2025年11月26日水曜日

小春日和かな

昨日は、午前中、かなり雨が降って
町の電気屋さんに洗濯機を届けてもらいましたが
雨に濡れていて気の毒でした。
雨が止んだと安心していたら夕方買い物に出かけると
夜空が一瞬明るくなり急いで買い物をしたのですが
スーパーから出ると大雨で雷雨
今朝は、その時の雨が暖かい日差しでもやもやと蒸発していました。

観覧車が落雷の影響で停止 全員救出まで9時間 大阪 吹田」(関西NHK)
先日、将軍塚へ登っていましたが、病気をする前、京都などの山を登っていたら
この時期、猟友会の人達に時々会いました。
熊は、賢いので狩りをする人が少なくなって安心して降りてくるのかもしれませんね…
狩猟解禁に伴う初猟日パトロールを実施します!」(大阪府 2024年11月14日)

SNSで話題の「熊串焼」 西目屋村の道の駅で販売 青森〟(NHK 11月23日)
熊本 阿蘇地方 今後1週間ほどは震度5強程度の地震に十分注意を」(NHK)
余震になるのかな?
訪ねた将軍塚などについて

 京都伝説散歩  駒敏郎
 東山
 古都の伝説 

 ふとんを着て寝た姿にたとえられる東山は、比叡から桃山の丘陵までひとつづきの連山なのだが、一つ一つの峰や端山に名前がついている。
それが「東山三十六峰」である。
 その三十六峰の一つに、将軍塚の名で通っている長楽寺山(ちょうらくじさん)というのがある。
祇園八坂神社のうしろに見えるなだらかな峰で、高さは230メートル足らずだが、都心部のま東に位置しているので、登ると京都の町をま横からながめることができて、見晴らしがたいそうよい。
(『日本の伝説 1 京都の伝説』駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
 平安京を造営した時、高さ2・4メートルの土製の武人像を作って、甲冑(かっちゅう)を着せ弓矢を持たせて、この山の頂きに西向きに埋めたと伝えられている。
末世(まっせ)になって、もし都を他所に遷すようなことがあれば、姿を現して阻止するようにということだったらしく、以来、国家に変事がある時は、必ず塚が鳴動したといわれる。
 保元(ほうげん)元年(1156)7月8日、彗星が現れてこの塚がしきりに鳴動すると、二日後に保元の乱が起った。
また治承(じしょう)3年(1179)7月7日の午後4時ごろ、南風がにわかに吹いてあたりは夜のように暗くなり、塚が三度鳴動した、ということが『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』に見える。
 最初の鳴動は洛中九万軒に聞こえ、二度目は大和・山城・近江・丹波・和泉(いずみ)・河内(かわち)・摂津(せっつ)にまで響き、三度目は日本「六十六か国にもれなく聞こえけり」というたいへんな鳴動ぶりだった。
つまり、やがて源平の大兵乱が起ることをしらせたわけである。
 明治の東京遷都の時はどうだったか知らないが、太平洋戦争の末期ごろに、将軍塚が鳴ったとか鳴らなかったとかのうわさを耳にした記憶がある。
当時は毎日のように各地の都市の空襲が報じられていたから、京都じゅうがピリピリと異常に緊張していたわけだが、考えてみるとずいぶん息の長い伝説だといえる。
 頂上の北の端に大日堂(だいにちどう)があって、その裏手の石垣をめぐらした小さな円墳が、武人像を埋めた塚だといわれている。
 春風秋雨千二百年、武人像はこの塚の中から京都を見守ってきた。
貞観(じょうがん)の洪水、応仁の大乱、慶長の地震、天明の大火、そしてそのたびによみがえる不死鳥のような美しい都を、武人像は見たはずだ。
だがそれらの天変地異のどれにもまして、この四、五十年間の京都の変わりようはおどろくべき異変だったにちがいない。
 盆地の周辺に残っていた田園地帯は、ほとんどあます所なく民家に埋められ、都心は白いコンクリートを鎧(よろ)った建築群に占められた。
 けれども、これほど膨張し変質をとげたかのように見える大都市に、今なお数多くの伝説が息づいているのは、いっそうおどろくべきことだ。
 緑の島のように見える社寺の森や、方形に区切られた町々の銀鼠色の屋根の下に、それらは忘れられたように眠っているが、光をあてられるといつでもすぐに生き返る。
そして、訪れる人に語りかけてくるのである。
(『日本の伝説 1 京都の伝説』駒敏郎、中川正文 角川書店 昭和51年)
今回、長楽寺は、参拝しませんでしたが

