2021年5月5日水曜日

こどもの日

朝から雨が降っていましたが、来園者が少ないだろと出かけました。
途中で雨が本降りになったので早めに帰ることにしました。

今日は「こどもの日
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
母に感謝する日でもあります。

浮世絵EDO-LIFE▽大きな鯉のぼり広重“名所江戸百景 水道橋駿河台”
を見ると江戸時代、旧暦五月五日に武家と町人で飾るものが違っていました。
くらしの季語
 端午(たんご)

 五月五日の節句。
かつては男児の成長を願う日でしたが、今では男児女児を問わずすべての子どもの健やかな生育を祈念する「こどもの日」として、各地で子ども向けの催し物が行われることの多い日です。
 男児のいる家では、鯉幟(こいのぼり)を立てたり、武者人形を飾ったして祝意を示す風習は今も残っています。
この日の食べ物は柏餅(かしわもち)と粽(ちまき)
柏の葉は枯葉のまま翌春まで木に残っているところから、家系の続くことを念じて、この葉で餅を包んだのが柏餅です。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
  わが家では柏の葉の代わりに山帰来(さんきらい)の丸い葉でお団子を包んでいました。
この葉を採収する大人について山に行き、籠(かご)一杯の葉を持ち帰りました。
団子を丸めたり餡(あん)を練ったりする母の周りをうろうろしているだけでしたが、そのどれもが楽しく、折々巡ってくる行事は、子ども時代の大イベントだったのです。
 この日、弟や集いに来た従兄弟(いとこ)たちは新聞紙で折った兜(かぶと)を頭にのせて柏餅を食べ、嬉々(きき)としていました。
昔むかしから「端午」は「こどもの日」でもあったのです。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)

西日本ではこの葉で餅を包むサルトリイバラ(猿捕茨、ユリ科)」(森と水の郷あきた)
 島田雅彦さんのTwitterに

政府やオリンピック委員会は医師や看護師をオリンピックに「徴用」し、タダ働きせようとしているが、
国民は国家に無償奉仕すべきだなどと本気で思っているなら、
国会議員も、オリンピック委員も電通、パソナ幹部も率先して報酬を返上するのが筋であろう。
 江川紹子さんのTwitterに

オールジャパンで対応すべきは、このコロナ禍でしょう。
自身が首相だった時、通年国会にしてコロナ対策を、という声を無視してさっさと国会を閉じてしまった責任は、感じてないみたいですね。

 →安倍前首相、東京五輪「オールジャパンで対応すれば開催できる」(産経新聞 5月3日)
戦火に消された「東京オリンピック」 川本信正
 施設計画

 ―― さて、日本での施設計画はどんなものだったんですか。

 川本 とにかく、たいへんでした。
第一に主競技場をどこにするかということですね。
今、国立競技場があるところに明治神宮競技場がありましたが、それを大きくしてプールと競技場をくっつけようと考えたんです。
ロサンゼルスでも、その前のアムステルダムでも、プールと競技場とは近接していたんです。
だから、ちょうどいいということでした。
 ところが、スタンドを高くしなければならない、絵画館のほうに向かって芝生を削ってスタンドを高くしなければならないんです。
ところが、神宮外苑(がいえん)を管轄している内務省の神社局が、そんなことをしたら、外苑の尊厳をそこなうから絶対認められないと反対して、とうとうこの案がつぶれるんです。
 それで、あっちこっち探しまわった結果、ゴルフ場があった駒沢という案が出てきたんです。
つまり、これが、戦後の東京オリンピックでも使われた駒沢のあの場所です。
 で、ゴルフ場をつぶして、競技場とプールを作るというマスタープランに落ちついたんです。
オリンピック村もその近くに作ろうということになりました。
 当時の駒沢は、私も見てまわった記憶がありますが、まだそれこそ田園風景がゆたかでした。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)
 ―― 今の駒沢通りは、当時のオリンピック道路だったそうですね。

