2021年5月17日月曜日

早々に…

出かける時は、小雨だったのですが、歩いている間に急に激しい雨になりました。
初めは、水たまりをよけて歩けたのですが、
道が川のようになったので諦めて早々に退散しました(^^;

熊本県で猛烈な雨 西~北日本の広い範囲で大雨のおそれ」(NHK)
大学を卒業した後に、貘さんのことを知り、『山之口貘詩集 世界の詩60』(昭和52年、12版)を読みました。
そこに金子光晴の跋文が載っています。
貘さんのこと  
       金子光晴

 僕より先に貘さんが死ぬなどということは、僕の計算にもなかったことだし、貘さんにしてもおなじことだろう。
それがわかっていたら、もうすこし貘さんと話しておきたかったこともあったし、貘さんといっしょに旅行の計画も無理にも実現しておいたことであろう。
貘さんとの友人関係は、友人の少ない僕としては、まず珍しいものであったと言える。
(『山之口貘詩集 世界の詩60』金子光晴編 彌生書房 昭和43年)
たいていのことはゆるす決心があったし、彼の方でもおなじだったろう。
貘さんの詩がどうのこうのということは、はるかに超越して、おなじ困難をともにしてきた仲間のふかい了解があったわけだが、やはり詩が仲立ちでふたりが結ばれたのだし、詩を認めていればこそ話の理解を疎外できないことだし、詩はやはり二人のあいだで終始切って離せないものであった。
臨終の時、その前日か、しきりに貘さんは、「金子さん、もっとそばへよって下さいよ。どうしてそんな遠いところにいるのですか」と何回も言っていたそうだ。
貘さんとの交際で、貘さんもやっと一般から認められ出して、これからなんとか悲哀な感じをせずにしごとも出来る環境になってきたことを知っているので、僕は油断しすぎていたのかもしれない。
いちばん安心してたるんでいた時に、突然、貘さんが死ぬ羽目になったのだ。
残念ながら彼ほどこころをゆるしあった友人はなかったので、そういう意味では浮世がつまらなくなったというわけだ。
しかし、貘さんのこととなれば僕が飛び出し、独占物のように口出しをするようなさがないことは、じぶんからはやるまいとおもう。
そんなことは他人に任せておけばいいことだし、他人の方がよくやってくれる。
それでできるならば、この跋文を最後のものとしたい考えである。
 僕が外国から帰ってきたのは昭和の八年頃と記憶するが、当時、日本のことがまだなんにもわからず、どういうわけだかいまに了解できないのだが、なにかのかかわりで、南千住の国吉真善という琉球の人のやっている泡盛の会へ僕は出かけていった。
そこではじめて若い琉球詩人の山之口貘と出会った。
彼はむしろ僕より佐藤惣之助がながい知合いだったらしい。
佐藤春夫も僕より先に知っていたらしいが、彼らはみな、先輩としてのポーズをくずさなかった。
成程、彼が琉球で中学生の時に僕の『こがね虫』をよんだというから僕の方が一歩兄貴分かもしれないが、そのときの僕は、詩の世界そのものが無きにひとしい存在で、詩の世界に僕の籍はなく、天涯の閑人だったので、話はすらすらといって、僕らはすぐ友人になった。
さまよえる二人づれだったからである。
彼は「鼻のある結論」などを書いていた頃である。
僕は、貘さんが琉球からきたとはきいたが、彼が琉球産であることは知らなかった。
親交はつづいたのにも拘らず、このことはいつまでも知らずにすぎた。
むろんそんなことはなんのさまたげにもならないし、同時に、交際の鍵にもならない。
僕じしんが、日本人でも、ロシア人でも、マレイ人でも、どうでもよい存在だったからである。
  しかし、僕が親しくなったことは、やはり詩をおもしろいとおもったからであることは否みようがない。
それからほぼ三十年、ふたりは互いにその仕事をみとめあってきたが、彼の詩にいくら感心しても僕とはまじりあいっこないし、僕の詩も、彼の詩の一行へも影響を与えることはない。
互いに別々なものをもって相侵すことがなかったことは、双方とも頑固といってもいいほどであった。
そして、彼と彼の詩の、他人の介入をゆるさないきびし結びあいをみていればこそ、彼を信用し、肚(はら)をうちあける気にもなったというものだ。
そういう意味で彼の狭さ、彼の寡作(かさく)は、彼の誇りとつながっているのであった。
戦争中、別してふたりは接近した。
二人が共通の敵にむかって、たがいにたがいをささえとして、日々を生きなければならない必要に迫られていたからである。
思想的な同志などとはちがう。
ふたりは存在をまもるという利害が共通していただけであった。
 小心でおとなしい彼は、彼の立場からしても猶更、他人にはもらせない素顔を僕には平気でみせることができたし、僕の彼の前では平気で、理不尽な戦争や、その遂行者に対しての憤懣をもらすことができた。
