昨日の雨と風でキンモクセイが散ってしまった…
今朝は、雨は止んだけど風が吹いていて
ドングリなどを撮そうとファインダーを覗いて
ピントを合わせていると揺れて酔いそうになりました(^_^;
東北地方で地震がつづきますね…
「岩手県沿岸に一時津波注意報 1週間程度は規模大きな地震に注意」(NHK)先日、訪ねた新島襄旧宅
新島八重は、大河ドラマ「八重の桜」のモデルになっていましたね。
私は見ていませんが(^^ゞ
第一章 山本八重の会津戊辰戦争
―正史に抗する反骨
籠城戦での八重の活躍
当初西軍(官軍)は圧倒的な最新鋭の兵器でおよそ三カ月近く続いた白河口の戦いを制した士気の高さもあり、会津藩もある程度の時間をかければ容易に制圧できると考えていた。
実際に西軍の先鋒隊(板垣退助の指揮する土佐藩の一隊)は、勇んで若松城下に入ると鶴ヶ城を目ざして進んだ。
しかし城内の銃眼から先鋒隊を狙った銃撃がくり返されたために、犠牲者もふえ、その動きを止めざるを得なかった。
これが慶応4年(1868)8月23日、24日のことだった。
(『八重と新島襄』保阪正康 毎日新聞社 2012年) 八重は23日に七連発のスペンサー銃を担いで城内に入り、すぐに銃眼から土佐藩の西軍兵士たちと銃撃戦を行っている。
夜になると夜襲隊の一員として、城外に出て、西軍兵士を襲撃する行動を続けた。
この籠城戦の模様を改めて見つめてみたいが、確かに八重は「会津のジャンヌ・ダルク」と称されるような動きをこの一カ月の間に続けていたのである。
だが私は、この一カ月の行動が八重の心境にどのような変化をもたらしたのか、と同時に夫の新島襄にこの戦いで、自分は何を理解することになったと伝えたか、という視点を土台に据えて籠城戦を見つめていきたいと思うのだ。 少なくとも八重は、この籠城戦(これはいうまでもなく戦争である。それに伴う兵士たちの考え方やその行動は平時とは異なっている)で何かが変わったのだ。
あえていえば、襄は、その変わった八重の価値観の中にそれまでの日本の古い意識をもった女性とは別な像をみたはずであった。
したがって襄は、戦場で武器をもって戦った女性がやがて自己変革から辿(たど)りついた精神そのものに、強い愛情を感じたということになるはずだ。 城内から的確に土佐藩の指揮官たちが狙われて斃(たお)されていく。
阿達義雄の『会津鶴ヶ城の女たち』によれば、「この手ごわい防戦で、先鋒の土佐藩の勇将たる大総督軍監の牧野群馬、三番隊長小笠原謙吉、半大隊長祖父江可成、九番隊長三川元介等の隊長連が次々と」斃されたとうのだ。
そこで板垣は遅れて城下に入ってきた薩摩藩に助力を求め、薩摩藩の兵士たちが前面に出てきたが、何の遮蔽物(しゃへいぶつ)もない場所を通って城に近づくことはできない。
そこで薩英戦争で用いた大砲を戦場に展開し、それで銃眼を潰してしまおうとしたのだが、前線で指揮していた薩摩二番砲隊を率いる大山弥助(やすけ<巌(いわお)>、のちの日本陸軍創設時の功労者)が銃撃を受け、前線から離れるという一幕があった。 あまつさえ城内からは、四斤(きん)砲を用いての砲撃が続き、薩摩藩も動きが止められてしまったのだ。
こうした反撃に西軍はひとまず攻撃をゆるめ長期戦をもって会津軍を締めつけようと考えた。
城内からの抵抗(当初は藩士が戻ってこないために老人、女性、少年たちが中心)とは別に、西軍は城外の各地で会津藩の兵士の防禦陣地を破り、鶴ヶ城に駆けつける西軍兵士たちによって本格的な包囲網ができあがっていた。
鶴ヶ城を落とすためには、土佐、薩摩、長州らの三千人の兵士では無理との判断から各藩の後続部隊を待つことにしたのだ。
一方で会津藩でも藩士たちが各街道筋の防禦から引きあげて鶴ヶ城への入城を試みる状態になっていた。 このような膠着(こうちゃく)状態のあと、西軍は城下の近距離に大砲を据え、そこから本格的に砲弾を撃ち込んでくることになる。
2011年12月、私はこの城の天守閣の最上階から西軍の砲台の一角を見つめたが、確かに数百メートル先の高台からこの城を目がけて砲弾が浴びせられることになったらひとたまりもないと思われた。
むろんすべての砲弾が城を直撃するわけではないだろうが、それでも一日に多い日には二千七百発も撃ち込まれたというのだから、城内がどのような状態になったかは容易に想像がつく。
とくに鶴ヶ城東南の小田山には四斤山砲や最新鋭のアームストロング砲など15門が鶴ヶ城に照準を定め撃ってきた。 城内の凄惨(せいさん)な様子を、八重自身が回想している(『婦人世界』明治42年<1909>11月号)。
