2021年5月7日金曜日

曇り空…

昨日は、五月晴れでしたが、今朝は曇り空でした。
そのおかげで気温があまり上がらず歩きやすかったです。
栴檀の花が咲き出しました。
日本で一番大きいセンダンは「琴平町の大センダン」(文化遺産オンライン)だそうです。
 安田菜津紀さんのTwitterに

自治体によるこうした判断、とても大切だと思う。
特に自治体なや公的機関がこうした問題に背を向け続ければ、それは差別に加担することと同じだと思う。


南国市がDHCと協定解消 高知、差別文章「不適切」〟(共同通信 5月6日)

そして八村阿蓮さんの
日本には人種差別が無いと言っている人がいるけどこうやって人種差別発言をする人がいます。
晒してどうにかなる問題では無いと思いますが、皆さんに今一度人種差別の問題について関心を持っていただきたいと思いまし
た」

バスケットボール 八村兄弟にSNSで人種差別的なメッセージ」(NHK 5月6日)

声を上げる勇気が社会を変えると思う!
休憩場所に父が選んだのは、母がだんだん歩けなくなった頃に休憩してたベンチ。
昨日、叔母が亡くなった報せが入りました。
叔母が入所していた高齢者施設でクラスターが発生して、叔母も発熱していると聞いていました。
2年前に叔父が亡くなった時は、お別れができたのだけど、叔母は、遺骨になって帰ってくる。
5月7日
 安政5年(1858.6.17) 伊東玄朴ら蘭方医、江戸お玉ヶ池に種痘所を開設(伊東栄『伊東玄朴伝』)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

疫病の歴史をみていると、医学が進歩していなかった時代に、伝染病が2、3年で終息している。
これだけ医学が発達しているのに新型コロナは、ますます猛威をふるっている。
第3章 人口にみる江戸システム
 幕末以降の人口成長


 さて、幕末になって全国人口は再び成長軌道に乗った。
残念ながら弘化3年(1846)の幕府人口調査を最後に、明治5年(1872)に壬申(じんしん)戸籍が編成されるまでは、全国人口に関する史料の空白の四半世紀となっている。
しかし村落レベルの宗門改帳からは、各地で19世紀になると出生率が高まったことが明らかにされている。
それに応じて世帯規模も拡大する傾向があった。
また明治19年(1886)に初めて作られた1歳ごとの人口統計(「日本帝国民籍戸口表)によって出生数を遡及推計してみると、出生率は明治になってから急に上昇したのではなく、1820年代以降、徐々に上昇していったことを示しているのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
 もっとも、幕末には天保期の疫病や凶作による大量死亡、安政期のコレラの大流行などが頻繁に起きたから、出生率の上昇傾向はたびたび引き戻された。
それでも人口は18世紀末期の天明期を最後に、寒冷気候の支配が弱まるにつれて回復の軌道に乗ったようで、文政期には18世紀前期の水準を取り戻している。
 幕末の人口成長の原因として、種痘の普及が重要ではなかったかという田﨑哲郎氏の指摘がある(「江戸時代人口論に対する一疑問」『日本歴史』646号、2002年)。
1796年にイギリスのエドワード・ジェンナーが開発した牛痘種痘法は、享和(きょうわ)3年(1803)にオランダ商館長ズーフを通じて日本へ伝えられた。
文政年間には日本人医師やシーボルトらによって牛痘接種法が試みられたが失敗に終わり、ようやく嘉永2年(1849)、佐賀藩主鍋島直正(なおまさ)の御側医楢林宗建(ならばやしそうけん)の依頼により、バタビアから牛痘のかさぶたを取り寄せたオランダ商館医師オットー・モーニケによって成功をみる。
それを受け継いだ宗建から、江戸では伊東玄朴(いとうげんぼく)、京都の日野鼎哉(ひのていさい)、鼎哉を通じて大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)および福井の笠原良策(かさはらりょうさく)へと伝えられ、福井には医師の熱心な運動によっていちはやく種痘所が設けられた。
地方農村へも蘭方医のみならず漢方医にも分苗(ぶんびょう)されていった。
武蔵国多摩では、早くも嘉永3年(1850)には牛痘接種法が導入されており、それが諸村で実施された結果、疱瘡による子供の死亡すが減少したと、川口洋氏は指摘している(「牛痘種痘法導入期の武蔵国多摩郡における疱瘡による疾病災害」)。
安政5年(1858)には大坂の除痘館が幕府官許となり、次いで江戸でも同年、神田お玉ヶ池に種痘所が設けられた。
しかし、全国的に種痘が強制接種されるのは明治9年(1876)に天然痘予防規則が制定されてからであるから、たしかに種痘がおこなわれた地域では子供の死亡率を低下させたのは事実であるとしても、その全国人口に対する効果は過大に評価することはできないのではないだろうか。
 ともあれ、この時期に始まった人口成長は、文政期に始まる幕末の経済成長と関連して起きたものであり、明治以後の持続的成長へとつながっていく。
しかし、いくつかの問題があった。 
 第一に、人口増加は庶民の生活に何をもたらしたかということである。
これはとくに賃金や生活水準に影響を与えたと考えられる。
 19世紀に入ってから、長期間にわたって列島を支配してきた寒冷気候が後退し、温暖化の兆しがみえてきた。
そのために、18世紀後半の宝暦から天明にかけて起きたような、大規模で全国的な凶作は姿を消しつつあった。
これによって死亡率は低下し、人口は成長軌道に戻ったのである。
人口規模が18世紀初期の水準に回復することによって、食料をはじめとする生活物資への需要が拡大した。
それによって米価をはじめとする諸物価は上昇しはじめる。
さらにこれを一段と押し上げたのは、文政年間に始まる、幕府によりたて続けにおこなわれた貨幣改鋳である。
第6章で詳しくみるように、その結果、人口増加による需要増に加えて、物価の全般的な上昇(幕末のインフレーション)をもたらすことになった。
  そして、このハイパーインフレーションともいえる物価高騰が30年以上にもわたって続いたということは、異常事態であった。
日雇(ひやとい)稼ぎ・棒手振(ぼてふり)・小職人・奉公人などの都市下層民や賃稼ぎをしなければならない農民階層の暮らしむきは、悪化を避けられなかった。
幕末における都市騒擾(そうじょう)は、このような状況の中で多発した。
一方では開発と商工業の発展をともないながら、社会構造は大きく変動していったのである。
(『文明としての江戸システム 日本歴史19』鬼頭宏 講談社学術文庫 2010年)
 安田登さんのTwitterに

