2021年5月11日火曜日

ツユクサも咲いていて

出かけた時は曇り空で風がひんやりしていましたが
公園に着くとなんか暑い…
ポツンとツユクサが咲いていました。
アジサイもちょっと開き出しました。
 安田菜津紀さんのTwitterに

公文書改ざんを強いられ、命を絶った赤木俊夫さん。
真相解明を求め、赤木雅子さんは声をあげ続けている。
《夫は「戦争や」って言っていたんですよね。白いものでも「黒」って上司に言われたら「黒」って言わなければいけない》
《夫をもう一度助け出そうという気持ちです》


「苦しんだのは間違いなく、改ざんさせられたこと」 提訴と手記の公表から間もなく1年、赤木雅子さんインタビュー〟(Dialogue for People 2021年2月16日)
さらに安田菜津紀さんのTwitterには、

《何を「赤木ファイル」とするかがはっきりしないために時間がかかった》としているが、国側はこれまで「争点に関係がない」から提出を拒んでいたはず。
「赤木ファイル」が何を指すかも分からないのに、「争点に関係がない」ことだけ分かっているのは、不可解。


まさに島田雅彦さんの言うとおり

「厚顔無恥でなければ、首相も大臣も知事も務まらない」といわれれば、誰もが納得する。
5月11日
 昭和41年(1966) 〔忌〕小泉信三(こいずみしんぞう<78、経済学>)
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

小泉信三について半藤一利さんがその人柄を語っています。
半藤さんが出逢えた、ブレなかった日本人
 小泉信三(こいずみしんぞう)慶應義塾塾長

 小泉信三さんは今では天皇と美智子さんのご成婚の陰の立役者として知られていますが、戦前戦後を自由主義に基づいた言論を貫いた人です。
 戦後、講和条約をめぐり、世論がソ連などを含めた「全面講和」とアメリカ側とのみの「単独講和」(実は多数講和)に割れました。
論壇ではインテリゲンチャたちがみな「全面講和」に与(くみ)していたときに、小泉さんは敢然として、たった一人で、「早く単独講和をしたほうがいい」と唱えました。
結局、昭和26年、サンフランシスコ講和条約で単独講和することになります。
共産圏の国々を外しての講和です。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
  私が編集者として小泉さんとお付合いしたのは、そういった喧騒も過ぎた昭和32、3年ごろでした。
広尾の有栖川宮公園にほど近いお宅へ何度も通いましたが、自分を誇るところがない人なのか、講和論争のことなど、先見の明を誇ったようなことはオクビにも出てきませんでした。
 ただ「晴天の友となるなかれ」としきりに言っていました。
「人間は晴れのときは誰でも友達がついてくる。しかし、ドシャ降りのときの友こそ本当の友なんだ」という教えは、講和論争のときの教訓だったのでしょうか。
 また、「君は大学時代、ボート部で何を会得した?」と聞かれたから「なかなか強くならないんだけど、ある日、突然、強くなるというのは練習の成果だと思います」と言うと、「それなんだ。練習が不可能を可能にするんだ」とまた教訓です(笑)。
「勝負に勝っても、敗者のことを思いやらなければいけません」なんて、無理なことも(笑)。
塾長さんだったから教訓話が多かった。
悪ガキ育ちには全然身につきませんでしたが(笑)。
 聖人君子ぶっているわけでもなく、ユーモラスな人でした。
あるとき、会合の場で伊藤正徳さんが「小泉さんは厳(おごそ)かな顔をしているけど、声色が上手だ」と言うから、私が驚いて、そんな素振りを見せたこともない小泉さんにお願いしたのですが、残念ながら応じてもらえませんでした。
後で娘さんの小泉妙(たえ)さんに聞いたらその通りで、歌舞伎で有名な「斬られ与三郎」のセリフを、「いやさ、お富~」とやるそうです。
実は奥さんの名が富子なんですね(笑)。
 後にして思うと、皇太子・美智子妃殿下の仲人役として動いている時期でしたが、そんな素振りはまったく見せていませんでした。
迂闊物はちっとも気づかなかった(笑)。
  顔に大やけどを負っていましたけど、私がまともに顔を見て話していると、「普通、私はこんなことは気にしないんだけども、私の顔をまともに見つめて話をする人は珍しいね」と言われました。
そういえば、小泉さんの昔の写真を見て、「先生はすごい美男子だったんですね」なんてバカなことを言って、「美男子ではないが、人には男らしい顔をしていると褒められた」と応じられたこともあります。
後で帰社して先輩に聞いたら、昭和20年5月の山の手の大空襲のせいということでした。
  勇気ある自由人

