2021年5月2日日曜日

風が強い…

自転車をこいでいると向かい強い風
公園に着くまでに息があがってしまった(-_-;)
ミカンの香をかぐとホッとします。
自転車で来園するときは帰りのことを考えて距離を短くしています。
こころの時代~宗教・人生~
私は、母になる~餅田千代と孤児たちの戦後~
餅田千代さんのことを知らなかった。
寮長という管理者でなく、母親として戦争孤児たちに接していました。
だから卒寮生の思い出話がとても温かい。
上戸彩さんが朗読していた育成記録「ひまわりの記」を読みたいと思ったけど、
どうも息子の健さんの話では千代さんが自費出版されていて手にはいらないようです。
再放送(土曜日)、見逃し配信もあるので多くの人に見てほしいな。

 向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所〝 2 【寮長】みんなの「お母さん」〟(長崎新聞)
千代さんが亡くなったのは
1991年、息を引き取った日付はくしくも5月5日の「こどもの日」だった。
以前、ニュースで知ったシェアハウスが
今日のNHKおはよう日本公式に紹介されていました。

【 “居場所があるんや”と気づく場所】
限界集落に若者のシェアハウスが? “山奥ニート”と自称する彼らが、地区のお年寄りに頼りにされて…。
おはよう日本で取材した若者とお年寄りの不思議なふれあいが、番組になりました。


目撃!にっぽん
限界集落のシェアハウス~“山奥ニート”の不思議な日々~
餅田千代さんの向陽寮は、戦争孤児の居場所。
NPO「共生舎」は心を傷ついた人たちの居場所だと思う。

「山奥ニート」体験を本に 田辺市大塔地域共生舎の石井さん〟(AGARA 紀伊民報 2020年6月4日)

番組の中でマンガが紹介されている山奥ももこ (山奥ニート)さんのTwitter
ほかのメンバーのSNSもあります。
メーデーは昨日なんですが

5月2日
 大正9年(1920) 日本最初のメーデー、上野公園で開催。参加者1万人余。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)
労働運動の曲折
 最初のメーデー


 大正9年の初めには、普選運動は未曾有の高まりをみせ、友愛会・信友会などの労働組合もこれに積極的に参加して、その主力となった。
しかし2月に原内閣が、普選は階級制度の打破をめざす不穏思想だとおどして議会を解散したころから、労働者のあいだには普選運動への不信がつよまった。
労働運動への弾圧がきびしいうえに、3月におこった戦後恐慌のなかで、首切り・賃金引下げなどの資本攻勢が強化されたことも作用した。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)
 大正8年に燃えひろがった争議は、多くの弱点をかかえていた。
その要求は主として労働者の生活保障に限られ、しかもその性質は発作的・衝動的で運動に統一がなく、罷業者のあいだにも明確な階級意識や他団体との連絡もなかった。
争議は孤立的におこなわれ、かつ持久力が薄弱であって、わずか二、三日でたちまち結束を切りくずされた。
労働ブローカーなどの活動する余地も多かった。
 それだけに恐慌下の資本攻勢がはじまると、多くの弱小組合は雲散霧消し、基礎のかたい大組合でも、組合員は半減し、四半減していった。
大正8年前半の全盛期には会員五千を数えた友愛会神戸連合会でさえも、大正9年になると脱退者が続出し、1151人に激減するほどであった。
それだけに労働運動はきたえられ、のこった組合員は意識も高く活動的になっていった。
同時に労働組合の団結をすすめてゆく必要性も痛感されていた。
 大正9年5月2日の日曜日には、日本最初のメーデーが東京の上野公園でおこなわれた。
友愛会。信友会をはじめ15団体4千の労働者が集まるなかで、予定の治安警察法第17条撤廃・失業防止・最低賃金法の設定の三つに加えて、8時間労働制・シベリア即時撤兵・公費教育の実現が決議として可決された。
そのあと1時間ほど演壇が開放され、会場の三ヵ所につくられた演壇では、数十名の無名の労働者が思い思いに演説した。
 この日はデモ行進は禁止されていたが、「万国の労働者万歳」を三唱して会をおわると、集合途中で検束された信友会の水沼辰夫(みずぬまたつお)らの釈放を要求しようと、労働者は隊をなして山をくだった。
デモ隊は数百の警官隊ともみあって、衝突は万世橋(まんせいばし)までつづいた。
 このメーデーの決議のなかには、普選の実施はうたわれていなかった。
上述した情勢のなかで、とりわけ関東の労働運動のなかには、サンジカリズムの影響がひろがった。
メーデーをよびかけたのは、普選反対に傾いていた印刷工組合信友会と新聞工組合正進会だったが、とりわけ信友会では、大正8年の争議が経営者の威嚇(いかく)と官憲の圧迫と内部の動揺とで敗北してから、サンジカリスト(急進的労働組合主義)が指導権をにぎっていた。
なお、メーデーの資金となったのは、高島米峰(たかしまべいほう)の丙午(へいご)出版社から出ていた幸徳秋水の『基督抹殺論(キリストまっさつろん)』の印税の一部で、社会運動に使おうと堺が保管していた分であった。
  資本攻勢が強化されるなかで、これに抵抗するためには組合勢力を結集することが急務となっていた。
メーデー会計報告会の席上で、労働組合の同盟組織をつくることが決まった。
5月中旬には友愛会・信友会・正進会・啓明会・交通労働組合等9団体が労働組合同盟会を結成し、ついで全日本鉱夫総連合会も加盟した。
関西でも友愛会関西同盟会や向上会(大阪砲兵工廠)を中心に、関西労働組合連合会が組織された。
 10月には友愛会の第八周年大会が大阪の天王寺公会堂で開かれたが、1年前とは打って変わって険悪な空気が流れた。
会場へのデモ行進でも、関西側は「目覚めよ日本の労働者」と賀川豊彦(かがわとよひこ)作詞の労働歌をうたったが、サンジカリズムの影響をつよくうけた関東側の代議員は、別の労働歌をうたった。
  貪婪(どんらん)あくなき資本家の 魔の手は長く労働の
  成果を奪いむさぼりて 根幹かたし資本主義
  立て労働者ふるい立て 資本のとりでおとしいれ
  わが手におのが生産を 奪還すべきときは今
 賀川は勢いこんで飛んできて「その歌はやめてくれ」とどなった。
だが賀川がいってしまうと、関東側代議員をひきいる棚橋が「かまわぬ。歌え」と「貪婪あくなき資本家の」をはじめたので、賀川は、もう友愛会に同調できぬとおこって姿を消してしまった。
 大会では工場法改正・労働組合法制定実行委員会の設置が討議にはいったさい、われわれ労働者の信任しないブルジョア議会に建議案を出すのは矛盾ではないかと反対の声があがり、関西側と関東側とのあいだで議会政策か直接行動かの論争に発展した。
これ以後、労働組合法制定にたいする熱意はうすらいでいった。
 この年も会名改称の提案があった。
前年改称したばかりの「大日本労働総同盟友愛会」について、「大」は帝国主義的な匂いがするし、「友愛会」は労働組合として不必要だという提案が東京鉄工組合の山本懸蔵(けんぞう)から出されたのである。
「大」をとることはたやすく承認されたが、「友愛会」には愛着をもつ者が多かったため、「友愛会」のほうは1年後にとることになった。
(『日本の歴史23 大正デモクラシー』今井清一 中公文庫 2006年改版)