dog bones
北小松遺跡
宮城県大崎市
時期:晩期
所蔵:東北歴史博物館
足の一部が失われていますが、非常に状態のよいイヌです。
年齢は7か月から1歳半程度です。
イヌの埋葬
縄文人が埋葬したものは、人間だけにとどまりませんでした。
最古の家畜であり、人間のパートナーとして長期間その関係を築き上げてきたイヌもその対象でした。
遺跡に埋葬されたイヌを分析すると、若くして亡くなった事例も少なくないことがわかります。
これは、栄養状態や病気への対応が現代よりも十分ではなかったことがあげられ、また、狩猟のパートナーとして常に危険な状況にあったことが大きく関連しているとみられます。 コノハズク形土製品
Japanese scops owl-shaped clay figure
草ヶ沢遺跡
岩手県一関市
時期:晩期
所蔵:一関市博物館
ピンと立った耳羽根や丸い目、突き出したくちばし、2本の短い脚での立ち姿がコノハズクに似ています。
ここに展示した石仏は、永禄(えいろく)12年(1569)に織田信長が将軍足利義昭(よしあき)の居館として築いた「旧二条城(二条新第<しんだい>)」の北西の部分と推定される場所(京都市上京区新町通下立売上ル両御霊町ほか)から出土したものです。
信長は工事を短期間に終わらせるために、配下の武将に命じて付近の寺院から石仏などを徴発し、石垣や石段を築造するのに利用させたようです。
宣教師ルイス・フロイスの書翰(しょかん)に「これに用ふる石なきを以て多数の石像を倒し、頸(くび)に縄を付けて工事場に引かしめ(中略)石の祭壇及びフォトケス(仏)即ち偶像を地上に倒してこれを破壊して車に積みて運搬し」と書かれており、出土した石仏の中に頸や胴体の部分で割られたものがあることと一致しています。 これらの石仏は、人為的に埋められた桃山時代の大きな堀の中から出土しました。
この堀は豊臣秀吉の築いた聚楽第(じゅらくだい)の城下の大名屋敷に関連するものと考えられ、天正(てんしょう)年間の終わりごろ(1590年前後)に埋められています。
「旧二条城」は天正元年(1573)の室町幕府滅亡以後、荒廃したとされていますので、これらの石仏も付近にうち棄てられていたいものが、この時に一緒に埋められたようです。
なお発掘調査は、京都府警察本部庁舎の建設に伴い、1993年に(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターによって実施されました。次の目的地に向かいましたが
方向音痴なので間違っているかもしれないけど
「京都市道路元標」があるはずなのに京都銀行本店の建て替え工事中でした(T_T)
…つづく…
食レポは、「オイシイ」という言葉しか浮かばないので(^^ゞ鴨さんの2012年のblogから(画像は、私の撮影)
「イノダで朝食を」(2012年5月6日 日曜日)
たまにはゆったりとした気分で一日を始めたい。
そんな願いを叶えるために向かったのがご存知「イノダコーヒー」の本店。
ちょっと出足が遅かったためすでに旧館、メモリアル館ともいっぱいでしたが
少し待ったただけで本館の2Fに案内されました。
注文したのが「京の朝食」というモーニング・セット。
ご覧のとおりたっぷりのスクランブルエッグ、ハム、人参のグラッセ、サラダ&クロワッサン。
それにジュースとお約束の「アラビアの真珠」(イノダの看板珈琲のことです)が付いています。
こちらのハムはこれまた私の大好きなサザンの地元
湘南・茅ヶ崎の「ハム工房ジロー」のボンレスハムを使っています。
これがまたなかなかなのですよ(^_^.)
