2025年11月14日金曜日

秋晴れ

公園では、キンモクセイがすっかり花を落としていましたが
ギンモクセイの甘い香りが漂っていました。
今朝は、歩いているとポカポカして気持ちよかったです。
来週18日から寒気が襲来するとか……

富山県 18日~19日山沿い中心降雪か 冬用タイヤに交換を」(冨山NHK)
水曜日に循環器内科を受診した時に新型コロナワクチンを接種しました。
副反応は注射をしたあとの軽い痛み(今朝はなくなりました)。
インフルエンザは先月(1000円)。
私のように高齢者は、8000円ですが
それ以外の方は「任意予防接種のため、接種費用は全額自己負担」になります。
16000円以上かな?

新型コロナワクチン 高齢者定期接種 都内で自己負担額に差も」(首都圏NHK 10月1日)

インフルエンザ患者数 1医療機関当たり20人超 去年比1か月早く」(NHK)
昨日は、郵便局へハガキを買いにいきました。
職員の方に訊くと「喪中ハガキ」は販売していないとのことなのでインクジェットタイプの普通ハガキを購入しました。
今年の1月に伯父が亡くなり、10月にその後を追うように伯母が亡くなりました。
伯母は20年ほど前に倒れた後、入院生活が続きました。
伯母を毎日のように伯父が食事介護などで施設に通っていました。
伯父は、子どもの頃にラフカディオ・ハーンのように片目を怪我で失明。
その後、義眼を入れての生活でした。
遠く沖縄から私たち家族のことを気遣ってくれていました。
母の通夜・告別式にも参列してくれました。
先日、京都御所を訪ねた時に「猿ヶ辻(さるがつじ)」のことを少し紹介しました。
別の本には、こんなお話もあります。

 『笈埃(きゅうあい)随筆』―百井塘雨(ももいとうう) 
 蹲踞(つくばい)の辻

 禁中(京都御所)の艮(うしとら<東北。鬼門>)の角の築地(ついじ)を、俗に蹲踞の辻と申す由。
夜更けてこの辻を通る時は、茫然として途方(みち)に迷い、蹲踞(つくば)ってしまうという。
怪しき事ではある。
また築地の軒下に、御幣(ごへい)を持って烏帽子(えぼし)を着けた猿の彫刻がある。
これは、石山三位師季(さんみもろすえ)卿の細工の由である。
    (巻之四・蹲踞辻)
(『江戸奇談怪談集』須永朝彦編訳 ちくま学芸文庫 2012年)
 「児島旧居」の説明の中に
当時の学生にとって尊敬すべき「先生」である襄に八重が接する態度は、時として批判の対象にもなった
と書かれていました。そのことに関連して

 徳富蘇峰の八重への反発 

 …前略…

 初期同志社の空気は、アメリカ風教育を持ちこむ宣教師とそれに抗しようとしつつも、しかし少しずつ大日本帝国型の国家神道に傾斜していく明治政府への不満を募らせる襄との間で奇妙な妥協から成っていた教育空間といえるのではないか、と私には思えるのだ。
 八重はこのような空間で、むろん襄を支える良き伴侶としての立場にあった。
ただ八重の言動や服装は、そのころの日本婦人とはまったく趣を異にしていた。
これは蘇峰がその自伝で「今から考ふれば(保坂注・この自伝は昭和10年に刊行されている)、如何(いか)にも子供らしき事であるが」と前置きして、八重に対して不満・不快の念を持ったと明かし、そのことについて次のように書いている。
これは蘇峰に限らず、当時の同志社学生に共通した思いであったのだろう。
引用しておく。
(『八重と新島襄』保阪正康 毎日新聞社 2012年)
「新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂(いわゆ)る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且(か)つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於(おい)て、余りに馴々(なれなれ)しき事にして、これも亦(ま)た癪にさはつた。是(これ)亦た、余計なる事であつたが、自分の勉強などは第二として、斯(かか)る事に不快を感じたり、反動心を生じたりするのは、自ら愚の至りと思ふが、当時に於ては、全くその通りであつた」
 八重に対する学生たちの反発は、洋装への不満に端を発し、夫の襄に対しても一歩引退(さが)るというのではなく、常に共に横並びに歩くことや、馬車に乗るときも襄を最初に乗せるのではなく、自ら先に乗りこむという、そういう行動にあった。
襄は欧米風のレディー・ファーストを実践したのであろうが、しかし学生たちいは許されぬ「生意気な女性の姿」そのものに映ったのである。
 祈禱のあとに、あるいは学生たちの集まりの折には、声を荒げて八重を批判する学生も少なくなかった。
しかし八重はそのような批判にいっこうに頓着(とんじゃく)しなかった。
これは私の推測になるが、自分より十歳ほど年齢が下の学生たちに、八重は自らの言動を通じてこれからの時代はこれまでとは違うのだ、女性といえども家で夫に仕えるだけの人生ではない、と教えていたように思える。
さらに推測を重ねていくならば、維新後の今の世の中は、西軍(官軍)の支配する社会だが、その陰にこの「奸賊(かんぞく)共に」屈辱的な扱いを受けたわが会津藩があることを知らしめなければならない、それには薩長閥のつくりあげる「国民像」とは異なるタイプの、国際社会に通じる日本人をつくりあげていかなければならないとの思いがあったのではなかったかとも私には思えるのだ。
 徳富兄弟の姉・初子 

