七十二候「山茶始開(つばきはじめてひらく)」
蕾から赤い花びらがチョコンと顔をだしていました。
「立冬 千枚漬の伝統的な漬け込み作業を報道公開 京都」(NHK)Eテレ「0655」と「2355」の今週の新曲が「DASOKU」(歌:大槻ケンヂ)
深い歌詞ですよ
「よぶんなものが世界を面白くする」
先生が蛇足として教えてくれたのが
「夏目漱石は 犬派だったらしいんだよね」
生徒がビックリしていましたし、私も思わず検索しました。
「吾輩は犬派である-野村胡堂の証言-」(漱石山房記念館 2021年6月13日)
ネコメンタリー 猫も、杓子(しゃくし)も。「永田和宏とトムとネム」
「猫ととともに生活するということは、本来かけなくてもいい無駄な時間を費やすということでもある」 われ死なば靴磨(くつみが)きせむと妻はいふどうかその節(せつ)は磨(みが)かせ下され
吉野秀雄(よしのひでお)
『含紅集』(昭42)所収。
明治35年群馬県生まれ、昭和42年没の歌人。
多病の上 定職というほどの職もなかった。
最初の妻は戦争末期に子らを残して逝く。
身辺を手伝ってくれていた詩人八木重吉の未亡人登美子夫人と再婚した。
彼が文筆でかせげる金は乏しかったからこのような歌が折々に書かれた。
「金の話うまくいきたらば帰りには氷位飲めと妻をはげます」という歌もある。
いずれも貧すれど鈍せずのいさぎよさ、心のゆとりが生んだ歌。
…後略…
(『折々のうた 三六五日 日本短詩型詞華集』大岡信 岩波文庫 2024年)
銀次郎との別れが切なく二人の幸せを願うような展開になっていました。
史実では小泉セツさんは最初の夫を追いかけて大阪に行ったのですが
冷たくされて橋から身投げをしようとしたそうです。
タエも三之丞も史実に沿っていますが、
銀次郎のようになにかしら救いがあると思っています。
「雨清水タエ役 北川景子さん インタビュー」(ばけばけ公式)
ヘブンが宿を出て新しい家に引っ越ししましたね …前略…
松江に参りまして、当分材木町の宿屋に泊りました。
しかし、暫らくで急いで他に転居することになりました。
事情は外にもあつたでせうが、おもなる原因は、宿の小さな娘が眼病を煩って居ましたので、それを気の毒に思ふて、早く病院に入れて治療するやうにと親に頼みましたが、宿の主人は唯ハイハイとばかり云つて延引して居ましたので「珍らしい不人情者、親の心ありません」と云ふので大層怒つて、そこを出たのでした。
それから末次本町と申す処のある物もちの離れ座敷に移りました。
しかし「娘少しの罪ありません、唯気の毒です」と云つて、自分で医者にかけて、全快させてやりました。
自分があの通り眼が悪かつたものですから、眼は大層大切に致しまして、長男の生まれる時でも「よい眼をもつてこの世に来て下さい」と云つて大心配でした。
眼の悪い人にほどく同情致しました。
宅の書生さんが書物や新聞を下に置いて賦して読んで居ましても、直ぐ「手に持つて御読みなさい」と申しました。
(『思ひ出の記』小泉節子著 一絛裕子絵 ヒヨコ舎 2003年)
ヘルンの一国(いつこく)な気性で困つた事がございました。
隣家へ越して来た人が訪ねて参りました。
その人はヘルンが材木町の宿屋に居た頃やはりその宿に居た人で、隣り同志になつた挨拶かたがた「キユルク抜き」を借りに見えたのでした。
挨拶がすんでから、ヘルンは「あなたは材木町の宿屋に居たと申しましたね」と云ひますとその人は「ハイ」と答へました。
