明治時代は「天長節」、父や母の時代は「明治節」でした。
京阪電車神宮丸太町駅で降りて山の方に向かって歩きました。
初め拝観しようとしたお寺の受付時間まで30分ほど早かったので先に進みました。
途中で雨が降り出しましたが、この時期、京都ではよくあることだと思います。
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)
紫雲山と号する浄土宗の大本山で、通称、黒谷(くろたに)の名で親しまれている。
寺伝によれば、承安5年(1175)、法然上人が浄土宗の確立の為に、比叡山西塔の黒谷にならって、この地に庵を結んだのが当寺の起こりと伝えられている。
以後、浄土教の念仏道場として栄え、後光厳(ごこうごん)天皇より「金戒」の二字を賜り、金戒光明寺と呼ばれるにいたった。
また、正長元年(1428)、後小松天皇より、上人が初めて浄土教の真実義を広めた由緒により「浄土真宗最初門」、の勅願を賜った。
御影堂脇壇(みえいどうわきだん)には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つ、吉田寺の旧本尊と伝えられる千手観音立像を安置している。
また、御廟には上人の分骨を納め、廟前には熊谷蓮生坊(くまがいれんせいぼう<直實(なおざね)>)と平敦盛の供養塔二基が建てられている。
寺宝としては、山越(やまごえ)阿弥陀図・地獄極楽図等の屏風や法然上人直筆の一枚起請文(きしょうもん)など数多くの文化財を蔵し、墓地には、国学者山崎闇斎(あんさい)、茶人藤村庸軒(ふじむらようけん)、筝曲開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)などの墓がある。
京都市
山 門
この山門は江戸幕府の命により文政11年(1828)再建にとりかかり萬延元年(1860)12月に落慶されたものである。
古くは当寺九世定玄上人の時代(1398~1415)應永年中に建立されたが應仁の乱にて兵火に罹り焼失し、約350年後に再建された。
山門樓内壇上正面には等身座像の釈迦三尊(釈迦・文殊・普賢)と十六羅漢の像が安置されている。
山門樓上の勅願「浄土真宗最初門」は、後小松天皇(在位1382~1412)のご宸翰(しんかん)で元祖法然上人が最初に浄土の教えの真実義を弘められた念仏発祥の地との意を賜わったものである。
尚、東西本願寺・仏光寺などの宗派名を表わすものではありません。
浄土宗 大本山 金戒光明寺
「金戒光明寺の見どころ」現在は、三代目になるそうです。
鴨さんの投稿に
「秋の読書は黒谷(金戒光明寺)さん(^_^)」(2012年10月27日 土)
知恩院が工事中のためゆっくり足を延ばせて拝観無料の場所は・・・
黒谷さんですね。
お彼岸とお盆以外は訪ねる方も少ないので本堂でのんびりできます。
お隣の真如堂さんは観光客の方もそれなりに来ますがそれでもこちらはOK。
でも熊谷直実ゆかりの由緒正しいお寺さんなのです。
歴史上の人物で一番好きなのは、と聞かれると熊谷直実かも。
三重塔(国・重要文化財)
この塔は、寛永10年(1633)に伊丹重好(豊永宗如堅斉)が以前に仕えていた二代将軍徳川秀忠公の菩提を弔う為に建立した。
塔の内部には文殊菩薩が祀られていたが、平成20年4月御影堂左脇壇に遷座された。
現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし左右の脇壇には、重好公とその両親、当山二十八世潮呑上人の木像が安置されている。
御影堂に遷座された文殊菩薩は、運慶作と伝えられ善財童子・優填王(うでんおう)・最勝老人・仏陀波利三蔵を従えた渡海文殊形式で日本三文殊随一として信仰を集めている。
是非、御影堂へご参拝ください。
金戒光明寺
「本陣に選ばれた3つの理由」(金戒光明寺) 會津墓地の由来
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当たらせることになった。
これが京都守護職である。
文久2年(1862)閏8月會津藩主松平容保公は十四代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ
同12月24日、家臣一千名を率いて京都に到着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒(こんかい)光明寺に威風堂々と入陣した。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や栗田口にも近く軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯することができた。 当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝(るつぼ)と化していたが、守護職となった會津藩の活動には目を瞠(みは)るものがあり、翌年8月18日には激派の公郷を追放し、元治元年(1864)6月には守護職配下の新選組による「池田屋騒動」、7月18日、19日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復されてきた。
しかしながら會津藩の犠牲は大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。
その数は文久2年から慶應3年までの六ヵ年に2百37霊をかぞえ、後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの115霊を合祀した。
 松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を挙藩一致に大義を明らかにし、會津軍の忠誠は、歴史にその名を残した。
この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。
松平 容保 公 都の歌会にて御詠
“窓前竹”
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こゑさへ きよし 窓の呉竹
(原文通りではありません)
会津高校剣舞委員会が花を供えていました。この忠烈なる真義に徹した英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌す。
松平 容保 公 都の歌会にて御詠
“窓前竹”
