2025年11月23日日曜日

勤労感謝の日に将軍塚へ

「勤労感謝の日」という 祝日で行楽シーズン。
覚悟してきました(^_^;
祇園四条駅で下車、地上に出ると南座
上方喜劇まつり」を見にきたのではありません(^_-)
向かった先の途中に八坂神社
人気の観光スポット「西楼門及び翼廊」(境内・境外摂末社)は
これから観光客で一杯になるのだろうなぁ
八坂神社に入ると11月の神事・行事の準備中でした。
(「新嘗祭」新穀をお供えして、五穀豊穣を感謝)
父や母の時代は「勤労感謝の日」ではなく「新嘗祭」でした。
 「石鳥居(いしとりい)」(境内見どころ
後ろに見える「南楼門(みなみろうもん)」が正門になります。
この石鳥居は寛文2年(1662)に地震で倒壊しました。

一方、
八坂の塔(1440年建造)は無傷だったようで、塔が地震に強いことが証明されています
八坂神社の石鳥居」(吉村晋弥 京都旅屋 2012年8月3日)
石鳥居を出て長楽館の裏を通ると一気に静かになりました。
坂道を上がっていくと
 長楽寺に着きました(9時30分頃)
拝観時間は10時から(木曜日は休観)
2019年6月14日に訪ねています。
長楽寺全景」の案内板(左)があるところを左に曲がり
細い道を上っていきます。
すぐ東屋(休憩所)が見えます。
 実は、方向音痴のσ(^^;)
作業をしている方がいたので道を聞きました。
ちょっと後で出会うともう一度教えてくださった。
親切に教えてもらったおかげで余分な道を歩かずにすみました。
途中、「将軍塚」などの道標などがあります。
 「圓山聖天堂(歓喜天堂)
別の方向から訪ねたので
この時は分からなかったのですが
2017年1月19日に訪ねたことがありました。
 「大聖歓喜天尊」と刻まれた石碑
山道を登っていくと
途中、地蔵様に何度か出会いました。
東山山頂公園」を目指していきました。


青蓮院門跡」(福徳門)と書かれています(10時5分頃)
長楽寺から約35分。
元気な人なら20分ほどで上がれるようです。
私の場合は、後ろから来る方に「先に行ってください」と道を譲りながらゆっくりと上りました。
山門をくぐると
大日堂で拝観料「600円」
車椅子の高齢者もおられたのでタクシーなどで来られたようです。
受付でいただいた説明書より

青龍殿の由緒 

 大正2(1913)年、明治天皇大喪使総裁、大正天皇即位大礼使総裁の伏見宮貞愛親王殿下より令旨を賜り、大正天皇の即位を記念して、大日本武徳会が中心となり、京都府民から浄財を募り、「大日本武徳会京都支部武徳殿」として京都北野天満宮前に建立されました。
 武徳殿は一見純和風に見えて、屋根を支える小屋組みと建物を支える基礎は外来の技術が用いられており、「和洋折衷」という大正時代建築の特徴を示す木造大建造物で、いずれ重要文化財指定の可能性も充分にある価値の高い建物です。
 その後、昭和22(1947)年、京都府に移管され、「平安道場」として警察の柔道剣道の道場となりましたが、平成10(1988)年、京都府は、雨漏りの手当が遅れ、修善に多額の維持管理費用がかさむことから平安道場を閉鎖し、解体処分とすることにしました。

 平成21年、青蓮院が「青龍殿」として京都東山山頂将軍塚に移築再建することを決定し、平成26年10月に完成致しました。

青龍殿建物概要
 木造平屋建瓦葺1棟
 外陣:延面積 約537㎡ 高さ 14.5m 東西長さ 約26m 南北長さ 約20m
 内陣:延面積 約138㎡ 新築     東西長さ 約12.8m 南北長さ 約11.4m
撮影できませんので