ヘルンは又「それではあの宿屋の主人の御友達ですか」と申しましたら、その人は又何心なく「ハイ、友達です」と答へますと、ヘルンは「あの珍らしい不人情者の友達、私は好みません。左様なら、左様なら」と申しまして奥に入つて仕舞ます。
その人は何の事やら少しも分らず、困つて居ましたので、私が何とか間へ入つて致しましたが、その時は随分困りました。
…後略…
(『思ひ出の記』小泉節子著 一絛裕子絵 ヒヨコ舎 2003年)
「ハーベスト出版」で読むことができます。
『小泉八雲 ラフカディオ・ヘルン』(中公文庫)にも収録されています。ヘブンが生卵9個を一気に飲みましたが
(7) 海外で出会った生卵の食文化
ローマ時代に卵は生食されていた
中国以外の国に目を向けてみると、生卵を利用する例をいくつかみることができます。
紀元前753年に建設された都市国家ローマの上流社会の食事風景も、そのうちの一つです。
ローマの食事はたいてい卵で始まり、果実で終わりました。
それゆえ、ラテン語には「卵からりんごまで」という言いまわしがあります。
卵は茹でるか焼くほかに、生のまま殻から飲み込んで食されていました。
その生卵の穴開けには、カタツムリを殻から出すのにのに使われる先の尖ったコクレアル(匙)が用いられていました。
ローマ人は卵の両端に穴を開けました。
こうすれば、すするとき、殻がこわれないからですが、ローマ人は二つめの穴を開けるのは、卵の霊を逃がすためであると考えていました。
長い西洋の歴史のなかで生卵を食べることによる食中毒のリスクは大きく、そのため、ローマ時代に普通だった生食の習慣もいつの間にかすたれていきました。
(『まるごとわかるタマゴ読本』渡邉乾二 農文協 2019年) 生卵を使った世界の飲みもの
米国で出版された書物『卵の本』(シェーファー 1979年)のなかに、卵による治療法が紹介されています。
20世紀のはじめ頃、いまとなっても驚くような治療法を、家庭の主婦たちがあちこちで見つけています。
その一つが、衰弱した病人に力をつける「エッグ・ノッグ」(卵酒)です。
卵黄1個と砂糖大さじ1をよくかき混ぜてクリーム状にし、これにナツメグ、ブランディ、ワインを加えます。
卵白は固く泡立てて、ミルクと混ぜます。
これらを全部合わせてつくります。
そのほか、口あたりをよくするためにミルクに生卵を加えた「ミルク・セーキ」や、同じくレモンジュースに生卵を加えた「エッグ・レモネード」なども紹介しています。「エッグ・ノッグ」のバリエーションは、米国以外にもあります。
たとえばベトナムでは、卵黄、加糖練乳、炭酸水でつくったミルクセーキのような甘い飲みものがあります。
また、ドイツの「アイアープンシュ」は白ワインに卵白と砂糖を混ぜ、上にバニラをのせてつくられ、寒さの厳しいクリスマスの時期には体を温めてくれる飲みものとしてよく飲まれます。
同様にフランスでは卵黄を使ったカクテルの「ゴールデンフィズ」や「レッドアイ」、卵白を使ったカクテルの「グリーンフィズ」や「ピンクレディ」が濃厚さと円やかさから親しまれています。 ベトナムなどでは卵黄と砂糖と練乳を泡立たせたものをコーヒーに加えます。
一方、フランスやイランなどでは彩りをよくし、おいしさを増すために卵黄や卵をパフェにのせることもあります。
最近では日本にも、こうした飲みものの専門店がオープンしています。
このように、日常的に使用する食品素材とまではいえませんが、栄養剤(強壮剤)や嗜好品として生卵を利用することは外国にも数多くみられるのです。
(『まるごとわかるタマゴ読本』渡邉乾二 農文協 2019年)では、日本では卵を食べていたのか?
