「・探検路は細くなっています。杭とロープに沿って歩いてください。」
ハシボソガラスが注意書きを守って歩いていました(^_-)
今朝は、晴れていたのですが、日差しが雲に覆われると急に風が吹いて寒かったです。
黄砂が飛来しているので洗濯物は部屋干しにしてリハビリ散歩に出かけました。ばけばけ(41)第9週「スキップ、ト、ウグイス。」
知事の娘・リヨが「ウグイス」を持参します。
それをSNSでは、「メジロ」を「ウグイス」と間違えていると、早速、「反省会」の方が投稿されていたようです。
翌日、ばけばけ(42)第9週「スキップ、ト、ウグイス。」
で、様々な説が飛び交う中
宿の花田夫婦の言い争いに何か記事のネタがあるのではと嗅ぎつけた
梶谷吾郎が「ウグイス」ではなく「メジロ」だと正論を吐きますが、
普段てんこ盛りの記事を書くために信用してもらえませんでしたね(^_-)
このような展開を見ながら思ったのは、
SNSでよくフェイクが繰り返し流れることによって
それが真実だと信じられること
息を吐くように嘘を発信していたN党の党首が起訴されましたね。
確か彼は執行猶予中だったと思いますが… 神々の国の首都
四
「ホーケキョー」
私のところの鶯(うぐいす)はやっと目を覚まして朝のお祈りの声をあげる。
読者には鶯が何であるか分かるだろうか。
その時は仏の教えを告げる聖なる小鳥である。
すべての鶯はいつとも知れぬ昔から仏の教えを告げつづけて来た。
すべての鶯は皆一様に神聖な経典のいみじい徳を人々に説いて聞かせる。
(『神々の国の首都』小泉八雲著 平川祐弘編 講談社学術文庫 1990年)「ホーケキョー」
この声は日本語で「法華経」と解され、それはすなわちサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリカ」を意訳した妙法蓮華経で、日蓮宗の聖典になっている。
わが家の羽根をもった小さな仏の御弟子の信仰告白は簡潔そのものである。
神聖な経典の名を連禱のように繰り返し唱えるだけで、その合間にケキョ・ケキョ・ケキョという激しい流暢(りゅうちょう)なさえずりが入る。
「ホーケキョー」
こういう唯の一句だけであるが、どんなに楽しそうに彼はそのお経の名を唱えることか。
なんという緩やかで甘ったるい喜びを込めて彼は黄金(こがね)の音節をひと節ひと節長くのばして発音することか。 経典にはこう書かれている――「法華経を備え、読む者は、これを説き、また書写する者は、八百の眼力(がんりき)の功徳(くどく)が授けられ、阿鼻地獄の低きより天上の高き果てに至るまで広く三界(さんがい)を見通すことがゆるされる。また彼は一千二百の聴力の功徳が授けられ、神々の声や、妖鬼や悪魔の音声(おんじょう)や、外道(げどう)の声にならない叫びまで三界のあらゆる物の音を聞き分けることができるであろう」と。
「ホーケキョー」
この唯の一語のことであるが、経典にはこのように書かれている――「法華経から唯の一語でも欣喜(きんき)して学び取る者が受ける功徳は、数えるもおろかな四十万阿僧企耶(アサンケーヤ)世界に住む無数の人々に仕合せをもたらすに必要な品々を授ける者が己に受ける功徳に遥かにまさる」と。「ホーケキョー」
こう鳴いた後でその鳥はいつも敬い慎しむ気持から一息入れて、それから歓喜あふれるさえずりを以て鳥らしい賛仏歌を朗々と歌い上げる。
さえずりが一わたり済むと、五秒ばかりの休止があって、次に思い深げな賛嘆の音調で尊いお経の名を唱え、それからまた小休止、次いで狂おしい、豊かな、情感を込めたさえずりが響きわたる。
彼の姿を読者が見ることができたら、あれほど力強い良く通る高音があんなに細い喉(のど)からさざ波打ってあふれ出たものだと驚くにちがいない。
と言うのも、彼は翼をもった歌い手の中では最も小柄な部類に属しているからだ。
しかもこの鳥の歌声は広い川を越えた遠くからでも聞こえる。
学校へ行く途中の子供たちは毎日一町も離れた橋の上で立ち止まって彼の歌に耳を傾ける。
しかもこの鳥、器量の方は余りよろしくない。
くすんだ色のちびっ児で、大きな檜(ひのき)の箱に針金の網を張った窓の外に更に紙障子(かみしょうじ)を閉め渡したのが彼の住みかで、そお暗い中に身を潜めている。
