2025年11月16日日曜日

秋晴れの日に松風天満宮~青蓮院門跡~粟田神社~卯sagiの一歩~餅寅

暖かい秋晴れに誘われて京阪三条駅で下車(^_-)
手袋をしなくても街歩きができるのは今日までかもしれないなぁ…
新しく設置されたみたい

 小川亭とてい女 

 京都縄手通三條下る小川亭の老主婦てい女は、勤王婆さんとして有名なり。
小川亭は、偶々、肥後藩邸より其離れ座敷が鴨川一帯を見晴し眺望宜しきを以て、勤王討幕の謀議處として使用せられ、小川の後家二人は其世話をすることゝなれり。
當時同家へ出入せる武士は、住江甚兵衛、川上源齋、轟武兵衞、宮部鼎藏、山田信道、高木元右衞門、藤村紫朗、桂小五郎、平野次郎等にて、後年、國臣の銅像を故鄕に建設する時、てい女は肖顔の檢證役となれり。
維新後は娘のおはると共に旅宿を營みたりしに、勤王婆さんを慕ひて投宿するもの頗る多く、大正十二年七月十日九十歳にて死亡せり。
   京都市教育会編纂
   京都市維新史蹟(昭和三年)より
観光客が少ないだろなぁと思う道を歩き
白川を越えました。

白川 琵琶湖・淀川 里の川をめぐる」(琵琶湖・淀川流域散策ブック Pdf)
いつも携帯する地図(2014年刊)に「狛犬」と書き込んでいたのが

 松風天満宮(松宿院)由緒 

◆寛永の頃、総本山知恩院が中興された折り知恩院第三十二世松風霊巌大僧正が、歌人・西行法師が感得した天神尊像を大伽藍に安置祈願した。
その後、この地に尊像を移し学文・技芸の向上・家門繁栄・諸縁円満・諸願成就の社として「松風天満宮・松宿院」と呼ばれるようになった。
◆祠(ほこら)正面右側に、善光寺別院・得浄明院様よりお預かりしている、久邇宮家の天神像を合祀している。
◆祠前の黄色い陶器製の狛犬は、小寺慶昭先生著「京都狛犬巡り」に、京都府下で一番恐ろしい面構えと紹介されている。

京都狛犬巡り』(品切れになっているみたいです)
 「京都府下で一番恐ろしい面構え」とまで紹介されている狛犬
門に柵があって閉まっていたのですが
ちょうどお寺の方がいたのでお聞きすると開けてくださった。
柵の外から遠目にはあまり怖いとは思わなかったのですが
近くから見るとやはりなかなかの面構えでした!
「神の御使い」は、座布団(?)に臥せておられた。
帰る時に読経の声が聞こえてきました。
ここは知恩院の塔頭だとか

北野天満宮と牛」(北野天満宮)
これまで知恩院は訪ねたことがあるけれど
その後、気になりながらも前を通り過ぎていた

 青蓮院(しょうれんいん) 

 三千院、妙法院と並ぶ天台宗散門跡の一つで、天明の大火(1788)の際に仮の御所となったことから、粟田御所(あわたごしょ)とも呼ばれる。
 最澄(伝教大師)が比叡山に建てた僧侶の住居の一つ「青蓮坊(しょうれんぼう)」に始まるとされ、平安時代末期の行玄(ぎょうげん)のとき三条白川(現在地のやや北西)に移り、鳥羽法皇の第七皇子が行玄の弟子として入寺して以来、皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が門主(もんす<住職>)を務める「門跡寺院」となった。
 歴代門主のうち、三代の慈円(じえん)は歴史書『愚管抄(ぐかんしょう)』の著者として有名で、十七代の尊円入道親王(そんえんにゅうどうしんのう)は和風と唐風を融合した青蓮院流(のちの御家<おいえ>流)と呼ばれる書風で知られる名筆家であった。
 境内全域が国の史跡に指定されており、粟田山(あわたやま)の山裾(すそ)を利用した庭園は、龍心池(りゅうしんち)を中心とした優美な池泉(ちせん)回遊式庭園で、主庭は相阿弥(そうあみ)の、霧島の庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作と伝えられている。
また、神宮道沿いの門前には、この寺で出家した親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお手植えと伝わる巨大な五本の楠(くすのき)(京都市登録天然記念物)がある。
 寺宝として、青黒く描かれていることから「青不動(あおふどう)」の名で知られる「不動明王二童子(ふどうみょうおうにどうじ)画像」(国宝)をはじめ、多数の文化財を蔵する。
円山公園東の山頂に、飛び地の境内である将軍塚青龍殿(せいりゅうでん)を有し、そこからの京都市街の眺めは格別である。
   京都市
ここの庭は、晴れの日よりも雨の日の方がいいそうですよ(^_-)