「負傷者がおいおい殖(ふ)えましたが、何分籠城中のことで医療が充分に行届きませんから、惜しい命を捨てた方も随分ございました。ある晩、私がお廊下を通りますと、長い廊下一面に軍人が寝ております。ああ長い激しい戦争に疲れて寝ているのであろう。気の毒な事だ。しかし、大切な身で風を召してはならぬと思いましたから、灯火をつけてみますと、どうでしょう。寝ていると思ったのは死んでいるので、戦死者の死骸の置場がないものですから、仮に廊下に並べておいたのでございました」 西軍からの砲弾が爆発すると屋根をはがし、床板をはね返し、土がえぐられるという具合で、足の踏み場もない状態になったというのだ。
こういう小田山からの砲撃に八重は、夫の川崎尚之助と共に徹底して応戦したと多くの会津戦史に書き残されている。
これは『新島八重子回想録』の中に「注」として書かれている一文からの引用になるのだが、当時容保(かたもり)の小姓役として君側にあった井深梶之助(かじのすけ<のちに明治学院第二代総理>)が昭和7年(1932)2月15日発行の「同志社交友同窓会報第61号」に八重のエピソードを語っている。 この籠城時のある一日、容保が居所としていた鶴ヶ城の黒金御門と称する楼門の下というが、ここにある女性が容保に呼ばれて、西軍が撃ち込んでくる砲弾について説明を行なった。
それが八重だったのだが、八重は西軍の撃ち込んだ不発の砲弾を持ってきて、容保の前でこれをまたたくまに分解してしまったという。
以下に井深の一文を引用しておきたい。「(砲弾の)中に盛られた数多の地紙型の鉄片を取り出して、此(こ)の砲弾が着発すれば、此の鉄片が四方に散乱して、多大の害を及す物である云々(うんぬん)と、極めて冷静に且(か)つ流暢(りゅうちょう)に説明して、四坐(しざ)を驚かした(以下略)」 このときの八重の服装は黒羅紗筒袖(くろらしゃつつそで)ダン袋の男装だったという。
八重は砲弾が不発の場合は恐れる必要のないことを縷々(るる)説明したというのだ。
この籠城戦のあるときから、夫の川崎尚之助は城下での防禦から城に駆けつけ、籠城に加わっている。
その尚之助の助手のような形で八重は西軍との砲撃戦を行っていたという。 あえてここでつけ加えておけば、容保のもとで砲弾の内部を説明するのであれば、八重よりも尚之助のほうがはるかに知識も豊富だし、実践での経験もある。
それなのに八重が赴いて説明したというのは、藩から砲術師範の役を与えられていた山本権八を父とし、容保の信頼も篤い覚馬を兄とする八重に対する容保の意向が働いていたのかもしれない。
尚之助は但馬国から砲術を学ぶために覚馬の縁でこの地に来たのだが、このような戦争という事態になって、ともかくは会津のために戦いつつも会津藩の選択した道に納得したわけではないといえるのかもしれない。
(『八重と新島襄』保阪正康 毎日新聞社 2012年)今朝の父の一枚です。
10日は、母の月命日。
母は、この時期、ハナミズキの紅葉を楽しみにていました。
「花押の鶺鴒はセグロセキレイ?」つづき
さらに鳥好きとしては、政宗が自ら鶺鴒をかたどったと言っているこの花押の〝セキレイ〟の種は何であったかを推定したくなります。
候補となるのはハクセキレイとセグロセキレイですが、そのどちらであったのかを推定することは簡単ではありません。
政宗が最も身近に見かけたのがどちらかを知るためには、戦国時代頃のハクセキレイとセグロセキレイの東北地方での生息状況を知る必要があります。
今では全国的に見てもハクセキレイのほうが数も多く身近だと思いますが、じつはハクセキレイが現在のような分布状況になったのは1970年代以降のことです。
それ以前は全国的に見ても河口周辺や海岸部でのみ繁殖する鳥でした。
それが徐々に内陸部へ繁殖分布を広げ、平成12(2000)年頃には本州中部以北の内陸部のほぼ全域で繁殖するようになったのです。
ハクセキレイがこのように勢力を広げる以前は(もちろん戦国時代にも)、東北地方ではむしろセグロセキレイが優勢だった可能性が高いと思います。
ただし、政宗の花押は全体の印象が白っぽいことを考えるとハクセキレイであった可能性も捨てきれません。
こうしたことを総合的に考え合わせ、政宗がどちらを身近に感じていたか推定することになりますが、その作業は困難をきわめるでしょう。
…つづく…
(『鳥たちが彩る日本史 武将・文人と交わる8種類の鳥』大橋弘一 山と渓谷社 2025年)