 6章 京の鎌倉
 時宗の道場 


 ここで、比叡山とは関係がありませんが、賦算(ふさん<お札をくばること>)と踊(おどり)念仏をもって念仏をひろめた一遍(いっぺん)の時宗(じしゅう)についてふれておく必要があろうかと思います。
 一遍は伊予(いよ 愛媛県)の出身ですが、鎮西(ちんぜい 九州)・信濃(しなの 長野県)などで修行したのち、文永(ぶんえい)11(1274)年、熊野に参籠(さんろう)した際、悟るところがあり、ただちに京都に来て念仏を人びとに勧めました。
その際、結縁(けちえん)した人に、「南無阿弥陀仏決定往生(なむあみだぶつけつじょうおうじょう)六十万人」と書いた念仏の紙札を賦(くば)ったのが一遍独特の布教方法でした。
この札は、いわば極楽行き(往生できる)の切符であり、そのわかりやすさが、のち信濃を遊行(ゆうぎょう)中にはじめた踊躍(ゆやく)念仏(踊念仏)とともに、時宗が庶民にひろまった大きな理由です。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)
 一遍はまた、各地を遊行しました。
(おい)で弟子の聖戒(しょうかい)が、一遍の没後、絵師の円伊(えんい)とともにその足跡を実地にたどり、絵巻に描いたのが『一遍聖絵(ひじりえ)』12巻で、正安(しょうあん)元(1299)年につくられています。
そんなわけでこの絵巻は、風景が写実的であることが有名です。
またこの絵巻を伝えた六条道場歓喜光寺(かんきこうじ)は聖戒の建てるところで、地所が源融(みなもとのとおる)の別業(べつごう)であった河原院(かわらいん)の故地であったことから六条河原院ともいわれましたが、近時、市外に移転しました。
 故地といえば、かつて平安中期、市の聖(ひじり)といわれた空也(くうや)がそこで念仏を説き、一遍もまた訪れている東市(ひがしのいち)に営まれたのが、作阿(さくあ)の市屋(いちや)道場金光寺(こんこうじ)であり(弘安<こうあん>7年、1284年)、おなじく金光寺を称した七条道場を建てたのは(正安3年、1301年)、他阿真教(たあしんきょう)の弟子呑海(どんかい)です。
ここが七条仏所と隣りあっていたのは、仏師康弁(こうべん)から宅地の提供を受けたからです。
その関係から七条道場には、七条仏所の仏師の手による彫像、一遍や呑海などの像がありました。
いまそれらは、文書類とともに、明治7(1874)年に合併された円山(まるやま)の長楽寺(ちょうらくじ)にうつされていますが、一見の価値があります。
ちなみに、長楽寺は、もと天台宗寺院で、『平家物語』では壇の浦(だんのうら)で助けられた建礼門院(けんれいもんいん)が帰洛(きらく)後、当寺の阿証房印西(あしょうぼういんさい)を戒師(かいし)として出家したところといい、女院の画像や安徳天皇の衣でつくったという幡(はた)を伝えています。
 長楽寺が時宗に改宗しましたのは、南北朝(なんぼくちょう)時代のことですが、これには呑海の法流である国阿上人(こくあしょうにん)に負うところが大きく、付近の双林寺(そうりんじ)も天台宗から改宗しています。
円山(まるやま)公園の円山も、ここにあった円山安養寺(えんざんあんようじ)という時宗寺院の山号(さんごう)に由来するもので、話は江戸時代のことになりますが、景勝の地であったことから、寺内の諸坊――正阿弥(しょうあみ)、佐阿弥(さあみ)、也阿弥(やあみ)などが貸座敷として用いられ、遊楽地として有名になりました。
 天台宗からの改宗といえば、法華宗(ほっけしゅう)の場合ですが、五山(ござん)の送り火の一つ「妙(みょう)・法(ほう)」にかかわる洛北松ヶ崎妙泉寺(まつがさきみょうせんじ)のような事例があります。
鎌倉時代の末、永仁(えいにん)2(1294)年に日蓮の法孫日像(にちぞう)が関東から入洛し、法華の教えを説いた際、当所にあった天台三千坊の一つ、観喜寺(かんきじ)の住職実眼(じつげん)がこれを聞いていたく感銘し、村びとを説得して法華宗に改宗させる一方、寺も改宗して妙泉寺としました。
それが徳治(とくじ)2(1307)年のことで、妙・法の送り火の点火も、またその夜、当寺の境内(けいだい)で行われる題目踊(だいもくおどり)も、改宗のときの村びとたちの喜びをあらわしたものと伝えています。
妙・法の点火はじっさいには江戸時代のことと思われますが(10章参照)、現世利益(げんせいりやく)をとく法華宗が、これをきっかけとして京都の町衆(まちしゅう)間に受けいれられていく様子は、8章でみることにしましょう。
(『京都史跡見学』村井康彦 岩波ジュニア選書 1982年)