▲水の神・龍に因んだ水景の庭

 雨が似合う庭園がある。
お庭を見に行くならお天気が良い方がいい、と思うかもしれない。
しかし雨の時に見る方がさらに美しさを増す庭もある。

 …中略…

 この龍心池には2000貫(約7500キロ)もあると言われる大石が据えられている。
この石のことを昭和の名作庭家・中根金作(なかねきんさく)は「あたかも沐浴する龍の背のみゆるが如き」と表現している。
龍心池の由来ともなっている石で、龍が住む池ということ。
雨に濡れるとこの石はさらに美しくなり、青い池を悠々と泳ぐ龍の姿に見えてくる。
池にかかる半円形の反りの石橋は「跨龍橋(こりゅうのはし)」という名前で、「龍が池をまたぐ」という意味。
橋で「龍が池をまたぐ姿」を表現するとは、なんともユニークだ。

 …後略…

(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年)
受付でいただいた案内状には
先ず殿舎内をご参拝いただき、お庭へは、ご自分のお履物で受付横の「庭園入口」から出て下さい
とあったのに読まずに先に庭園に出てしまいました(^_^;
大勢の観光客が庭の景色を楽しんでおられました。
 日𠮷社の由来 

 日𠮷社は、慈園大僧正が信仰し勧請した十禅社で、応仁の乱後、慶長十年に再興され度々の修理を経て今日に至っている。
日𠮷山王の神は天台宗守護神として祀られ、慈鎮和尚の信仰と関連して特にゆかしく思われる。
粟田口は、京都から東海道の出口にあたっているため、昔東国に向う者は、この十禅社に旅行の安全を祈ったとのことである。
神の使い(眷属)「きつね」がおられた

稲荷とキツネ」(馬橋稲荷神社)
鐘を撞かさせていただきました

梵鐘の音は仏様の声です
 一、合掌一礼してから
   心をこめて撞きましょう
 一、連打せぬこと
   余韻が終わってから
   次を撞きましょう
        青蓮院
▲渡り廊下前に置かれた秀吉好みの手水鉢

 …前略…

 小御所の渡り廊下前には、豊臣秀吉寄進の「一文字形手水鉢」という自然石の大石を利用して作られた豪快な手水鉢がある。
豊臣秀吉寄進の手水鉢は、清水寺の成就院にも似たようなものがある。
青蓮院には豊臣秀吉からの寄進だという資料もちゃんと残っていて、秀吉はよっぽどこの形の手水鉢が好きだったんだな……と微笑んでしまう。

 …後略…

(『しかけに感動する「京都名庭園」』烏賀陽百合 誠文堂新光社 2018年)
鴨さんが訪ねた時は、まだ観光客が少なかったのだろうなぁ

 「ひとときの静かさの中で 青蓮院」(2012年9月17日 月曜日)

東山の山懐にある門跡寺院「青蓮院」さん。
鎌倉のお友達R.Oさんもお気にいりの名刹で
周囲の緑のおかけで境内は市内より2~3度涼しいと言われます。

これからの季節、修学旅行生など大勢の人が訪れる有名寺院のひとつですが
暑い時期には人も少なく、
開門と同時に行くとたいてい一番乗り。

何を考えるでもなく、ただお庭を眺め、時間の過ぎるままに任せる。
そして青不動さんにお願い事をする。
ある意味とても贅沢で気持ちの落ち着くひと時が過ごせます。

そしてお抹茶とお菓子(こちらは亀屋清永さんのお菓子です)をいただき
自分に区切りをつけて帰路につきました。

拝観料と抹茶代あわせて1,000円はうーん、となります。
でも映画を見たと思って時にはこんな時間の過ごし方もいいですよ。
 聖天堂 

 明治政府の廃仏毀釈政策により門跡寺院の経営が破綻。
一部の境内地と共に売却された聖天堂を此の度復興し、爾来本堂でお祀りしておりましたご本尊を遷座いたしました。
        令和三年正月
神宮通の先、赤い鳥居は平安神宮ですが、右に曲がって
前から気になっていた京の七口の一つにあるのが