暗がりが好きならしい。 鶯は敏感で扱いにくい鳥で、その扱いにくさは横暴なくらいだ。
餌(えさ)はすべて骨折って磨りつぶして、秤(はかり)にかけ、毎日ちょうど同じ時刻に決まった分量だけ与えなければならない。
死なせないという唯それだけの事のためにも、出来るだけの注意深い世話が必要である。
それでもやはり彼は大事な鳥で、「この者の値と申さば遥かなる国の果てよりこれを求む」の類(たぐい)で珍しい上等品である。
実際彼は買おうにも私の手のとどくような代物(しろもの)ではなかったが、幸いにもこの国も最も優しい女性の一人から送り届けられた。
当地の知事の令嬢が病気でしばし引き籠もっている外国人教師の無聊(ぶりょう)を慰めようとの心づかいから、この可愛い小鳥の素晴らしい贈物を思い付いたというわけである。
(『神々の国の首都』小泉八雲著 平川祐弘編 講談社学術文庫 1990年)2章 天下統一への道を目指した信長の栄光と挫折
京都の町衆を敵にまわす
かつて室町幕府も京都の商工業の発展に注目し、商工民からさまざまな租税を徴収していた。
また、戦国時代には領内の交易をさかんにしようと考えて、楽市のような形で商人を優遇した領主もいた。
しかしかれらは、土地支配を政権の基礎とする発想から抜けきれていなかった。
それに対して、信長はみずからの手で流通を活発化させつつ、強固な支配を商工民におよぼそうと考えたのである。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年) 信長は、入京にあたって厳しい軍令を行ない、市民に迷惑をかけた家臣を厳罰に処した。
たとえば、通りすがりの女性をからかった足軽(あしがる<下級の武士>)を信長がみずから斬殺(ざんさつ)した話や、商人と買い物のことで争った武士が、大木に縛られてさらし者にされた話がつたわっている。
そのため、信長の家来には一銭でも盗めば斬首(ざんしゅ)されるという「一銭斬(いっせんぎ)り」の言葉が広まり、京都の町民は信長の統治を歓迎した。
これにより、信長はさらに京都の商工業の振興策をすすめた。 ところが、まもなく京都の町衆は、信長が自分たちの味方でなかったことに気づく。
室町幕府は商工民の自治を大幅に認めていたのに対し、信長はかれらを自分の領民としてあつかったからだ。
天正元年(1573)に足利義昭を旧二条城(武衛殿<ぶえいでん>)に包囲したとき、信長は皇室財政維持の名目で、戦費を上京・下京の人びとに課した。
上京がそれを拒否すると、信長はただちに上京に焼き討ちをかけた。
その結果、ついに京都の町衆と信長とは、敵味方になってしまったのである。 打倒信長の拠り所となった愛宕山
信長は、強い軍事力をもっていた。
多人数の中小級武士、農民が団結した一向一揆(浄土真宗の信徒による軍事行動)でさえ、信長には勝てなかった。
であれば、京都の町民が一揆をおこしたぐらいでは、とうてい信長政権は倒せない。
それゆ、信長の強固な支配に反感をもつ公家や僧侶、商工民らは、京都をまもる寺社の呪力(じゅりょく)にすがって信長を滅ぼすほかないと考えはじめていた。 京都から北西はるかにのぞまれる愛宕山は、古代から霊山として重んじられていた。
そこは天狗(てんぐ)信仰の拠点であり、「愛宕山の天狗さんに頼めば、憎い相手に災いをもたらすことができる」といわれていた。
平安時代末に、藤原忠実(ただざね)、頼長(よりなが)父子が愛宕山の天狗に願って、近衛(このえ)天皇を呪い殺したという噂が流れたこともある
本能寺の変をおこした明智光秀は、決起直前に愛宕山に参詣(さんけい)することで信長討伐を決意したともつたえられる。
これはかれが、京都の人びとの思いを背負って決起したことを意味するものである。
信長は軍略に長じ、戦費や自分のぜいたくのための金集めには熱心であったが、国政に関する知恵はなかった。
それゆえに、信長は光秀の反乱によって倒された。
このあと豊臣政権をへて、日本は度幕府支配のもと長期の安定にむかっていく。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
「愛宕神社 愛宕社の総本宮」(NHKアーカイブス 2006年)今朝の父の一枚です(^^)/
公園でもかなり赤くなったけどやはり猛暑の影響かな?