朝食に1,200円はかなり勇気がいります(?)が
決してそれを裏切らないのがイノダの実力ですねー。
店員さんの接客もGOOD。
庶民のプチ・贅沢「イノダ編」でした。
だいぶ前に読み終えていたのですが
新鮮な気持ちで読んでいます(^^ゞ
再読しようと思ったのは
芸能きわみ堂「名作の地を訪ねて 大阪・江口」で紹介されていました。
番組の最後に妙(たえ)が、当時、荒れていた野崎観音(慈眼寺)を再興し
中興の祖として「江口の君堂」に祀られています。
病気をする前、何度か訪ねていたのに気がつかなかった
いつかまた訪ねたいなと思います。
そのまま通り過ぎるのはもったいない(^_-)
重要文化財 旧日本銀行京都支店建物の沿革
この建物は、明治36年(1903)9月に着工され、明治39年(1906)6月に竣工した日本銀行京都支店の建物である。
日本銀行京都出張所は明治27年(1894)4月に東洞院通御池上るに開設されたが、業務の拡張にともない明治37年7月にこの三条高倉の地に新築移転された。
その後、明治44年(1911)6月に出張所から京都支店に名称変更された。
日本銀行は昭和40年(1965)10月に河原町通二条に移転され、建物は昭和42年(1967)4月から財団法人古代学協会の所有となり、平安博物館として使用され、昭和44年(1969)3月に国の重要文化財に指定された。
昭和61年(1986)4月に京都府に寄贈され、京都府教育委員会文化財保護課により創建当初の姿に修理・復元された後、昭和63年(1988)10月に京都府京都文化博物館の別館として一般公開された。 建物の概要
建物は煉瓦造、二階建、一部地下一階、スレート(粘板岩)・銅板葺である。
外観は三条通に面して左右対称で、赤煉瓦に白い花崗岩を装飾的に配している。
この意匠は19世紀後半のイギリスの建築によく使われた様式である。
両翼には塔屋が付き、屋根には通気塔・採光窓などを設けて変化に富む。
内部には旧営業室の吹き抜けの大きな空間があり、カウンターのスクリーンや壁画の装飾、天井などは時代の雰囲気をよく表している。
左右の各室は応接室や所長室として使われていた。
二階には上等室、大広間が設けられた。
この建物の背後には別棟の金庫があり、渡廊下によりつながっている。
金庫塔は煉瓦造、一階建、桟瓦葺である。
設計は、明治の建築界の帝王といわれ、東京駅などを設計した辰野金吾(1854~1919)と、辰野の弟子で各地の銀行建築を手がけた長野宇平治(1867~1937)とによる。 本館では特別展「世界遺産 縄文 どっグ~な展覧会」が11月30日まで開催されていました。
と、言うことは、今日が最終日ということなので見学しました(^_^)b
撮影が「可」ということでいろいろ撮影したのですが、
枚数が多くなりすぎたので、ほんの一部です(^_^;
遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
八日町遺跡 青森県三戸町
時期:晩期
所蔵:青森県立郷土館
風韻堂コレクション
胴部には曲線的な文様が、頭部には粘土を波状につけた装飾があります。
上からのぞくと空洞が見えます。遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
藤株遺跡 秋田県北秋田市
時期:晩期
所蔵:東北大学大学院文学研究科
両脚が欠けています。
頭頂部のやや大きな突起、1個の孔で表現された口、二叉になる手先が特徴です。 遮光器土偶 Goggle-eyed clay figurine
星宮遺跡 秋田県大仙市
時期:晩期
所蔵:大仙市
胴部に唐草模様の装飾が巡ります。
上半身に赤彩が残っており、全体が赤く塗られていたとみられます。(出産は、現代の医学でも危険を伴います。出産にかかわる土偶を見ていると縄文時代の人びとが母子の無事を祈る気持が伝わってきました)
しゃがむ土偶 Squatting clay figurine
上岡遺跡
福島県福島市
時期:後期
所蔵:福島市
膝を深く折り曲げて腰を下ろし、膝の上で腕を組んでいます。
出産を表現したものと考えられています。(現代の親たちにも通じるなぁと思ったのが)
手形・足形土製品[複製] Hand and footprint-imprinted clay tablets(replica)
原資料:大石平(1)遺跡
青森県六ヶ所村
時期:後期
所蔵:青森県立郷土館
手形は10~12か月の乳児や2歳前後の幼児、足形は生後8~10か月の乳児のものとみられます。
足形土製品[複製] Footprint-imprinted clay tablets (replica)
原資料:垣ノ島遺跡
北海道函館市
時期:早期
所蔵:函館市教育委員会
1歳前後の子どもの足形です。
埋葬された人物の形見として墓に一緒に納められたとみられます。 骨折し腕が曲がったまま治った腕
An arm with a broken bone that healed crooked.