京のみち ─七口と街道─」(京都市文化観光資源保護財団 動画約14分)
粟田神社にやってきました

 京都市指定有形文化財
  粟田神社 三棟
 本殿・幣殿・拝殿


 粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。
江戸時代までは感神院神宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素盞嗚尊ほかを祭神とする。
社伝によると、貞観18年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。
 本殿・幣殿は昭和8年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。
建物は、三間社流造の本殿の前に二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。
拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
 拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄16年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。
本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
   平成8年4月1日指定
   京都市
狛犬の足元を見ると毬
これからゴールを狙って蹴るのかな(^_-)
 粟田神社の剣鉾(けんぼこ)と大燈呂(だいとうろ) 

 粟田神社は、京都の東の出入口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って東海道を行き来する旅人の信仰も篤かった。
 十月の粟田祭は、剣鉾と大燈呂で知られる。
体育の日の前夜には御神宝の阿古陀鉾を中心に夜渡り神事が行われ、知恩院黒門前の瓜生石での祭典の後、氏子町内を行列する。
その際に粟田大燈呂と呼ばれる大きな灯籠が練る。
これは戦国期の公卿 山科言継の日記『言継卿記』に「粟田口の風流(中略)前代未聞驚目の事也」、青蓮院の寺誌『華頂要略』に「様々の造り物あり(中略)誠に一大壮観なり」と記されている灯籠の山車を平成20年に復興したものである。
 体育の日の神幸祭で神輿を先導する剣鉾は、長い竿の先に真鍮製の剣先と様々な意匠の錺金具(かざりかなぐ)を配したもので、鉾差しと呼ばれる担い手が一人で支え、剣先をしならせて鈴を鳴らしながら巡行する。
その現存する数では京都一を誇り、祇園祭の山鉾と同様に氏子の各町で護持される祭具である。
     京都市

粟田祭」(粟田神社)
「煎茶器一揃」
 無銘
 粟田焼(京薩摩)
   神社伝来品


 粟田焼(あわたやき)

 江戸時代の初期、寛永年間(1624~45)の頃に瀬戸の陶工 三文字屋九右衛門が三条蹴上今道町にて茶器を焼き広めた。
神社の付近より蹴上にかけて窯が立ち並び、青蓮院門跡の庇護を受けて、清水を凌ぐほどの隆盛を誇っていた。
その特徴は、生地が薄玉子色で細かい裂紋(貫入)が入り、もし毒薬を投入すると忽ち色が変わるといわれ、禁中柳営など高貴な人々に重用された。
仁清の色絵を取り入れた色絵陶器も特徴の一つ。
明治より昭和にかけて海外輸出に力を入れていたが、昭和の初めの世界大恐慌などもあり、昭和の時代と共に一時途絶えた。
 然し乍ら、平成7年(1995)に元の窯元である鍵屋安田氏が粟田焼を復興され、以来茶器を中心に作陶されている。

 ………

前から訪ねたかったのは、大田垣蓮月にゆかりがあります。
大田垣蓮月の足跡をたどる」(「東山見聞録」 南禅寺順正 2013年冬号)
太郎兵衛神社(神社案内)に入ると
 赤煉瓦の擁壁 

