2021年5月4日火曜日

みどりの日

今朝も晴れてEテレ0655のオープニングで

「五月晴(さつきば)れ」は、もともと旧暦の5月(今でいう6月ごろ)の「梅雨のあいまの晴れ」を指す言葉でした。
しかし現在では「5月のすがすがしい晴れの日」の意味でも広く使われ定着し、辞書にも載っています。
おなじくEテレ0655、4月23日(金)→5月12日(水)は「こどもの読書週間」だということで

0655「今朝の1行目

ある 町(まち)に、ジャガイモ・ホテル という やどやが ありました。
  『川へ おちた たまねぎさん』 村山籌(かず)

村山籌子さんを知らなかったので検索すると、ビックリしました。
読んでみたいけど本屋も図書館も今は利用できない(T_T)
 ナナホシテントウだと思うけどなんか模様が違っている。
突然変異かな?

サイエンスZERO「進化研究の新境地 “超遺伝子”スーパージーン
で紹介されていた「スーパージーン」と呼ばれる特別な遺伝子
藤原晴彦東京大学大学院教授が出演されていました。

ヒューマニエンス 40億年のたくらみSP 
“性とウイルス” 人間を生んだ力とは?
番組の冒頭で織田裕二さんが
もしかしたら今日、皆さんがイメージする人間という生き物の常識が覆るかもしれません
と話していましたが、私も昭和の人間なのでビックリしました。
人間は、男と女の2種類」という常識も最新科学は「幻想」だという。
自身の性について違和感を感じている人に救いとなると思う。
(↑ 別のナナホシテントウ)

 第1章 昆虫にとっての世界
  †人間の200分の1のテントウムシの世界

(前略)
 テントウムシの大きさはおよそ8ミリメートル、私たちヒトの200分の1の大きさしかない。
彼らにとってこの地球はいったいどのように見えているのかといつも気になる。
たとえば長さ2メートル、幅1メートルで30センチメートルぐらいの高さの雑草が生い茂った場所を考えてみよう。
もし私たちがテントウムシほどの大きさだとしたら、この空間はなんと長さ400メートル、幅200メートルの土地に高さ60メートルの大木が生い茂っている林と同じことになる。
だから小さなテントウムシのとっては、こんな狭い空間もエサとすみかを得るには、十分すぎるほど広いのではないだろうか。
(『昆虫の世界へようこそ』海野和男 ちくま新書 2004年)
実際、体が小さかった子供時代を考えれば、部屋も道路も今思うよりずっと広かったように思う。
体が小さければ、当然、小さな空間を有意義に使うこともできるのだ。
テントウムシとアブラムシを見ていると、アブラムシを食べるクサカゲロウやヒラタアブの幼虫が現れたり、アブラムシから甘露をもらおうとアリが集まってきてテントウムシを追い払ったりする。
食べたり食べられたりの食物連鎖の世界や、守ったり守られたりという共生の世界などが目の前で展開されるのである。
 食物連鎖といえばすぐにアフリカの大型動物の世界を思い出すが、なにもアフリカまで行かなくてもこんな小さな道ばたの草むらで、様々な出来事が起こっているのだ。
草むらに1時間も座っていれば、昆虫たちの狩りだけでなく、もっと様々な生き様を見せてくれるはずだ。
小さな草むらで静かに進行している生命のドラマは、地球上の生き物の世界を凝縮して見せてくれるミニチュア版であるとつくづく思う。
(『昆虫の世界へようこそ』海野和男 ちくま新書 2004年)
今日は「みどりの日」ですが、私の場合、あまりピントきません(^^ゞ

5月4日
 昭和13年(1938) 〔忌〕嘉納治五郎(かのうじごろう<79、講道館(こうどうかん)柔道>)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

嘉納治五郎は、幻の東京オリンピックの心労で亡くなったのだと思う。
嘉納治五郎 かのう じごろう (1860~1938)」(国立国会図書館)
組織委員会森元会長の発言が社会問題となり高齢者への風当たりが強かったですが、嘉納治五郎氏はまるで人格が違っていました。
その事は、川本信正氏の話の中で紹介されています。

昭和史探訪3太平洋戦争前期』で、三國一郎氏が聞き手となって
1940(昭和15)年に開催予定だった東京オリンピックについて川本信正氏に経緯を聞いています。
(「 ―― 」は聞き手、三國一郎氏です)
戦火に消された「東京オリンピック」 川本信正

川本信正(かわもとのぶまさ)
1907年(明治40)、東京に生まれる。一橋大学(旧制)卒。
読売新聞社運動部に入社。
昭和17年までオリンピック専門記者。
のち、日本放送協会厚生部長、鈴木内閣国務大臣秘書官を歴任。
戦後、スポーツを中心とする評論活動。JOC委員。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)
 オリンピック中止