江戸時代の鶏卵
江戸時代以前の鶏と卵
古代の鶏は『古事記』の天の岩屋戸(あまのいわやと)の話にも常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)として登場し、弥生時代には鶏頭形土製品も出土しています。
また天武天皇4年(675)の殺生禁止令は牛馬犬猿鶏の食用を禁じていますから、当時鶏は食用とされていたと考えられます。
古代の鶏は、カケ・トリ・ニハツトリ・ニハトリなどと呼ばれて、時を告げさせることと闘鶏をおもな目的として飼われていたようです。
平安時代には闘鶏が盛んで「鳥獣戯画」にもその光景が描かれています。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年) 鶏を飼えば卵も得られますが、鶏卵の食用の記録は江戸時代以前には見当たりません。
闘鶏用の鶏が産卵数が少なかったとも考えられますが、仏教の殺生戒による禁忌の影響も大きかったようです。
日本古代の仏教説話集『日本霊異記(りょういき)』(787)には、よこしまな心の男が、常に鳥の卵を煮て食べていた報いで、霊界の兵士に山中の麦畑に連行され、焦熱の大地に焼かれて死んだという話があります。
なお、安土・桃山時代に宣教師や貿易商人によって伝えられた南蛮菓子には鶏卵が使われていました。 江戸時代の鶏と卵
江戸時代初期には、前時代と同じく食用の鳥は野鳥が多く、『料理物語』(1643)の鳥の部には「鶴 白鳥 雁(がん) 雉子(きじ) 山鳥 ばん けり 鷺(さぎ) 五位 鶉 雲雀(ひばり) 鳩 鴫(しぎ) 水鶏(くいな) 桃花鳥(つぐみ) 雀 鶏」とあります。
図1(鳥の種類『料理献立抄』より:省略)は刊年不明で宝暦(1751~64)頃と考えられる『料理献立抄』の挿絵です。
絵の中の文章には「春のとりは鶴 きじ 鴫 夏は鷺 鷭(ばん) ほじろ ひばり 鶏 秋冬は雁 鴨此外あまたあり其時節を見合せつかふべし かもは四季ともによし 春は一夜塩よろし」とあります。 このように江戸時代中期頃までは鶏よりも野鳥の肉がよく用いられたらしく、人気があったのは鴨で、料理書にも鴨肉の料理が多く見られます。
元禄10年(1697)刊の『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』には、「今各地に鶏が多くいるが、大きいものは闘鶏に用い、小さいものは愛玩用である。
鶏を飼う利点は、第一は時を告げること、第二はこぼれた穀物をつついて食べること、第三は卵をうむので時々売って不時の利が得られる」とあって、養鶏が肉の食用や採卵が目的でないことがわかります。
江戸時代も後期になると、地方によってはかり大規模な採卵を目的とした養鶏が行われるようになり、料理書にも多彩な卵料理が見られます。 江戸時代の卵料理
江戸時代初期の『料理物語』にも、玉子ふわふわ・玉子素麺・玉子酒などが見られますが、江戸後期の天明5年(1785)刊の『万宝(まんぽう)料理秘密箱』前編は『卵百珍(ひやくちん)』の別名があり、103項目の卵料理を記しています。
なお現在は卵と書きますが、料理書では大部分玉子と書かれています。
次ぎに料理書への出現頻度が高い卵料理を紹介しましょう。
・玉子ふわふわ
ふわふわ玉子とも呼び流行した玉子料理です。
寛永3年(1626)に後水尾天皇が京都の二条城に行幸された時の、徳川将軍家による饗応献立の中に見られるのが最も古いようです。
また『東海道中膝栗毛』(1809)の中で、弥次郎と喜多八が瀬戸の茶屋で玉子ふわふわを食べています。
身分にかかわらず人気のあった卵料理ですが、料理書によって作り方に違いがあり、正確なところはよくわかりません。
…略…・麩の焼玉子
卵を割ってかきまぜ、焼鍋に薄く流して焼いたもので、現在薄焼卵と呼ばれているものです。
…略…
・煮貫(にぬき)玉子
ゆで卵のことで、卵料理の中で最も基本的なものです。
『料理早指南』(1804)には、卵黄が真中(まんなか)の煮貫卵を作るには、箸で卵をまわしながらゆでるなど、作り方のコツがわかりやすく書かれています。
また現在も卵の新古の鑑別法の一つに、明るい方へすかして見る(新しいものは明るく、古いものは暗く見える)方法がありますが、図3(卵の鑑別『料理献立抄』)にはその光景が描かれています。
鶏卵の値段は現在と違って高く、『守貞謾稿』(1853)には、煮貫玉子の大きいものは1個20文で、うどんやそば1碗16文、汁粉1碗16文とあります。
(『江戸 食の歳時記』松下幸子 ちくま学芸文庫 2022年)午後から心臓リハビリ
自転車(エルゴメーター)を漕ぎながら心電図を撮ってもらいました。
約30分間に19.80kcal
回転回数は1573回でした。
昨日、父の脳外科の受診日でした。
6月に頭を怪我したので診てもらったところ「慢性硬膜下血腫」と診断されました。
原因は、2月に玄関の石段を上がり損なって
後ろに倒れて頭を強打し、一人では立ち上がれなかった時に出血したようです。
怪我をした翌日が父の心臓リハビリが終了する日(月曜日)だったので
リハビリの先生にお願いして救急で診てもらうと血が溜まっていることがわかりました。
本当は、手術をすればいいのですが、手術を嫌がる父が高齢だということもあって
薬で様子をみることになりました。
昨日のCT検査の結果、血腫(出血)が消えていました。
6月に怪我をしていなかったら分らずじまいでした。
何が幸いするかわかりません。
