青島貝塚
宮城県登米市
時期:中期~後期
所蔵:東北大学総合学術博物館
左腕は上腕骨、右腕は橈骨(とうこつ)と尺骨がそれぞれ骨折しています。
その箇所は曲がった状態で治癒しました。 筋萎縮症にかかった縄文人
入江貝塚で発見された男性の人骨は、手足の骨が非常に細いことから、筋肉を長時間動かすことが困難であったと考えられます。
その原因は小児マヒもしくは筋ジストロフィーであったと考えられ、常に介護を必要とする状況でした。
ところが、この男性は寿命が尽きるまで20年ほどくらしており、周りの人びとによる手厚い介護があったことを示しています。
「入江貝塚(いりえかいづか)」(北海道環境生活部文化局文化振興課)国宝
中空土偶 Hollow clay figurine
著保内野遺跡(ちょぼないのいせき)
北海道函館市
時期:後期
所蔵:函館市
中が空洞であり、頭部の突起と両腕を欠いています。
顎には黒く、胴部には赤く塗られた痕があります。
「土偶/北海道函館市著保内野遺跡出土」(文化遺産オンライン) 埋葬されたイヌ Burial dog bones
北小松遺跡
宮城県大崎市
時期:晩期
所蔵:東北歴史博物館
足の一部が失われていますが、非常に状態のよいイヌです。
年齢は7か月から1歳半程度です。
イヌの埋葬
縄文人が埋葬したものは、人間だけにとどまりませんでした。
最古の家畜であり、人間のパートナーとして長期間その関係を築き上げてきたイヌもその対象でした。
遺跡に埋葬されたイヌを分析すると、若くして亡くなった事例も少なくないことがわかります。
これは、栄養状態や病気への対応が現代よりも十分ではなかったことがあげられ、また、狩猟のパートナーとして常に危険な状況にあったことが大きく関連しているとみられます。 コノハズク形土製品
Japanese scops owl-shaped clay figure
草ヶ沢遺跡
岩手県一関市
時期:晩期
所蔵:一関市博物館
ピンと立った耳羽根や丸い目、突き出したくちばし、2本の短い脚での立ち姿がコノハズクに似ています。
(他にも興味深い土偶などがありましたが、紹介しきれません(^_^;)
信長と石仏 ここに展示した石仏は、永禄(えいろく)12年(1569)に織田信長が将軍足利義昭(よしあき)の居館として築いた「旧二条城(二条新第<しんだい>)」の北西の部分と推定される場所(京都市上京区新町通下立売上ル両御霊町ほか)から出土したものです。
信長は工事を短期間に終わらせるために、配下の武将に命じて付近の寺院から石仏などを徴発し、石垣や石段を築造するのに利用させたようです。
宣教師ルイス・フロイスの書翰(しょかん)に「これに用ふる石なきを以て多数の石像を倒し、頸(くび)に縄を付けて工事場に引かしめ(中略)石の祭壇及びフォトケス(仏)即ち偶像を地上に倒してこれを破壊して車に積みて運搬し」と書かれており、出土した石仏の中に頸や胴体の部分で割られたものがあることと一致しています。 これらの石仏は、人為的に埋められた桃山時代の大きな堀の中から出土しました。
この堀は豊臣秀吉の築いた聚楽第(じゅらくだい)の城下の大名屋敷に関連するものと考えられ、天正(てんしょう)年間の終わりごろ(1590年前後)に埋められています。
「旧二条城」は天正元年(1573)の室町幕府滅亡以後、荒廃したとされていますので、これらの石仏も付近にうち棄てられていたいものが、この時に一緒に埋められたようです。
なお発掘調査は、京都府警察本部庁舎の建設に伴い、1993年に(財)京都府埋蔵文化財調査研究センターによって実施されました。次の目的地に向かいましたが
方向音痴なので間違っているかもしれないけど
「京都市道路元標」があるはずなのに京都銀行本店の建て替え工事中でした(T_T)
…つづく…
























こんばんは~
返信削除Kazeさんも京街歩きをされていましたか!!
同じです。
日曜日、月曜日と京街歩きをしていました。(#^.^#)
イノダコーヒーの京の朝食、モーニングセット。
美味しいに間違いないと思いますが。。
なかなかのお値段です。(#^.^#)
私もマキでモーニングセットでした。
京都文化博物館へも入られたのですね。
何年か前に伺ったことがあります。
そうそう、そうだったなぁ~と思いだせました。(#^.^#)
ありがとうございます。
三条商店街に、「えぇっ」一瞬ビックリでした。
まだまだお店が開いていない時間帯だったのですね。
カイさんおはようございます(^^)/
削除カイさんも日曜日、月曜日と京都を歩かれたのですね
報告を楽しみにしています(^_^)b
イノダコーヒの「京の朝食」
>なかなかのお値段です。(#^.^#)
なんですが、鴨さんのお勧めを頂きたかったのです。
私の場合は、交通費があまりかからないので
たまには庶民としてのプチ・贅沢をしたくなります(^_-)
京都文化博物館は、当初、予定にはなかったのですが
たまたま通りかかったので覗きました(^_^)b
土偶などを間近に見ることができてよかったです!
イノダコーヒのモーニングの時間に合わせようと行動したおかげで静かな商店街を歩けましたが、
帰りにそばを通った商店街は諦めました(^_^;