粟田口刑場について
史跡探訪 大村益次郎卿遭難之碑、粟田口刑場」(歴史の壺 第7回 法務省)
今朝の父の一枚です(^^)/
オートで撮影するのは露出が難しいですね。
水面を撮す方が難しいと思うのですが

 「巻の四 鵼」つづき 

 このような事があるのでその先例にならい、武士に命じて警固にあたらせたがよいということになり、源平両氏のつわものの中から人選したところ、頼政が選びだされた次第だとのことである。
その時はまだ兵庫守(ひょうごのかみ)だった頼政は、この人選にたいして、
「昔から朝廷に武士をおかれるのは、謀反(むほん)の徒をしりぞけ、勅命に違(たご)うやからをほろぼす用意のためである。しかし、自分にも見えない変化(へんげ)の物を、退治せよという仰せはまだ承わったことがない」
と申立てたが、主上のお言葉にそむくわけにはゆかないので、お召しにしたがって参内(さんだい)した。
頼政は心から信頼している家来、遠江(とおとうみ)の国の住人井(いの<猪>)早太(はやた)に、鷲の風切り羽根をつけた矢を背負わせ、ただ一人供させた。
自分は表裏同じ色の狩衣(かりぎぬ)をきて、山鳥の尾羽根に先とがりの鋭い鏃(やじり)をつけた二筋の矢、滋籐(しげとう)の弓(※)を携えて紫宸殿の広縁に祗候した。
頼政が二筋の矢を携えたのは、その頃まだ左少弁(さしょうべん)の官にあった雅頼(まさより)卿が、
「変化の物を討取ることのできるのは、頼政だけだ」
と彼をえらびだしたので、一の矢で怪物を射そこなった場合、この矢をもって左少弁雅頼のしゃっ頸(くび)の骨を、射切ってしまうつもりからであった。

滋籐の弓」 重藤とも書く。弓の幹を、籐で巻くが、その巻き方に、幅や間隔などいろいろあり、巻いた上にさらにうるしを塗ったりする。それらにそれぞれ名がある。籐をびっしりと、しげく巻いたものをいう、と言われている。

 …つづく…

(『日本文学全集4 平家物語』中山義秀訳 河出書房 昭和42年