季節が一気に進みました。
とは言っても人間の方が、「季(気)」が早いですよね!
ハロウィーンが終わった途端、店頭にはクリスマスやお正月商品が並んでいる(^_-)
「北日本で雪強まる あすにかけ東・西日本の山沿いでも積雪か」(NHK)日曜日に京都の街歩きをしたけど中国からの観光客が減っているようには思えなかった。
それよりもこちらの方が心配ですね。
中国では、政府批判ができない分、日本叩きを中国政府が黙認する。
「北京の日本大使館 安全確保に努めるよう日本人に呼びかけ」(NHK 11月17日)
田中均さんの投稿(11月15日)
高市首相に判ってもらいたいのは、安保の世界では、はっきり述べることは時に安保環境を逆に悪化させると言うことだ。
安倍首相は右派タカ派であったが、首相としての振る舞い方を承知していた。
空母の上の「はしゃぎぶり」を続けると国を抜き差しならぬ危機に追い込む。
それではもう遅い。
朝ドラばけばけ(37)第8週「クビノ、カワ、イチマイ。」
「ビア」の正体が分かって良かったですね(^_-)
薬屋で販売しているのが面白かったです。
ハーベスト出版の投稿に
ハーンがビールを買ったお店🍺
ヘブンの引っ越しの道中、薬店の暖簾が映っていたように、ハーンが住んだ借家とビールの販売店はごく近所でした
「先生は夕食後には必ず朝日ビールを二本ずつ飲まれました。
このビールは当時松江大橋北詰の
(続きは、サイトにアクセスしてください(^_-)…)
それにしても「beer」が「bear」でなくて良かったですね(^_-)「ビア」の正体が分かって良かったですね(^_-)
薬屋で販売しているのが面白かったです。
ハーベスト出版の投稿に
ハーンがビールを買ったお店🍺
ヘブンの引っ越しの道中、薬店の暖簾が映っていたように、ハーンが住んだ借家とビールの販売店はごく近所でした
「先生は夕食後には必ず朝日ビールを二本ずつ飲まれました。
このビールは当時松江大橋北詰の
(続きは、サイトにアクセスしてください(^_-)…)
以前は、熊が人家に近づくことはめったになかったし、
山を歩いてる時も鈴などを鳴らしながら歩いていると
ある程度、いきなり出会うことを防げたと思うのですが……
NHKアカデミア「五箇公一(前編)未来をひらくのは“生物多様性”」
「……都市化を進める一方でかつての里山というようなライフスタイルを捨てた結果何が起こっているかというと
本来 こういった里山といわれるエリアっていうのは野生動物と人間社会を隔てる一つのバッファーゾーンでもあったんです。
人間がとにかく田畑を耕してそういった雑木林をしっかり管理するという人間活動を活発に行うことで
ここは人間が住むエリアであるということが、
そこで示されなおかつすみ分けができてたという。
そういうエリアがあったのが、
今はもう逆に都市開発を進めてどんどん都市化するという中で
どんどん崩壊していくということで結果的に
そこで防波堤になっていた動物たちの侵入というものがどんどん許されるようになって
今のこういったクマ問題なんかにもつながっているんだろうと思うんですね。」
「バッファーゾーン」(buffer zone 緩衝地帯) 熊送(くまおく)り
子どもの頃、長い道のりを歩いて祖父の家へよく遊びに行った。
途中必ず「チカプミ」というアイヌコタン(集落)を通らなくてはならず、いつもドキドキだった。
明治の中頃、青森・津軽(つがる)から移民してきたわたしのじいさん、ばあさんはその近くの木材工場で働き、子どもをたくさんつくった。
すなわち、母や叔父さん、叔母さんなのだが、そのコタンのそばに小学校ができ、母は第三回生で「生徒の半分以上はアイヌだったよ」なんて話した。
いちばん上の叔父さんはやんちゃ坊主で、「いつもアイヌの子どもと喧嘩(けんか)し、そして子分にしていたぞ」と自慢していた。
(『あべ弘士 どうぶつ友情辞典』あべ弘士 クレヨンハウス 2005年) ドキドキしながら走って通ったアイヌコタンの、そのドキドキの理由のひとつが、クマだった。
丸太で囲った檻(おり)にヒグマが飼われていたり、鎖に繋がれたりしていた。
そのクマはその年の春、仔グマで生け捕りにし、秋、「熊送り(イオマンテ)」の時まで大切に飼っているのだ。
アイヌはヒグマのことを「キムンカムイ」と呼び、それは、山の神・山爺(やまおやじ)・神旦那(かみだんな)・神奥方(かみおくがた)・神なる獲物など、いろいろな意味があり、古くからヒグマを聖獣・神として崇(あが)め、尊敬していた。
「熊送り」は飼っていた仔グマを儀礼的に殺す祭事(さいじ)だ。
神の国にすんでいるヒグマは人間の喜ぶ「肉と毛皮」を持ってくる大事な客であり、村は歓迎して最高の接待(せったい)をし、また神の国に送り返すという神儀(しんぎ)である。
わたしが子どもの頃見たあのクマはそのためのクマだったのだ。 後年、動物園時代、ある年の冬、旭川(あさひかわ)の雪まつりでアイヌが「イオマンテ」をやるという。
でもクマがいない。
ということで、動物園のクマを貸してほしいと言ってきた。
「はい、いいですよ。でもうちのヒグマはでかすぎてドアから出そうにもないので、ニオングマでは?」
次の日、ふたりのアイヌがやってきた。
ニホングマなんてクマと思っていないのか、タッタとクマ舎に入り、サッサと縛(しば)り、トットと連れて行った。
しかも素手(すで)で。
「えーっ、スゴイ!」
わたしたち、プロと自負していた飼育係みんな、口あんぐり。