すごい時代だ。コロナとオリンピックと改憲とがぐちゃぐちゃに。
洗脳の方法に「前後の脈絡のない情報を絶え間なく与え続ける」というのがあるけれども、まさに今だ。
時代が洗脳時代に入っている。
そうすると単純な論理に飛びつくようになる。
二日酔いの朝に一杯の清涼な水が美味しく感じられるように…
戦火に消された「東京オリンピック」 川本信正

 河野一郎が反対論

 ―― 当時、国会では、政友会の河野一郎さん、まだお若かったんでしょうが、さかんに問題にして攻撃したようですね。

 川本 そうなんです。
情勢がだんだん悪くなってきて、オリンピック返上論が出てきたんです。
もちろん軍部はその肚(はら)なんですが表面に立って反対論をぶったのは政治家ですね。
その代表的なのが政友会の河野一郎氏です。
 彼が衆議院でオリンピック反対論を唱え、これに対して開催賛成を唱えたのが、川崎秀二氏(自民党元代議士)の親父(おやじ)さんで民政党の川崎克氏でした。
 当時川崎秀二氏はNHKの国際部にいましたが、彼から、親父の賛成演説の原稿を書かなければならないんだと、私も相談を受けて、当時NHKのあった愛宕(あたご)山の下の中華料理屋で原稿の打ち合わせをしたことを覚えています。
つまり、政友会の河野、民政党の川崎という政党代表の対決でもあったわけです。
 一方、貴族院では、戦後横浜市長をやり、スポーツの父といわれる平沼亮三さんが賛成演説をやりました。
これに対して、美濃部憲法を攻撃して天皇機関説問題の火をつけた菊池武夫が、開催反対の急先鋒です。
 賛成論者を非国民呼ばわりでしたから、川崎さんも平沼さんも勇気があったと思います。
 しかし、今考えると、もうすべて大勢は決まっていたんで、論争なんて、まったくの猿芝居だったんでしょうね。
まもなく近衛内閣になり、書記官長の風見章氏を追うことが、われわれオリンピック記者の仕事になりました。
つまり、いつオリンピック返上を発表するのかということなんです。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)
 ―― 河野一郎さんの反対論の論旨は、どんなものだったんですか。

 川本 彼は、自分でマラソンをやっていたんですが、この競技で万一、日本選手が負けるようなことがあったら、国民の士気は阻喪して戦争遂行を妨げるじゃないかと言うんです。
 これに対して川崎のほうは、スポーツというものはあくまで平和のためにあるものだ、クーベルタンの精神を今、日本で生かして、日本がいかに平和を愛する国であるかを示し、いまやっている中国との戦(いくさ)は、やむにやまれずやっているんだということを理解させるべきだ。
それには絶好のチャンスだから、万国博とともにオリンピックはやるべきだと論じたんです。
 しかし近衛内閣はすでに返上の方針を決めていたんですね。
ですから空気としてもう駄目だということははっきりしていました。
あとはいつ中止を発表するかだけの問題でした。
 ―― 昭和13年の3月に、河野さんがまた質問し、杉山陸軍大臣が答弁に立ちましたね。

 川本 軍部が表面に出て意思表示をしてきたわけです。
支那事変が始まっているときにオリンピックなど不適当だと明言しました。
もはや、東京オリンピックは絶望的でした。
 東京大会返上