 大正年間に造られたと伝わる
水抜き穴から内部の栗石が見え
丁寧な仕事振りが窺える


と書かれた説明板が立てかけられていた石柱に
将軍塚登口」と刻まれていました。
神社の方にお聞きするともう数十年前から使われていないそうです。

別の道が京都一周トレイル「東山コース紹介」として整備されています。
 第一章 東山――歴史と景観に彩られた山紫水明の地
 粟田山から円山へ


  …前略…

 粟田神社の脇道に京都トレイルへの入口があり、山道を20分ほど歩けば粟田山にたどり着く。
粟田山といっても山頂のようなものはない。
さらに20分ほど歩けば東山山頂公園にたどり着く。
展望台からは京都市街を眼下に見ることができ、西山も一望できる。
公園の北側には青蓮院青龍殿(せいりゅうでん)の敷地があり、そのなかに将軍塚がある。
将軍塚は平安遷都後、桓武天皇が土偶人に鉄の甲冑(かっちゅう)をかぶせて西向きに土中に埋め、都の守護神としとされ、京都に急変があればこの塚が震動すると『京羽二重』に記されている。
(『京都の山と川 「山紫水明」が伝える千年の都』鈴木康久、肉戸裕行 中公新書 2022年)
 第二十一峰華頂山(かちょうざん)は将軍塚あたりにあり、浄土宗総本山知恩院の山号にもなっている。
三十六峰の山名と同じ山号を持つ社寺として、善気山法然院(ぜんきさんほうねんいん<第十四峰>)、慈円山(じえんざん<円山(えんざん)>)安養寺(第二十二峰)、恵日山(えにちさん<慧日山>)東福寺(第三十四峰)などがある。
もともと神仏習合が普通であった社寺は山そのものを信仰の対象としてきたことから、山にちなんだ山号があるのは当たり前かもしれない。
 将軍塚から知恩院方面に下ると、途中、高台寺山(こうだいじやま<第二十六峰>)、東大谷山(ひがしおおたにやま<第二十五峰>)、長楽寺山(第二十三峰)あたりを通過する。
高台寺山から下がると菊渓(きくたに)という谷がある。
大きな谷ではないが、かつてはこの谷の名にちなんだ名を持つキクタニギク(正式和名)という野菊がこの地に自生していた。
菊渓を左に見て山道を下がると安養寺がある。
第二十二峰円山は慈円山安養寺の本堂あたりと推定される。
 粟田神社から第二十九峰清水山にかけての山は、約2キロメートルの間に有名社寺がひしめく背後にあたり、かつては社寺所有山林であった。
松を主体として山桜や紅葉の名所としても古い絵図などに見るが、現在は風致上重要な森林として国が管理し、東山の景観の維持に大きな役割を果たしている。
(『京都の山と川 「山紫水明」が伝える千年の都』鈴木康久、肉戸裕行 中公新書 2022年)
お昼を食べたいと考えていたうどん屋さんが見つからずに三条駅に戻ろうとしていたら
携帯していた地図(左端)に書き込んでいたお店が目に入りました(^_^)v
高齢の男性はσ(^^;)一人でした。
他のお客さんは女性連れか、男女のペア。
それでもせっかくなので「アレンジこんにゃくセット」を頂きました。
アレンジこんにゃくは、4種(あられこんにゃくかつ・南蛮風こんにゃく・梅しそ巻き・おろし和え)
蒟蒻をこんな風に調理したのを食べたのは初めて(^。^)
お店の名は「卯sagiの一歩
暖簾からしてかわいいですね(^-^)
こんなお店を知っていたのも鴨さんが記事にしておられました。
鴨さんの食レポを転記しますφ(.. )
私は、「美味しい」という語彙しかない(^_^;
京都岡崎 内緒の町家でおばんざい」(2014年1月4日 土曜日)

 …前略…

店内は、畳の部屋と板張りの部屋。
席は多くありませんが、その分、前庭や中庭を眺めながら
ゆっくりとお食事ができます。
まず最初に京番茶が出されます。
京都以外の方は?となるお味かもしれませんね。

そして食事はおばんざいを中心に、メインを一品選びます。
私は豆腐ハンバーグで、ご一緒の方は梅しそのはさみ揚げ。
でも、その前に、こちらのご飯・お米は最高に美味しいのです!

こだわりのブレンド米。
おかずに手を出す前に、まず一口御飯をお勧めしています。
主食のお米を最初に一口、礼法で習ったとおりですね。
デザートの手作り豆乳プリンも本当に美味しい!!