ヒグマとつき合ってきたアイヌとシャモ(和人<わじん>)の歴史の差を改めて感じた。
(『あべ弘士 どうぶつ友情辞典』あべ弘士 クレヨンハウス 2005年)餅寅で「光秀饅頭」を買いました(美味しかった!)。
その時に「京都の人は、光秀に好感を持っている」と書きました。
第一章 道喜の粽がたり
光秀の真実
御所の歳事というのはそう華やかなものではないけれども、花を添えることなど決まりのようなものがあって、これが『御定式御用品雛形(ごじょうしきごようひんひながた)』(第三章参照)という巻物になってわが家に残っています。
それの5月のところにこの粽が出てくるんです。
これは「粽百把を丸積みす」と書いてあるんですが、当時の一把は10本ですから、約千本を丸積みにしたということでしょう。
あの円錐型のものを積んでいくわけですから、外からみた感じはもう粽の形にみえないですね。
いまも東西の両本願寺の「おけそく」なんかにそういう供え方をしているものがあります。
干菓子とか果物とか、そういうものを飾りつけて、まるく盛っていく。
奈良の春日神社でもそういう供え方をします。
粽の供え方というのは、本来はそういう形だったようです。
(『和菓子の京都 増補版』川端道喜 岩波新書 2025年) 信長が初めて京に入ってきたときに、尾張の田舎侍の耳にも「御所粽」というのが伝えきこえていたとみえて、京に入ってくるなり、禁裏、つまり御所へ粽を買いに行ったという、笑い話になって後世に書き残されているんですよ。
御所粽というからには天皇家が売ってるんだろうということで、御所へ買いに行ったというわけです。 それともう一つ、光秀が食べたのが道喜の粽だと『家の鏡』(第五章参照)にも出てくるんです。
「これよりさきに、秀吉公光秀か罪をせめて山崎にて御対陣ありし比、御陣へ粽をまゐらせたりしことありき。さる由緒によりてにや。御茶もかくたひたひまひしならん。又光秀か陣へも粽をおくりし事世にしる所なり」と書いてあるんですが、それほど世に知るところとなったというわけですから、有名な話ということなんでしょう。
そこでのエピソードに、光秀ほどの武将があまりのあわてざまに、粽を笹ごとほおばったというのがあり、人がみなそれをみて、光秀の先はもう短いと悟ったという、言い伝えがあちこちに書かれているわけです(たとえば『太閤真顕記』)。 しかし、京都人はわりあい光秀に好感を持っています。
亀岡が光秀の居城であったし、現在も光秀祭があるくらいですからね。
光秀というのは信長を倒した後、京都に地子銭(じしせん)、いまでいう税金をいっさい免除するという一種の懐柔策をとったといわれます。
御所の方も光秀によろしく頼む、てなことを綸旨(りんじ)を出して頼んだくらいですから、京都人も光秀びいきなのはあたりまえなんです。 わが家では、光秀というのは非常に教養のある武将で、茶心もある人とされています。
つまり茶人であるから、粽を食べるときに笹ごと食べたんじゃなくて、笹を広げて、そして戦陣だから懐紙が手元になかったから笹で口元を隠して粽を食べたんだ、それを知らない者がみて、笹ごと食ったようにいったんだろうというように考えられているわけです。
しかし、よく調べてみると、光秀が謀反を起こす前に、京の西北の愛宕山で連歌の会をしているわけですね。
この愛宕というところは、先に述べたように粽の有名な場所なんです。 だから、光秀が食べたというのは、この連歌の会で食べた愛宕粽じゃないか、と私は思っています。
そのことに尾ひれがついて、そのうちに、光秀は道喜粽を笹ごと食ったというエピソードが生まれたんじゃないかと考えています。
ところが、江戸の末期にはもう、光秀が食べたのは道喜粽であると決めかかっているような文書になって残ってしまったということです。
(『和菓子の京都 増補版』川端道喜 岩波新書 2025年)
ホームページがないようなので
「川端道喜」(京名物百味會)
「おけそく」について「お供物」(龜屋陸奥)今朝の父の一枚です(^^)/
先日、紹介した『平家物語』の源頼政の「鵼」退治を数回に分けて転記しますφ(.. )
巻の四
鵼(ぬえ)
そもそも源三位(げんざんみ)入道頼政(よりまさ)は、摂津守頼光(せっつのかみらいこう)の五代目、三河守頼綱(みかわのかみよりつな)の孫、兵庫頭仲政(ひょうごのかみなかまさ)の子息である。
保元(ほうげん)の合戦の折、味方に先駆けして攻めこんだが、これという戦乱ほどの賞にあずからなかった。
又平治の乱も、源氏の縁(ゆかり)をすてて平家側に味方したが、やはりたいして酬(むく)いられることもなかった。
ながらく禁裏(きんり<皇居>)の守護番役にあったが、殿上人(てんじょうびと)の列に入ることもなく、齢(とし)かたむいてから述懐の和歌一首を詠(よ)み、はじめて昇殿をゆるされることになった。
人知れず大内山(おおうちやま)の山守は
木隠れてのみ月をみるかな
大内山の山番は木の間隠れに、人知れず月をながめるばかりだという、ひそかに身の不遇をかこつ歌意で、それを憐れまれて殿上の人となったわけである。
しばらく正四位下(げ)にとどめられていたので、三位に昇りたいと願い、
昇るべき頼りなき身は木のもとに
椎(しい)をひろひて世を渡るかな
椎はまだ四位でいる自分をことよせたこの歌で、やっと三位になった。
やがて出家して源三位入道とよばれ、今年はとって七十五歳になる。
…つづく…
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)