年々、鮮やかな紅葉が見られなくなりました。
「巻の四 鵼」つづき
日ごろ人々が言っていたとおり、お悩みの時刻になると、東三条の森の方から黒雲ひとむら立ちおこって、御殿の上にたなびいた。
頼政が眼をこらして見上げると、雲の中に怪しい物の姿がある。
これを射損じたならば、もう生きてはおられないと思いながら、矢をとって弓につがい、南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)と心に念じて弓をひきしぼり、ひょうとばかり矢をはなった。
すると、ぶっつりと手ごたえがして命中した。
「おう、仕留(しと)めたぞ」
と叫び声をあげると、井早太が進みよって屋根よりころげ落ちてくる怪物をとって押え、つづけさまに九たびまで刺しとおした。
その時上下の人々が手に手に火をともして馳せあつまり、怪物を照らしてみたところ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしている。
なく声は鵼に似て、恐ろしさいうばかりない。
主上は御感心のあまり、獅子王と名づけられていた御剣を御下賜になった。
宇治(うじ)の左大臣藤原頼長(よりなが)がこの御剣をとりつぎ頼政に賜わろうとして、紫宸殿の正面の階段をなかばおりかけた折柄、季節は四月十日すぎの頃なので、雲間をほととぎすがふた声三声啼いて飛びすぎた。
その時宇治の左大臣殿が、
ほととぎす名をも雲井(くもい)にあぐるかな
と雲井を宮居(みやい<宮中>)にかよわして、頼政の武勇をほめたたえた。
頼政は庭上に右膝をつき、狩衣の左の袖をひろげ、それとなく月を横目に仰ぎながら後をうけて、
弓はり月のゐるにまかせて
とつけた。
私は弓はり月の入るまま、盲矢(めくらや)を射たにすぎません、と「入る」を「射る」にかけ、謙遜の意をあらわしたものだ。
そこで主上も臣下も、
「頼政は弓矢をとって較(くら)べる者がないばかりか、歌道にもすぐれている」
と感心された。
ところで射殺した変化(へんげ)の物は、丸木舟に入れて流したとのことである。
…つづく…
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
午後から心臓リハビリ。
先日、将軍塚に上ることができたのも
トレッドミルで30分間(傾斜3%)をどれくらいのペースで歩けば
無理なく息が苦しくならないように歩けるかを考えてリハビリをしているからだと思います。
30分間で歩いた距離は1.76km
消費カロリーは112kcalでした。
それが真実だと信じられること
息を吐くように嘘を発信していたN党の党首が起訴されましたね。
確か彼は執行猶予中だったと思いますが… 神々の国の首都
四
「ホーケキョー」
私のところの鶯(うぐいす)はやっと目を覚まして朝のお祈りの声をあげる。
読者には鶯が何であるか分かるだろうか。
その時は仏の教えを告げる聖なる小鳥である。
すべての鶯はいつとも知れぬ昔から仏の教えを告げつづけて来た。
すべての鶯は皆一様に神聖な経典のいみじい徳を人々に説いて聞かせる。
(『神々の国の首都』小泉八雲著 平川祐弘編 講談社学術文庫 1990年)「ホーケキョー」
この声は日本語で「法華経」と解され、それはすなわちサンスクリット語の「サッダルマ・プンダリカ」を意訳した妙法蓮華経で、日蓮宗の聖典になっている。
わが家の羽根をもった小さな仏の御弟子の信仰告白は簡潔そのものである。
神聖な経典の名を連禱のように繰り返し唱えるだけで、その合間にケキョ・ケキョ・ケキョという激しい流暢(りゅうちょう)なさえずりが入る。
「ホーケキョー」
こういう唯の一句だけであるが、どんなに楽しそうに彼はそのお経の名を唱えることか。
なんという緩やかで甘ったるい喜びを込めて彼は黄金(こがね)の音節をひと節ひと節長くのばして発音することか。 経典にはこう書かれている――「法華経を備え、読む者は、これを説き、また書写する者は、八百の眼力(がんりき)の功徳(くどく)が授けられ、阿鼻地獄の低きより天上の高き果てに至るまで広く三界(さんがい)を見通すことがゆるされる。また彼は一千二百の聴力の功徳が授けられ、神々の声や、妖鬼や悪魔の音声(おんじょう)や、外道(げどう)の声にならない叫びまで三界のあらゆる物の音を聞き分けることができるであろう」と。