 国宝 青不動明王 

 青不動明王二童子像は、ご身体の色が青黒(しょうこく)なことから通称「青不動」と呼ばれ、日本三大不動画のひとつとして有名です。
 製作時期は平安時代の中期、11世紀に当るとされ、我が国仏教絵画史の最高傑作の一つとして、いち早く国宝に指定されました。
大きさは縦203cm、横149mの大作の絹本礼拝画像です。
 この画像は、絹本の濃茶褐色の地色に、朱と丹で激しく燃え盛り揺れ動くすさまじい炎が画かれ、その中央に剣と絹索を持し、忿怒の相の青不動明王の尊身が厳かに岩の上に座しておられます。
妄念や煩悩を焼き尽くす不動明王の気迫が拝する者を圧倒します。
 青蓮院では、宮中から下賜されたこの尊像を寺宝中の寺宝として、篤く敬い、尊崇してまいりました。
 国宝本体を新築の奥殿に安置し、手前に精巧に製作された複製をお祀りし、皆様からのお願い事を毎月所定日に護摩供にて祈願しています。
 2.京都市内を一望できる新名所「大舞台」の誕生 

 清涼殿には清水寺の舞台の4.6倍の広さ(延面積:1046㎡)の木造大舞台を新設。
眼下には京都市内が一望でき、西展望台からは京都市内のみならず、大阪のビルまで遠望できます。
 圧倒的なスケールと市内一望の大パノラマに、来られた方から大歓声が上がります。
清水寺の本堂の舞台と違ってゆっくりと時間を過ごすことができますよ(^_^)v
右下に平安神宮の鳥居が見えます。

東郷元帥手植松
 将軍塚 

 794年、桓武(かんむ)天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ八尺(約2.5メートル)の像に甲冑(かっちゅう)を着せ、弓矢と太刀を持たせ、京都御所の方を向けて埋めるように命じた塚であると伝えられている。
 平安末期以後、天下に異変があるときは必ずこの塚が鳴動して前兆を表すという伝説が生まれ、『源平盛衰記』によると、源頼朝(よりとも)挙兵の前年、治承(じしょう)3年(1179)7月には、三度にわたってこの塚が鳴動し、次いで間もなく大地震が起こったといわれる。
 『鳥獣戯画』で有名な鳥羽僧正筆の『将軍塚縁起絵巻』に、この像を埋める図が残されている。
 なお、青龍殿に安置する本尊大日如来像は付近の山中から発見された花頂院の遺物と伝えられる。
境内には、日露戦争で活躍した東郷元帥や黒木大将の手植の松があり、桜と紅葉に名所として美しく整備されている。
     京都市
左下にローソクが一本(ニデック京都タワー
目についたのが、一基だけでなく…

こちらは下に地蔵(?)が彫り込まれています。
織部好みの灯籠かな?
もしくは切支丹灯籠?
  後継之松 

 この松は、明治、大正期の政治家、教育者、早稲田大学創立者の大隈重信侯が、青蓮院地内のこの地に植樹、以来、約百年、その四代目を継ぐ曾孫の松です。
 このたび、早稲田大学創立百二十五周年の年に当り、この松に建学の精神と弥栄の記念を込めて植樹しました。
   平成19年10月吉日
     早稲田大学京都校友会
10時40分頃に山を下りました。
欧米の方とも出会いました。
元三大師を祀る「尊勝院」〟(青蓮院門跡)
振り返ると粟田神社へ向った道
 青蓮院門跡(11時15分頃)
35分ほどで降りてきました。
途中、出会った方たちには道を譲りながらゆっくりと降りてきました。
昔、六甲山を歩いた頃、後ろから靴音がするので道を譲ると
70歳代位の女性の単独登山の人でした(^^ゞ
今朝は、柵が閉じられていましたし、お寺の方に出会わなかったので
拝観できませんでした。
前回、明智光秀の首塚を撮していないことに気がついたので(^^ゞ
明智光秀の首は、粟田口付近(粟田口刑場)で晒されました。
明智光秀首塚碑(あけちみつひでくびづかのひ)」(フィールド・ミュージアム京都)

「粟田口刑場」の場所
琵琶湖疏水を巡る(安祥寺~蹴上)」(久野洋人 関西歴史散歩の会 2023年4月2日)
 七本槍の時代
 明智滅亡
 

 …前略…(天正10年<1582>6月13日)

 光秀軍はたちまち崩れ立って、光秀自身も勝竜寺城にのがれ、秀吉軍もまたこれを追撃して、残敵を掃蕩するとともに、二万余の大軍をもって包囲した。
光秀はこの城をささえることの困難を知っていたので、近江(おうみ)に帰って、女婿の明智弥平次秀満(やへいじひでみつ)らと一体となることを考え、夜陰に乗じて城を脱出した。
主従五、六騎、久我縄手(こがなわて)を伏見大亀谷(ふしみおおかめだに)に向かい、小栗栖(おぐるす)を通り、山科(やましな)より大津(おおつに)に向かおうとしたが、小栗栖の竹藪道で土民の襲撃をうけ、殺されてしまったのである。