 川本 その当時計画された道路ですね。
このときに作った施設で今残っているのは戸田のボートコースだけです。
 静水プールでなくてはいけないとうので作ったんですが、当時の遺産として活用されているわけですね。
芝浦に自転車競技場を作りかけたんですが、これはもうなくなってしまいました。

(「埼玉県戸田市 ボートコースのある街」 みちしる NHK)
 ムッソリーニを説く

 ―― 当時、東京へ誘致するためには、対外的な働きかけはどんなふうにやったんですか。

 川本 競争国が、フィンランドとイタリアだったんです。
つまりヘルシンキとローマですね。
それで、まずローマをおろしてしまえというわけで、同じ枢軸国同士だから、ムッソリーニにたのもうと、杉村陽太郎大使が働きかけたんです。
そのために杉村さんをIOCの委員にもしました。
杉村さんは柔道はたしか六段だったし、東大で水泳もやっていたから、スポーツ歴はあったわけです。
 ローマにはすでに競技場もあり、今も残っていますが、競技場のまわりには、36もの競技の選手の彫像を並べましてね。
ですから、ローマは強敵だったんです。
杉村さんは度々ムッソリーニに会ってたのむんですが、ムッソリーニは、うんと言わんのです。
 ところが、副島種臣の息子で、副島道正という伯爵が、バスケットボール協会の会長をやっていたんですが、この人が、杉村さんにつづいてIOC委員になり、杉村さんといっしょにムッソリーニと会うことになったんです。
 この人は、体の小さな陰気な人でしたが、嘉納さんと妙に張り合って仲が悪くてね。
親英米の人でした。
この副島さんが、ムッソリーニと会ったんですが、興奮のあまり卒倒してしまったんです。
それでムッソリーニが非常に同情しましてね。
「こんなに命を投げ出してまで、日本にオリンピックを持っていきたいというのか」とその武士道精神をたたえ、それならこちらも武士道精神で東京にオリンピックを譲ろうと決めたんです。
これは当時たいへんな美談として伝わりました。
 しかしヘルシンキは遂におりなくて最後に東京と決選になったんです。
 ヘルシンキと決選投票

 ―― 結局、投票で決まったんですか。

 川本 そうです。36票対27票でした。
イギリスやアメリカなど大国は日本を支持しました。
ヘルシンキを支持したのは、ヨーロッパの諸国とそれから南米です。
  ―― 先進国と後進国というような分かれかただったんですか。

 川本 当時のいわゆる先進国が日本に入れたと思います。
ただ大国は、委員の数が多いんです。
例えば日本は3票、アメリカは4票、英国も3票、ところがフィンランドは1票という具合ですから、大国は数が少なくても、持ち票数が多いので日本が勝てたんです。
 今は1国で3票というのはなくて、多くても2票です。
当時日本はIOC委員が3人で、嘉納さんと、副島さんの二人が投票したわけです。
 ―― 当然、あちこちの国に投票依頼工作をしたんでしょうね。

 川本 もちろん、やりましたね。
外交筋を通じてやり、また副島さんがあちこちまわったり、手わけしてやったんです。
スウェーデンのエドストロームなんかは非常に好意的にやってくれました。
ですから票読みは有望でしたね。
 投票は昭和11年の7月31日、ちょうどベルリンオリンピックの開会式の前日、アドロンというベルリンのホテルでやったんですが、向こうに取材に行った新聞記者は、今とちがって通信の仕掛けが便利でないときですから、電報を打つのもたいへんな騒ぎだったようです。
 ホテルの窓から合図して、よく最高裁の判決なんかのときにやっていますが、あんなふうにやって、下で待っている記者が車に飛び乗って電報局にかけつるけるというわけですからね。
 東京では早朝の号外でした。
そして各新聞社が、オリンピックの旗と日の丸を屋上に立てましてね。
ベルリンオリンピックでは連日号外でしたね。
あの年は二・二六事件などがあり、何となく暗い世相でしたから、オリンピックにはワーッときたんですね。
 ―― 「走れ大地を、力の限り」というオリンピック応援歌がありましたね。