「日本人は、こんな戦争をしてバカですよ」
と貘さんが言うとき、彼は、本音のわからない日本人というけったいなかぶりものを僕がかぶっていなかったからおもいきって言えたことだった。
まったくこの頃の日本人は、文士詩人おしなべて、へんな奴ばかりにかわりはてていた。
この苦い味を、その後もながく二人は忘れることができなかった。
僕がまっ正面な抗議のような詩をかけば、彼は、日常のなかのユーモアでそれとなく反戦を仮託する。
貘さんの反戦のイデーは、イデオロギーなどといういい加減な、反戦がすぐ好戦に変わるようなわがため主義からではなく、もっと、人間の本心に根ざして彼という個人から発したものであった。
そういうわけで貘さんの詩は、みんな反戦詩だとみることもできる。
かくれたつなが、すべてをそこへ結びつけているのを、はっきりした眼には、みることができる。
しかし、彼にとっては、もちろん反戦が全部ではない。
人間が全部なのだ。
人間のなかの獏さんが全部なのだ。
作品を、他人の作品のあいだに入れて、優劣甲乙をつけるということはつまらないことだが、そうしなければ納得してくれない人たちが多いので、そんな話しかたをすれば、貘さんの詩は日本では一流の詩だ。
前にもあとにもないユニークな作品である。
決してむずかしい詩ではなく、誰にでもわかるので人はうっかりしているが、貘さんは一つの題材を煎じつめて単純化し、一篇の詩を完成品にしなければ気のすまない、芸術派作家にもみないほど気むずかしすいこうを重ねて、一般の眼にもなれなれしい彼独特の作品がそこに出来あがる。
そしてその作品は、大きい理解にも小さい理解にもこたえることのできる円融無礙なものとなる。
例えば、結婚に関する詩をとりあげてみても、それは、結婚一般に通じる大小いっさいをふくんでいる。
貘さんの結婚は、諸君の結婚なのだ。
そこには、特殊も、癖も、偏向もない。
彼の詩は、その意味でひろくよまれるべき性質をもっている。
彼が石川啄木のようによまれる日がくるというのが、僕の予想だ。
まだそこまではゆきわたらないが、いずれそうなる日がくることを僕は信じている。
文語とはまったく縁のない新しい日本語の語感は、貘さんの詩あたりからと、僕は考える。
むしろ日本人にはできないことを、貘さんがやってのけた。
そういうことは、これからよっぽど年月が経ってから、論じられるだろう。
 獏さんは僕が知ってからも、始終、故里の琉球の夢をみていた。
琉球の海の青さを語るとき、琉球の怪談をきかせるとき、貘さんのことばは熱を帯び、貘さんの眼はかがやく。
 戦争前は、僕の一家とつれ立って琉球へ旅行することを会うごとにすすめ、僕らもそのつもりになっていた。
貧乏同士の僕にも貘さんにも、いざというと先立つものの算当がなかなかつかなかった。
それでも僕たちはゆく気になっていたのだが、昭和十二年にはじまった戦争が、その計画を御破算にした。
琉球どころか、近くの小旅行もなかなかできなかった。
それでも僕と貘さんはつれ立って二度ほど小旅行をしている。
一度は箱根の強羅で『梅のや』という旅館だった。
ここは武田麟太郎が勉強していた部屋で、その口利きで安く泊ってきたが、貘さんは温泉旅館に泊るのははじめてだったと言っていた。
もう一度は、終戦後三年目、僕は貘さんをつれて、僕の疎開先だった、富士の山中湖の平野村『平のや』という旅館につれていったときである。
裾野が寒いので貘さんはかえりに風邪をひいた。
終戦後十年以上たったころ、貘さんもだいぶ世間的に有名になってきて、ファンも多くなり、一度故郷の琉球へ帰そうといううごきが大きくなり、何十年目で素志を果し、貘さんは琉球へかえってきた。
その時の詩も、この巻ののうしろの方に収めてある。
「沖縄風景」「不沈母艦沖縄」等をみて、その久しぶりの帰郷の貘さんの心境をたずねてみられたい。
貘さんなりの万感こもごもがそこにある。
 奥さんの詩、ミミちゃんの詩は貘さんの生活と愛情をつぶさに吟味するのにいい。
 おおまかな放言を、跋文にかえる。
   八月二日
(『山之口貘詩集 世界の詩60』金子光晴編 彌生書房 昭和43年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
休憩している時にスズメがやってきて何か訴えているような表情。

天気が悪くても父が歩いているのは、ロコモの予防もさることながら
懐かしい故郷に帰って、自分の足で思い出の場所を訪ねたいからです。
去年から帰りたいと願っていながら新型コロナで延び延びになっています。

ロコモを知ろう」(日本整形外科学会)