 …後略…

(『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎 中公文庫 2005年)
お昼になったので「皿盛」をいただきました。
σ(^^;)は、この一皿を食べるのが精一杯でしたが、
若い人の中には+中華そばやうどんを食べている人がいました!(゚Д゚)!
読んでいる本は、

 解題  森正人

 伊藤比呂美訳と原作  

 古典の現代語訳は、古文を教える教室でも行われ、しばしば注釈書にも付載されている。
これらと伊藤比呂美の訳は同じくない。
教師や研究者が訳したか、作家が訳したかという違いではなく、その目指すところ、果たすべき役割がまったく違う。
教室や注釈書の訳は、古典本文の理解をたすけるためのものであり、原作に従属する。
本書には伊藤訳だけを収めている。
原作から自立した作品であることが求められており、現代語訳は一つの文学的営みにほかならない。
 伊藤の訳は、原作本文の一字一句を丁寧に読み解き、理解を全体に行く渡らせたうえで、一旦内部に深く取りこみ、それを新たに訳者自身の言葉で表出して成り立っていると見受けられる。
伊藤はかつて、日本霊異記によって、自身に景戒あるいは説話の登場人物をいわば憑依させて、『日本ノ霊異(フシギ)ナ話』(2004年)を創作したことがある。
それと遠くはないが、異なる方法で作品を作り上げたと言えるであろう。
 伊藤訳は古典への手引ではない。
それでも、日本霊異記と発心集の何が伊藤に働きかけたか、その感応の秘密に触れたい読者は原作を手に取らねばならない。
   (もり・まさと/日本古代・中世文学研究者)
(『日本霊異記・発心集』伊藤比呂美訳 河出文庫 2024年)
座った席の正面に飾られていた一枚

 京津線20形(昭和30年) 

三条駅に到着の京津線20形。
大正2年製の旧16形木造車を戦中に鋼体化したもので、80形の投入により昭和41年までに廃車。
前後で車輪径の異なる台車(マキシマムトラクション)
撮影:野口昭雄
篠田屋」 
食べログなどを見ると「昭和レトロ」なお店と口コミにあるのだけど

創業 明治37年(1904年)
Open 11:30~15:00
定休日 土曜日


と書かれていました(^_-)

因みに頂いた皿盛は

オリジナル① 皿盛(さらもり) 900円 

 御飯の上にカツをのせてカレーうどんのルーをかけたもの。
ちょっと和風な感じがいい!
ボリュームたっぷり!!
ガッツリ食べたい方におすすめ。
そのまま食べても
ソースをかけても
七味をかけてもok!
お土産は「光秀饅頭」でした(^_-)

2 件のコメント:

  1. こんばんは~

    青蓮院門跡のモミジきれいですね。

    Kazeさんの街歩きは、とってもよく調べられて
    いつも凄いなぁ~と思っています。

    篠田屋さん、まだ営業されていたのですね。
    皿盛り、我が家のエブリさんも食べていたようです。(#^.^#)

    光秀饅頭、Kazeさんのお気に入りお土産のひとつになったのですね。
    一度、たべてみたくなりました~エヘ(#^.^#)

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    1. カイさんおはようございます
      コメントありがとうございます
      行く前は、面白そうな観光客が少ないだろうなと思うところを少し調べます。
      その場所に行く頃には調べた記憶がもう消えています(^_^;
      そこで出会ったことを楽しみ、帰宅後、調べるのですが
      光秀の首塚のように見落としていることがありガックリとすることが多いです。
      そのおかげで同じ場所でも再度、訪ねる楽しみがあるなと慰めています(^^ゞ

      篠田屋さんのみなさんはテキパキとお客さんをさばいていてお元気でした。
      初めの頃より旅行者が多くなったなぁと感じます。
      順番待ちの時に後ろのご夫婦の会話が聞こえてきたのですが
      ネットで調べ来られたみたいで皿盛や中華そばのことを想像されていました(^_-)

      光秀饅頭は、ほんのりした甘さで一口か二口でパクッとできます。
      父も妹も食べやすくて美味しいと喜んでいますよ!

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