 ―― 中止発表のときは、どんなようすでしたか。

 川本 学校スポーツは文部省ですが、一般のスポーツはその年にできた厚生省の所管でした。
ですから、厚生省がオリンピック主管省だったんです。
 当時、いまの麻布有栖川公園のそばに木戸(幸一)厚生大臣の官舎があり、そこに小橋東京市長と永井事務総長、下村体協会長の三人が呼ばれて、政府の方針を申し渡されたんです。
昭和13年、1938年の7月15日でした。
 私はちょうどその日、台湾と慶応の陸上競技があり、日吉に見に行っていました。
そしたら読売から車が迎えに来たんです。
いよいよおいでなすったというわけで、車をとばして麻布の厚生大臣官舎へ行きました。
やはり興奮しましたね。
 ―― 新聞の紙面の扱いはどうでしたか。

 川本 大きかったですね。
万博と二つ並べましたから。
しかし、中止といってもそうひどいショックはないんです。
もう皆だいたい知っていましたから。
来るべきものが来たという感じだったでしょう。
しかし、スポーツ界にはやはり大きなショックですし、失望より何か怒りを感じた者が多かったでしょう。
 松沢一鶴という、ロサンゼルスオリンピックの水泳監督だった人ですが、「一軍人や少数の政治家が、ほしいままにこういう国際的な大事業を葬り去るなんていうことができるとは、どういうことか」と、当時の「アサヒスポーツ」に書いていますね。
よく検閲を通ったなと思うくらいの激しい調子でした。
 新聞ももう中止ということに批判の声を出せないような雰囲気でした。
だから、遺憾とか、残念とかいう解説は出ません。
やむを得ない、ますます戦争完遂だという調子でしたね。
 ―― 結局、東京の代わりにどこでやることになったんですか。

 川本 ヘルシンキに移ったんです。
しかし、翌年、第二次世界大戦が始まりましたから、オリンピックそのものがつぶれたんです。
1940年の第12回オリンピックは、とうとう世界のどこでも開かれなかったわけです。
 結局、第12回と第13回が流れたんです。
13回はロンドンでやることになっていたんですが、これもだめで、1936年から1948年までの間二回オリンピックはなかったわけです。
 「五輪大会」の由来

 ―― 戦後、1964年の東京オリンピックでは、河野一郎さんが担当大臣でしたね。
昭和15年の東京オリンピックをつぶしたご当人が、戦後は担当大臣とは、何かおかしな因縁ですね。

 川本 まったくです。戦前つぶしたころの河野代議士は、まだ若くて演説はうまかったし、活発にやっていましたね。
兄弟そろって、早稲田の駅伝の選手でして、二人いっしょに走ったこともあります。
箱根駅伝で平塚と小田原の間を走るんです。
往きを弟がやれば、帰りは兄貴が走るという具合で、学生時代から選挙地盤を踏み固めていたわけですよ。
 ―― ところでオリンピックのことを五輪大会と言いますが、「五輪」というのは川本さんがはじめてお使いになったんだとか。

 川本 いや、自慢話にもならないんですが、「五輪」というのは、私が使い始めたのは事実です。
 これは妙なことから起こったんで、つまり戦前、東京オリンピックが来ると決まって、新聞がオリンピック記事を書く場合、見出しで、「オリンピック」とやると六字だから長くて困ったんです。
これを何とか短く出来ないかというわけで、私の社でも、整理部からなんとか略せないかと、たびたび相談されました。
 いろいろ考えて、「国際運動」と書いて、オリンピックとふり仮名をしてみたり、「国際運競」としてみたり、しかし、どうもピンとこないんですね。
そのうちに、いまから思えば簡単なことなんですが、五つの輪がオリンピックのシンボルマークだから「五輪大会」はどうかと思いついたんです。
 それというのも、そのころたまたま、『文芸春秋』に菊池寛さんが、宮本武蔵の『五輪書』のことを書いたんです。
私、それを読んでいまして、あっ、これだと思ったんです。
なんだ「五輪」でいけばよいじゃないかと、そのことを社の整理部長に話したら、これはいいというんです。
なるほどマークだし、五輪が、オリンピックのオリンと語呂(ごろ)が合うと言うんですね。
それで初めて五輪大会とやりました。
そして、五輪にオリンピックとルビをつけたんです。
 最初はたしか社会面のトップ記事の見出しに使われたと思います。
 そもそも五輪とは、仏教用語で、地、水、火、空、風、つまり万物を形作る元素で、宇宙一体を示す言語だから、これこそオリンピック精神で、東洋思想と一致するものだ、なんてことを記事に書いたりしましたが、いまになると、なんともお恥ずかしい思いです。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
母が散歩の楽しみにしていたバラ園、いっきに咲いている…

一気に感染者が増えた大阪
居住地の新型コロナ感染者数を市の人口あたりにすると約1%を超えた。
直近1週間の人口10万人あたりの感染者数」(NHK)を見ると大阪がダントツ
新型コロナを入所施設で感染した叔母は、入院できたのだろうか?

大阪の病院は「もう余力ない」…入院率10%、受け入れ先「調整中」は3300人〟(読売新聞 5月5日)

一方で、すぐに入院できた議員がおられる。
大阪府の発表資料を見ると感染確定日が4月27日(火曜日)、医師の所見により、5月2日まで入院予定となっている。

大阪府議会議員の新型コロナウイルス感染症への感染について」(大阪府 4月30日)

入院できずに亡くなる方もおられるのに…