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こゑさへ きよし 窓の呉竹
(原文通りではありません)
「白虎隊 会津に散った若き獅子たち」(NHKアーカイブス 2013年)
白河・会津のみち
幕末の会津藩
…前略…
会津中将松平容保(まつだいらかたもり)が、藩兵をひきいて京に入ったのは、戊辰(ぼしん<明治維新>)から6年前の文久2(1862)年12月24日のことで、その行列は粛然として、京の上下の目をそばだたせたという。
本営を、東山のふもとの黒谷(くろだに)に置いた。
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)という浄土宗の本山で、石垣にかこまれた城郭のような境域(きょういき)だった。
黒谷こそ、京の鎮(しず)めになった。
ただし、かれらがじかに手を汚して浪士取締の実施にあたったわけではない。
そのほうをひきうけたのは、新選組だった。
(『街道をゆく 33 <新装版> 白河・会津のみち、赤坂散歩』司馬遼太郎 朝日文庫 2009年)
それも容保の側から進んでそうしたのではなく、幕府が、付属させたのである。
新選組という浪士結社は、やりすぎるほどに活躍し、じつに勇敢だった。
『京都守護職始末』にも、心をこめて、
新選組、規律厳粛、志気勇悍、水火と雖(いへど)も辞せず、後(のち)諸浪士来附(らいふ)するもの頗(すこぶ)る多く、守護職の用をなせる事、亦甚だ多し。
と、のべており、事実そうでもあった。 ただ新選組の苛烈な白刃によって都の大路小路に屍(かばね)をさらした長州人や長州系の浪士の数はおびただしく、長州人の恨みを買った。
恨みは、会津藩にむけられ、やがて会津攻めになって晴らされる。
――京でのことは、新選組がやったことだ。
と、前記の『京都守護職始末』が書かないあたり、会津人というのはどこまでも謹直で、このあたりは牢固たる士風から出ているといっていい。
得失でいえば、猥雑なカネ経済的な思考法が、すくなかったことの一得(いっとく)である。
(『街道をゆく 33 <新装版> 白河・会津のみち、赤坂散歩』司馬遼太郎 朝日文庫 2009年) 本堂の中は撮影できませんが
鴨さんが
「秋の読書は黒谷(金戒光明寺)さん(^_^)」(2012年10月27日 土)のつづきに
本堂からの眺めも↓のとおり。
赤い鳥居は平安神宮、その先に京都駅もみえますし結構見渡せます。
畳の上に足を投げ出し、柱に寄りかかって気のすむまで本を読みます(^_^)
いつかこの広い畳と縁側で
うさぎ店長さんやうちの子ウサギPちゃんと日向ぼっこしたいなぁ~。
でもそこまでしたらさすがにご住職に叱られそうですね。
では。
(私の写真では「↑」)勝者は歴史を作り(改変)し、敗者は物語を残すと言われます。
薩長によって会津藩は、朝敵にされてしまいますが
松平容保と孝明天皇は信頼関係にありました。
そのことは別の機会に紹介したいと思います。
戊辰戦争後に会津が受けた苦しみは筆舌に尽くしがたいものです。
父の田舎、奄美は薩摩藩によって「黒糖地獄」と言われる飢餓に苦しました。、
膨大な借財を抱えていた薩摩藩は、黒糖によって莫大な蓄財を得て倒幕へと突き進んでいきます。
その意味からも私は会津藩にシンパシーを感じています。
「戊辰戦争後の会津藩と庄内藩の処分の差について」(大滝一 新潟市医師会報)雨が降ったり止んだりの不安定な天気の中
聖護院門跡にやってきました。
「聖護院は江戸時代、天明の大火を逃れて来られた光格天皇が三年間ほど御在所とされた事から、「仮皇居」の史跡指定を受ける唯一の寺院です」(「聖護院門跡とは」)
この天明の大火で、伊藤若冲は、生活が困窮しました。
「天明の大火(てんめいのたいか)」(フィールド・ミュージアム京都)お庭にはかわいい招き猫がいました(^-^)
本山修験宗総本山 聖護院門跡
聖護院は京都にある修験道の総本山で、本山派修験の教義や儀礼、修行を今に伝える寺院です。
平安時代に創建され、代々皇族や摂家が門跡を務め、御所火災の折は仮の皇居となるなど、格式のある門跡寺院として知られます。
修験の教えと行の精神を守り続ける一方で、宮廷文化の雅な一面も伝えます。
伝統と実践を大切しながら、現代に生きる信仰の場として多くの人々に親しまれています。
第4章 山岳信仰の歴史
5 近・現代の山岳信仰
神仏分離・修験道廃止と霊山
明治政府は神仏を分離し、神祇官を中心とする神道国教化をはたすために慶應4年(1868)4月3日、別当あるいは社僧と称して神勤している僧侶を還俗させ、神勤する場合には神主・社人になることを命じた。
そしてさらに権現・牛頭天王など仏語の神号を改めさせ、神社にある仏像、鰐口(わにぐち)、鐘、仏具の類を取り除くことを布達した。
この神仏分離令の結果、霊山の神社では、中央から派遣された神道国教化の理念に燃えた宮司や、古来一山で僧侶に支配されていた神職による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が頻発した。
…中略…
(『霊山と日本人』宮家準 日本放送出版協会 2004年) 神仏分離は各地の霊山や里修験を統括してきた本・当両派の総本山にも大きな影響を及ぼした。
すなわち本山派では明治元年(1868)聖護院門跡雄仁(ゆうにん)法親王が還俗した。
また当山派の三宝院でも同4年、童形門跡の易宮が還俗して閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王となった。
地方の里修験の中にも還俗したり、復飾して神勤するものが多かった。
こうしたことから聖護院と三宝院の修験本山では明治3年(1870)9月15日の修験者は仏徒とみなすとの通達にもとづいて、地方の修験に対して、復飾は神社へ僧形で奉仕する修験者に対するもので、仏式の儀礼を行なうことはかまわないと通達している。
けれども明治政府は明治5年(1872)太政官布告により、修験宗を廃止して、修験者は本寺所轄のまま天台・真言の仏教教派に帰入するように命じた。
なおこの修験道廃止令が出された背景には典型的な神仏習合形態の修験を仏教化するとともに、無檀、無住の修験者が憑祈禱、うらない、まじないなどの呪術的活動をすることを防ぐ意図もあったと考えられる。
(『霊山と日本人』宮家準 日本放送出版協会 2004年)
講談社学術文庫で読むことができます。
よく「日本の伝統」という人がいますが、何時の時代からの「伝統」なのか。
「撮影禁止」とあったのでお店の人に聞くとカレーはいいそうです。店内は止めてくださいとのこと!