「ホーケキョー」
この唯の一語のことであるが、経典にはこのように書かれている――「法華経から唯の一語でも欣喜(きんき)して学び取る者が受ける功徳は、数えるもおろかな四十万阿僧企耶(アサンケーヤ)世界に住む無数の人々に仕合せをもたらすに必要な品々を授ける者が己に受ける功徳に遥かにまさる」と。「ホーケキョー」
こう鳴いた後でその鳥はいつも敬い慎しむ気持から一息入れて、それから歓喜あふれるさえずりを以て鳥らしい賛仏歌を朗々と歌い上げる。
さえずりが一わたり済むと、五秒ばかりの休止があって、次に思い深げな賛嘆の音調で尊いお経の名を唱え、それからまた小休止、次いで狂おしい、豊かな、情感を込めたさえずりが響きわたる。
彼の姿を読者が見ることができたら、あれほど力強い良く通る高音があんなに細い喉(のど)からさざ波打ってあふれ出たものだと驚くにちがいない。
と言うのも、彼は翼をもった歌い手の中では最も小柄な部類に属しているからだ。
しかもこの鳥の歌声は広い川を越えた遠くからでも聞こえる。
学校へ行く途中の子供たちは毎日一町も離れた橋の上で立ち止まって彼の歌に耳を傾ける。
しかもこの鳥、器量の方は余りよろしくない。
くすんだ色のちびっ児で、大きな檜(ひのき)の箱に針金の網を張った窓の外に更に紙障子(かみしょうじ)を閉め渡したのが彼の住みかで、そお暗い中に身を潜めている。
暗がりが好きならしい。 鶯は敏感で扱いにくい鳥で、その扱いにくさは横暴なくらいだ。
餌(えさ)はすべて骨折って磨りつぶして、秤(はかり)にかけ、毎日ちょうど同じ時刻に決まった分量だけ与えなければならない。
死なせないという唯それだけの事のためにも、出来るだけの注意深い世話が必要である。
それでもやはり彼は大事な鳥で、「この者の値と申さば遥かなる国の果てよりこれを求む」の類(たぐい)で珍しい上等品である。
実際彼は買おうにも私の手のとどくような代物(しろもの)ではなかったが、幸いにもこの国も最も優しい女性の一人から送り届けられた。
当地の知事の令嬢が病気でしばし引き籠もっている外国人教師の無聊(ぶりょう)を慰めようとの心づかいから、この可愛い小鳥の素晴らしい贈物を思い付いたというわけである。
(『神々の国の首都』小泉八雲著 平川祐弘編 講談社学術文庫 1990年)2章 天下統一への道を目指した信長の栄光と挫折
京都の町衆を敵にまわす
かつて室町幕府も京都の商工業の発展に注目し、商工民からさまざまな租税を徴収していた。
また、戦国時代には領内の交易をさかんにしようと考えて、楽市のような形で商人を優遇した領主もいた。
しかしかれらは、土地支配を政権の基礎とする発想から抜けきれていなかった。
それに対して、信長はみずからの手で流通を活発化させつつ、強固な支配を商工民におよぼそうと考えたのである。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年) 信長は、入京にあたって厳しい軍令を行ない、市民に迷惑をかけた家臣を厳罰に処した。
たとえば、通りすがりの女性をからかった足軽(あしがる<下級の武士>)を信長がみずから斬殺(ざんさつ)した話や、商人と買い物のことで争った武士が、大木に縛られてさらし者にされた話がつたわっている。
そのため、信長の家来には一銭でも盗めば斬首(ざんしゅ)されるという「一銭斬(いっせんぎ)り」の言葉が広まり、京都の町民は信長の統治を歓迎した。
これにより、信長はさらに京都の商工業の振興策をすすめた。 ところが、まもなく京都の町衆は、信長が自分たちの味方でなかったことに気づく。
室町幕府は商工民の自治を大幅に認めていたのに対し、信長はかれらを自分の領民としてあつかったからだ。
天正元年(1573)に足利義昭を旧二条城(武衛殿<ぶえいでん>)に包囲したとき、信長は皇室財政維持の名目で、戦費を上京・下京の人びとに課した。
上京がそれを拒否すると、信長はただちに上京に焼き討ちをかけた。
その結果、ついに京都の町衆と信長とは、敵味方になってしまったのである。 打倒信長の拠り所となった愛宕山