 ある日、小泉さんの本が刷り上がったので、風呂敷包みでヨイショと担ぎ、電車とバスを乗り継いで、小泉さんの家へ伺いました。
小泉さんが「ご苦労さん」と玄関においででしたので、肩からエイと降ろしたら、バラバラと本を落としてしまいました。
(あわ)ててまた風呂敷に入れて応接間で渡すのを、小泉さんが黙って見ていました。
 数日後、また訪れると、「半藤君、いいところへ来た。待っていた」と言われたから、そんなに待ち遠しような男じゃないのに(笑)と思っていると、小泉さんは各出版社から郵送されてきた本を封を切らないまま、たくさん抱えてきました。
「読みたい本もあるんだけど、君が来るのを待っていたんだよ。開けてくれたまえ」。
一つひとつ開けると、「どうだった?」と聞かれた。
「各社によって、本の包み方や扱い方が違うんですね」と答えました。
「気がついたかね。それなんだよ、君に知らせたかったのは。本というものは著者にとって、どんなに可愛いものか。それをバラバラバラッと落されるのは辛い」。
この前のあれか!(笑)。
「本当に申し訳ありませんでした」「いやいや、君も出版社でこれから長く勤めるだろうから、本を大事にしてほしいと思い、わざわざ君に開けてもらったんだよ」。
 この先生は今まで会った人たちとだいぶ違うなと思いました。
学問だけでなく、実践的にいろんなことを大事にする人でした。
 ある日、応接間で原稿を待っていると、小泉さんが「これでも読んでいてくれないか」と渡されたのが私家本の『海軍主計大尉 小泉信吉』でした。
太平洋戦争で失った、最愛の息子さんのことを綴ったこの本は、小泉さんにとって、自分のことを本当に知っていてくれる、「この人は」と思う人だけに終戦直後贈った本で、そのとき初めて合格した、お眼鏡にかなった気がしました。
それがまたすばらしい本で感動しましたので、その場で、「先生、すごい本ですから、どうかうちの会社から出させてくれませんか」と言ったら、「ダメです。これは私のことを分かってもらうことができない人にまで読まれたくない本なんです」「もったいない」「ありがたいけれども、もういいんです」というやりとりでした。
 昭和41年、小泉さんが亡くなったとき、「文藝春秋」にいたので、編集長に「『小泉信吉』というすごい本があるので、もらいに行きましょう」と言って、二人で小泉さんの家へ赴きました。
すると、奥さんに「小泉の遺志でお断りいたします。小泉のことを理解してくれている人だけには読まれたいと思っているんですが、雑誌というのは、小泉を批判する人の目にも触れますから」と言われました。
 戻る途中で編集長に、「ヘンな人が読むかもしれない雑誌はダメだけど、読みたい人が買う単行本ならいいという言い方じゃないですか」と言ったら、編集長がそうだというので、出版部の編集局長に「ほんとうにすごい。あれはもうベストセラーになる」と言ったら、局長はすぐ飛んでいきました(笑)。
結局、最後は局長の粘り勝ちで、本になりました。
 戦争中のことを批判的に言う人もいますが、私はこの人もまた、自分のやるべきことを身を粉(こ)にしてやり、いっさい弁解や言い訳をしなかった〝勇気ある自由人〟と思っているんですがね。
とにかく、常に堂々と胸を張っていました。
(『文春ムック 永久保存版 半藤一利の昭和史』前島篤志編集 文芸春秋 2021年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
ヒヨドリを写していました。

Eテレ0655のオープニングで
5月10日から16日までは、野鳥を保護し、大切にする考えを広めるために作られた、「愛鳥週間」です。
みなさんもおでかけの時に、どんな鳥がいるか探してみてはいかがでしょうか。

おはようソング「声の主」♪に登場したのは

ハクセキレイ(スズメ目 セキレイ科)
全長21㎝
チピ チピ チピピ と鳴きます。
川岸や農耕地、駐車場でも観察でき、スズメと鳴き声はよく似ています。
長い尾羽(おばね)を上下に振りながらトコトコ歩いています。

歩いて地面のエサを探す。

最後に矢部太郎さんが双眼鏡を出すのですが、かなり大きかったなぁ(*´▽`*)
小さくて軽い双眼鏡をお勧めします(^^)v

日曜美術館「孤高の花鳥画家 渡辺省亭
渡辺省亭のこと初めて知りました。
見逃した方は16日(日)午後8時~に再放送があります。
東京藝術大学大学美術館で「欧米を魅了した花鳥画 渡辺省亭」展が
開催されていたのですが緊急事態宣言で休館中のようです。