 川本 あれはロサンゼルスのときの応援歌です。
山田耕筰さんの作曲で、いい歌だったから、ずいぶん流行しましたね。
 「皇国精神に基づいて、質実剛健にやれ」

 ―― それで翌年に日中戦争が始まったわけですね。
川本さんは、オリンピックが東京にと決まったけど、危ないというような不安はありましたか。

 川本 それはありました。
スポーツ界の者はみんな、東京オリンピックはだめかもしれんなという気持ちを持っていました。
 ―― しかし開催まで4年あるわけですね。
4年先のことはわからんということですか。

 川本 ええ、それからなんですよ。
施設をどうするかで、いろいろ始まったのは。
東京に決まるまでは、ただ青写真の設計図をIOCに提出しただけで、できるかできないかは二の次だったんです。
で今の戸田のボートコースなんかを作ったのは、決まったあとなんです。
 それでいよいよ東京開催と決まったので、すぐ組織委員会を作ったんです。
これは政府と東京市と体協とで作るわけです。
  ―― 所管は文部省ですね。

 川本 そうです。そして、今からみると、たいへんおもしろいんですが、関係各省の次官が組織委員会にはいるんです。
で陸軍からは東条英機、海軍からは山本五十六です。
会長は十六代将軍徳川家達公爵です。
 徳川さんには、各新聞社とも困りました。
というのは、写真をとるときは、徳川公爵家の家令を通じて許可をとらないと、紙面に出せないんです。
各社とも、その許可をとる係が専門にいました。
 組織委員会の会場は、永田町の今の自民党本部のところにあった文部大臣の官邸で毎日開かれました。
今のように会議を公開してということはなく、あとでスポークスマンが発表し、そのあと私たちが、あちこちと取材にとび回るんです。
今のように記者クラブで協定し、同じ発表文を社に流すなんてことはなかったですね。
 ―― 組織員会の運営はどんな具合だったんですか。

 川本 特に問題はなかったんですが、事務総長がしょっちゅう変わるんです。
というのは、体協、東京市といろいろ注文を出す、つまり船頭が多いわけで、事務総長が永続きしないんです。
最後にベルギー大使をやった永井松三さんで、やっと安定しました。
 そのうち日中戦争が始まってしまったんですね。
すると間もなく軍部から嘉納さんをはじめ体協や組織委員会の幹部が呼ばれました。
 昭和12年の暮れでしたね。
海軍は来なくて、陸軍大臣、参謀総長、陸軍次官とそろってやってきたんです。
場所は帝国ホテルでした。
そして、「オリンピックをやるのはよろしい。しかし皇国精神の基づいて、質実剛健にやれ」と注文をつけたんです。
それから、オリンピックには、デモンストレーション、公開演技というのがあるんですが、それには必ず、剣道か銃剣術をやれ、というんです。
そして、国民の敢闘精神と必勝の信念を発揮するように指導せよ、とまあこういう注文をつきつけられたんです。
 嘉納さんなんかは、非常に自由主義的な考え方の人でしたから、会議のあと気の毒なほど暗い表情でしたよ。
 そうこうしているうちに、日本に対する国際世論が悪くなってきて、東京オリンピック反対論が出てきたわけです。
アメリカは、ヘルシンキへもっていけと言うし、イギリスはロンドンが引き受けると言い出したんです。

 ―― 紀元二千六百年の東京オリンピックも悲観的にならざるを得ないわけですね。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
連休中、歩いていないので車で出かけました。
園内の駐車場は一般利用中止になっているのですが
パークセンターで許可をもらいセンターの駐車場に止めることができました(午前9時~)。

今日は母の誕生日。
でも、同じ日に祖母が亡くなり、誕生日を祝うことができなくなりました。
父は、公園に来ると撮影した写真を母と歩いた時の写真と並べて飾っています。
ハマナスも母がハマナスを見ている写真があります。