信長は、強い軍事力をもっていた。
多人数の中小級武士、農民が団結した一向一揆(浄土真宗の信徒による軍事行動)でさえ、信長には勝てなかった。
であれば、京都の町民が一揆をおこしたぐらいでは、とうてい信長政権は倒せない。
それゆ、信長の強固な支配に反感をもつ公家や僧侶、商工民らは、京都をまもる寺社の呪力(じゅりょく)にすがって信長を滅ぼすほかないと考えはじめていた。 京都から北西はるかにのぞまれる愛宕山は、古代から霊山として重んじられていた。
そこは天狗(てんぐ)信仰の拠点であり、「愛宕山の天狗さんに頼めば、憎い相手に災いをもたらすことができる」といわれていた。
平安時代末に、藤原忠実(ただざね)、頼長(よりなが)父子が愛宕山の天狗に願って、近衛(このえ)天皇を呪い殺したという噂が流れたこともある
本能寺の変をおこした明智光秀は、決起直前に愛宕山に参詣(さんけい)することで信長討伐を決意したともつたえられる。
これはかれが、京都の人びとの思いを背負って決起したことを意味するものである。
信長は軍略に長じ、戦費や自分のぜいたくのための金集めには熱心であったが、国政に関する知恵はなかった。
それゆえに、信長は光秀の反乱によって倒された。
このあと豊臣政権をへて、日本は度幕府支配のもと長期の安定にむかっていく。
(『京都を歴史に沿って歩く本[戦国時代~幕末維新篇]』武光誠 河出書房新社 2012年)
「愛宕神社 愛宕社の総本宮」(NHKアーカイブス 2006年)今朝の父の一枚です(^^)/
公園でもかなり赤くなったけどやはり猛暑の影響かな?
年々、鮮やかな紅葉が見られなくなりました。
「巻の四 鵼」つづき
日ごろ人々が言っていたとおり、お悩みの時刻になると、東三条の森の方から黒雲ひとむら立ちおこって、御殿の上にたなびいた。
頼政が眼をこらして見上げると、雲の中に怪しい物の姿がある。
これを射損じたならば、もう生きてはおられないと思いながら、矢をとって弓につがい、南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)と心に念じて弓をひきしぼり、ひょうとばかり矢をはなった。
すると、ぶっつりと手ごたえがして命中した。
「おう、仕留(しと)めたぞ」
と叫び声をあげると、井早太が進みよって屋根よりころげ落ちてくる怪物をとって押え、つづけさまに九たびまで刺しとおした。
その時上下の人々が手に手に火をともして馳せあつまり、怪物を照らしてみたところ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎の姿をしている。
なく声は鵼に似て、恐ろしさいうばかりない。
主上は御感心のあまり、獅子王と名づけられていた御剣を御下賜になった。
宇治(うじ)の左大臣藤原頼長(よりなが)がこの御剣をとりつぎ頼政に賜わろうとして、紫宸殿の正面の階段をなかばおりかけた折柄、季節は四月十日すぎの頃なので、雲間をほととぎすがふた声三声啼いて飛びすぎた。
その時宇治の左大臣殿が、
ほととぎす名をも雲井(くもい)にあぐるかな
と雲井を宮居(みやい<宮中>)にかよわして、頼政の武勇をほめたたえた。
頼政は庭上に右膝をつき、狩衣の左の袖をひろげ、それとなく月を横目に仰ぎながら後をうけて、
弓はり月のゐるにまかせて
とつけた。
私は弓はり月の入るまま、盲矢(めくらや)を射たにすぎません、と「入る」を「射る」にかけ、謙遜の意をあらわしたものだ。
そこで主上も臣下も、
「頼政は弓矢をとって較(くら)べる者がないばかりか、歌道にもすぐれている」
と感心された。
ところで射殺した変化(へんげ)の物は、丸木舟に入れて流したとのことである。
…つづく…
(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年)
午後から心臓リハビリ。
先日、将軍塚に上ることができたのも
トレッドミルで30分間(傾斜3%)をどれくらいのペースで歩けば
無理なく息が苦しくならないように歩けるかを考えてリハビリをしているからだと思います。
30分間で歩いた距離は1.76km
消費カロリーは112kcalでした。