 明治14年(1881)、15年ごろの同志社英学校は開校から五年余を経て、襄はこの英学校を大学にすべく思いを募らせていた。
八重は同志社英学校で学生たちに接しながら、襄との私生活ではしだいに自らの果たすべき役割を自覚していった。
この自覚とはいうまでもなく、襄とともに同志社という教育機関を京都の地に定着させ、そこから自分たちの理念を吸収した青年男女を輩出させてこの国を支えようとの信念であった。
 この期、八重はこれまでも書いてきたように学生たちに人気はなかった。
強情であり、わがままであり、夫・襄を振り回し、女学校にあってはときに外国人教授たちと衝突し、そしていちど口にしたことは決して取り消さないなどともいわれた。
そうした噂が、八重の実像を語っているわけではなかったが、私はその実像を多くの文書や史料にふれつつさぐっていきたいと思うのだ。
八重に関する幾つかのよくない噂の根拠は大体が開校時から、そしてこの明治13、14、15年頃にかけての八重と学生たちの軋轢(あつれき)に端を発しているようにも思える。
徳富蘇峰や蘆花の筆も誤解を生むことになったが、彼らが一時期抱えた八重への不信感をもとに描かれたエピソードが八重への批判として用いられるケースが多い。
 この兄弟の姉に徳富初子(はつこ<五女>)がいる。
初子もまた同志社女学校で学んでいる。
襄が初子に宛てた手紙が『新島襄全集』の第3巻には収められている。
明治14年1月4日付の手紙で、前年11月末に襄は熊本を訪れ伝道を行ったのだが、その折に徳富家を訪れて歓待を受けた。
それに対する礼状である。
いろいろお土産をもらったこと、それに家族の心にこもった扱いに深く感謝すると述べている。
徳富家では、英学校の行く末は大丈夫ですか、あるいは女学校の教育方針はなどと尋ねられたのであろう。
襄はその心くばりに感謝する旨(むね)の一節も書き残している。
さらに次の一節がある。
「唯今は女学校ニも別段替り事なく候得共(そうらえども)生徒は少し相滅申候、拙宅(せったく)ニも旧ニより神の御恵之下ニ越年候間、御休意被下度候(くだされたくそうろう)、八重事も其後色々の用向ニ而(て)日を送り御不沙汰(ごぶさた)致し候段申居、私より宜(よろ)しく申上候様頼入申候、何卒(なにとぞ)一日も主基督を御忘なく(以下略)」

 こうした手紙を読む限り、襄と八重は、徳富家とは深いつきあいを行っていることがわかる。
 初子は熊本洋学校で横井小楠(しょうなん)の娘・みや子とともにジェーンズに学んだ。
そのあと同志社女学校でもともに八重とも接している。
みや子は、熊本バンド出身で同志社第八代総長となる海老名弾正と結婚することになる。
ちなみに初子は襄と故郷を共にし同志社教育の基礎をつくった湯浅治郎(じろう)と結婚した。
熱心なクリスチャンであった。
 早川喜代次(きよじ)の『徳富蘇峰』によれば、初子は徳富姉弟の母・久子に似て気性の激しい人だったという。
蘇峰が後に『国民新聞』を起こしたあと、初子に友人の犬養毅(つよし)を紹介したことがあった。
見合いである。
初子は犬養に、「あなたは一生涯この私を一人愛してくれますか」と尋ねると、犬養は、「今は貧乏だからあなた一人で結構だが、後で金でもできれば保証できませんよ」と冗談まじりに答えた。
初子は席を立って帰り、「弟はあんな友達を持っている」と怒ったという。
 この初子の性格は、八重と似ていることがわかる。
初子が同志社女学校で学んだときに二人の間にどういう交流があったかを考えてみると、蘇峰と蘆花が八重の中に初子の姿を見て、八重への批判(のちに二人ともそのことを自省するが)は、姉初子に対する甘えに似た感情があったのではないかと私には思えてくる。
(『八重と新島襄』保阪正康 毎日新聞社 2012年)
今朝の父の一枚です(^^)/
だんだんと秋が深まっていますね…

徳富蘇峰が八重の姿を「鵺の如き形をなしてをり」と反発していましたが

 鵼〔ぬえ〕 
鵺、奴延鳥とも評される。
今日では頭が猿、手足が虎で尻尾(しっぽ)が蛇という源頼政(よりまさ)が退治した怪物のことをいうようだが、本来の鵼は、夜中や夜明けに寂し気な声で鳴く鳥のことをいう。
 古くは『古事記』『万葉集』にその名前が見え、夜の森などで消え入るような寂しい声で鳴くので、いつしか凶鳥と見なされるようになった。
宮中ではことのほか鵼の鳴き声に敏感だったようで、鵼が鳴いたので祓(はら)いの行事をしたという記録がいくつも見られる。
 鵼の正体は低い山地に棲息するトラツグミ(スズメ目ヒタキ科ツグミ亜科)のことだとされており、夜または夜明け、曇りの日に「ヒィィー……、ヒョオー」という哀調を帯びた声で鳴く。
その声色は確かに不吉の前兆を感じずにはいられないといった風である。
 源頼政が退治したという鵼の話は、『平家物語』『源平盛衰記』『十訓抄』などに見られる。
『平家物語』の話は次の通りである。

 …中略…

 後に、怪物の死体はうつぼ船で川に流されたが、それが流れ着いたとされる大阪市都島や兵庫県蘆屋市には、祟りを恐れてその死体を埋めたとする鵼塚が今でも残っている。
(『改訂・携帯版 日本妖怪大事典』編著 村上健司 画 水木しげる 角川文庫 2015年)

野鳥シリーズ68 トラツグミ」(森と水の郷あきた)

徳富蘇峰がいう「鵺」は源頼政が退治した怪物を言っているのだと思いますが
『平家物語』に登場する「鵺」は後日、紹介したいと思います。
午後から心臓リハビリでした。
トレッドミルで30分間の歩行
歩行距離は1.75km
消費カロリーは93kcakでした。

京都や大阪などの街歩きをできるのも心臓リハビリのおかげだと思っています。