 …中略…

今まで、誰にも教えていなかったお店。

ランチ1,300円で時間と雰囲気そして京の味。
それを十分すぎるほど楽しめる私のお勧めのお店です。

*駐車場はありません。

(現在の値段は公式サイトをご覧下さい)
史跡 三条白川橋道標」を過ぎて
左に曲がり少し行くと
 明智光秀(あけちみつひでの)の塚 

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、自害させました。
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引きあげてきた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、13日に山崎(天王山)で戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城をめざして逃れます。
そしてその途中、小栗栖(おぐりす<伏見区>)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を打たせたといわれています。
 光秀の首は、家臣によって隠されたといわれます。
ですが吉田兼見(よしだかねみ)という公家が記した日記『兼見卿記(かねみきょうき)』によると、光秀の首は15日までに発見されています。
18日からは、粟田口(左京区)で重臣の首とともに晒されました。
晒されたのは数日で、22・23日には近くに埋め、塚を築いたことも記されています。
 実際、『雍州府志(ようしゅうふし)』や『都名所図会(みやこめいしょずえ)』など、江戸時代の京都について記した地誌類には、その塚が蹴上(けあげ)付近にあり、三条通北側の人家の裏側にあると記されています。
多くの書物に記されていることから、当時よく知られた名所であったことがうかがえます。
 その後、江戸時代中期の安永(あんえい)~天明(てんめい)初年ごろ(1770~80ごろ)に、蹴上の塚にあった石塔婆(いしとうば)がこの地に移されてきました。
以来、この地が、明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もここに埋められたと伝えられています。
 また明智光秀を弔う場所は、ここ以外にも、小栗栖の明智藪・胴塚があります。
    京都市
このことを知ったのも鴨さんのblogでした

白川に沿って 三条白川橋から行者橋」(2011年10月23日 日曜日)

三条通りに架かる小さな橋が白川橋。
以前は京阪京津線の路面電車が三条通りを
車の間を縫うようにガタガタ走っていました。

その白川橋から古門前あたりは白川と人との間がすごく近くなります。

北白川あたりの急流もここでは穏やかな表情となり
学生時代は夏だとバイトの合間につい水に入って遊んだこともありました。

そうそう映画「鴨川ホルモー」にもこの辺りは登場して
橋の上で何やらおかしな特訓をしていましたね。

これからの季節、寒くなる前に一銭洋食を買って岸辺でいただきましょうか。

そしてお土産には川沿いにある「餅寅」さんの「光秀饅頭」をぜひどうぞ。(写真の少し先左側です)

思わぬところで日本のお-きな歴史にも触れられますよ。
京都人の生活を覘いてみたい方は
このあたりのぶらぶらはお奨めです
明智光秀公を伝えるお饅頭 餅寅さん」(2012年5月23日 水曜日)

歴史上の有名人の一人明智光秀公の首塚と伝えられるもののひとつが
東山区の三条白川橋から少し南に行ったところにひっそりとあります。

こちらの塚に入り口にあるお店が「餅寅」さん。
代々この首塚を護っていらっしゃるとのこと。

そしてこちらで出しているお菓子が上の「光秀饅頭」です。

左の抹茶が「京風白みそあん」、右の黒糖が「粒あん」。
どちらもお茶うけに丁度いい優しいお味。
光秀公の家紋である桔梗の花があしらわれています。

餅寅さんは街のおまんやさん。
こちらの女将さんはお嫁に来てもう30年、毎日元気にこの街と華頂短大のお嬢さんたちを見守っています。

どうぞ京都にいらしたら有名店のお菓子ばかりでなく
普段使いのお菓子屋さんも覘いてみてください。

*餅寅さんは、すぐ近くの白川沿いに京町屋のお宿の宿主さんもしています。
朝食では京風白みそ雑煮もいただけますよ。ご賞味くださいませ
 お土産に「光秀饅頭」を父と妹、私用に3つ買いました(^_^)v
白味噌餡(私に1つ)、粒餡(父と妹に)
京都の人は、光秀に好感を持っているのですよ
お店の人に私は大阪の人間だけど豊臣秀吉よりも明智光秀の方が好きですと伝えると
笑顔で答えて下さった。

転記間違いなどが多々あると思います(o_ _)o

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