1回目、2回目の時は、「ベジタブルカレー 甘口」(カツなし)。
今回は「ベジタブルカレー 甘口」のカツカレーに(^_-)
甘口だったけど私には、結構辛いです(^_^;
ライスが黄色いのは「ターメリックライス」だそうです。
読んでいた本が司馬遼太郎の『白河会津のみち、赤坂散歩』
この本の最初に10月19日に紹介しました源融(みなもとのとおる)が
「陸奥(みちのく)好きの第一世代の人だったろう」(「奥州こがれの記」)と紹介されています。鴨さんが
「八ッ橋だけではない聖護院八つ橋?」(2014年3月21日 金)
聖護院八ツ橋さん。
この名前ですぐに思い浮かぶのは当然ですが八ッ橋。
ですが私はもう一つお気に入りのものがあります。
それが「聖護院まんじゅう」。
それでもこちらのこだわりのニッキがほんのり香りますので
八ッ橋が連想されますが、ちゃんとした?お饅頭です。
散らされたけしの実がアクセントになっているでしょ
連休中に京都にお越しの際に
少し変わったお菓子はいかがですか。
どうぞご賞味くださいませ(^_^)/
と投稿されていたので、お昼を食べる前に店により
お土産に買おうとしたのですが
お店の人に聞くと10年ほど前までは販売していたそうですが…
(鴨さんは2014年11月30日に天国へと旅立ちました)方向音痴なのにいつもの癖でついつい路地に入ったりしていたら
「第三高等学校基督教青年会館跡」(京都市)
ばけばけ(25)第5週「ワタシ、ヘブン。マツエ、モ、ヘブン。」お店の人に聞くと10年ほど前までは販売していたそうですが…
(鴨さんは2014年11月30日に天国へと旅立ちました)方向音痴なのにいつもの癖でついつい路地に入ったりしていたら
「第三高等学校基督教青年会館跡」(京都市)
和食に「牛乳と合わなそうじゃのう」と墓穴を掘るようなことを言いだしましたね(^_-)
一般社団法人全国牛乳流通改善協会の投稿に(10月31日)
〝史上初の「牛乳は和食に合わない問題」発生!?(笑)〟
とあるのですが
私の家の朝食は、基本、ご飯と味噌汁、納豆と食べた後、牛乳を飲んでいますよ(^_-)
「明治天皇行幸所牧畜場阯」(左)と「牧畜場記念碑(ぼくちくじょうきねんひ)」(右))
明治、牛乳ものがたり
…前略…
この宮内庁御用達の京都牛乳、その名を松原牛乳という。
宮内庁御用達を拝命したのは明治32年(1899)。
もっとも、残念ながら会社組織である(株)松原牛乳は平成13年に廃止され、日本ミルクコミュニティに吸収。
しかし<松原牛乳>はその根強い人気から京都市内限定販売の牛乳として残され、今に至っている。
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)…中略…
明治の西洋農業といえば札幌農学校が有名だが、この官立京都牧畜場はそれより4年早い明治5年(1872)開設。
当時の府知事・槙村正直(まきむらまさなお)が海外から技師を招き、勧業政策の一環として旧練兵場敷地・川端荒神橋付近で牛羊を放牧させたのだ。
…後略…
(『京都はんなり暮し<新装版>』澤田瞳子 徳間文庫 2015年)
今回、木箱の牛乳箱を見つけることはできませんでしたが
これから京都の街歩きでキョロキョロ探します(^_-)



























0 件のコメント:
コメントを投稿
申し訳ありませんが,日本語だけを受けつけますm(_ _)m