 1936年(昭和11)IOCは、この年に開かれたベルリンのオリンピックの次の開催地を東京と決定した。
アジアでオリンピックが開かれるのはこれが最初であった。
 しかも、東京オリンピックが開かれる1940年は、当時紀元2600年にあたることになる。
ベルリンオリンピックが、ナチス・ドイツの宣伝に使われたこともあったが、大規模なオリンピックのための施設の建設に乗り出した。
 ところが1937年、日中戦争が開始されると、軍部は、これをナショナリズムの昂揚に利用することを公然と要求してきた。
また日本に対する国際世論が悪化して東京開催に反対の意見も出てきた。
 組織委員会は、なお開催のための努力をつづけたが、結局、1938年7月15日中止を決定したのである
 東京市長が誘致を企画

 ―― 若きスポーツ記者として、いちばん思い出深い出来事というと、やはりあのお流れになった紀元二千六百年の東京オリンピックですか。

 川本 ええ、学生のときからオリンピックには興味がありました。
記者になった翌年、昭和7年が1932年のオリンピックで、私の取材活動は、それから昭和17年までずっとオリンピック関係でした。
オリンピック記者ということは、同時に体協記者ということなんです。
というのは、体協が日本のアマチュアスポーツの総合団体だし、オリンピック選手の派遣もするんです。
そして、東京へオリンピックを持ってくるなんていう話が出てきたんで、ますます専門記者になったわけです。
 ―― 東京へオリンピックを誘致しようとうには、いつごろからの話ですか。

 川本 昭和5年の10月ごろなんです。
 今もありますが、日本学生陸上競技連合という、学生だけの陸上競技の組織がありまして、その会長が、高柳健次郎さんとならんでテレビの創始者だった、早稲田の理工学部で電気工学の山本忠興先生でした。
 昭和5年、私は大学3年のときですが、学連の書記長にさせられたんです。
この組織は、学生がすべてを自主的にやることになっていて、書記長というのは、いわば全体のマネージャーでした。
 その年の秋、国際電気工学会があり、それにスウェーデンのエドストロームという人が出席したんです。
ところが、この人は、当時国際陸上競技連盟の会長で、IOC(国際オリンピック委員会)の委員だったんです。
山本先生もこの学会に出席しておられましたが、ちょうど日本の学生選手も、その年の夏、欧州へ行ったことでもあるし、よい機会だから、国際陸連会長のエドストロームさんといろいろ懇談しようということになったんです。
 場所は、有楽町の電気クラブで、これは、今の日活ホテルのすぐ裏手、アメリカンファーマシーの駅寄りの三階建ての建物でした。
 十月の雨が降っている日でしたが、その席上、山本さんがエドストロームに「もし日本が希望すれば、東京オリンピックが開かれるだろうか」と聞いたんです。
これが、公式に日本人がオリンピック招致を発言した最初だと思います。
 ―― 川本さんは、その席にいらっしたわけですね。

 川本 そうなんです。実は山本さんは、その前から、東京市長だた永田晴嵐(秀次郎)から打診されていたんです。
というのは昭和15年、1940年に東京で万国博を開くということがすでに決まっていたんです。
それでオリンピックも、いっしょに開けないだろうかと永田さんは考えたわけです。
 それで永田さんは非常に親しかった下村海南さんに話したところが、下村さんは「それは山本君にまかせたらどうだろう」と言ったようです。
そんなことから山本さんの打診となったんですが、そのとき、エドストロームは、「不可能ではないが、非常にディフィカルトだ。しかし、まあ、努力したらよいだろう、そのためにはまず第一に東京に施設がなければダメだ、それから日本がホストのカントリーとして、開催国として、ある程度よい成績をあげなければならない。また、国民がオリンピックのすべての競技種目に十分な関心と理解を持つようにならないとだめだ」と、言ったんです。
今から考えるとたいへんな後進国扱いをされたわけです。
 当時、日本のIOC委員は、体協の会長だった岸清一さんと、嘉納治五郎先生の二人でした。
岸さんは、今、岸体育館にその名が残っていますが、その岸さんに、山本さんが、エドストロームと話した結果を報告し、東京へのオリンピック招致が、必ずしも不可能ではないと思うので、よろしくと言ったわけです。
そのとき、岸さんは、イエスともノーとも言わず非常に不機嫌だったそうです。
 そのあとの体協の理事会には、嘉納先生も出席されたんですが、岸さんは「この間陸上の山本が、こんな話をもってきたが、山本は気がちがったんじゃないか」と、満面朱を注いで言ったそうです。
暴挙もはなはだしいというんですね。
  ロス大会で日本招致の名のり

 ―― オリンピック招致は時期尚早ということですか。

 川本 はい、不可能そのものだと言うんです。
これが昭和5年暮れのことです。
 ところが、市長の永田さんが、どうしてもあきらめきれないんですね。
で永田さんは山本さんの話をきいて、今度は嘉納さんを口説こうというので、柔道をやっていて講道館の役員、体協の理事でもあった、下村海南さんにその口説き役をたのんだんですね。
 で、永田、下村二人に口説かれた嘉納さんは、「よしやってみよう」ということで、岸さんを、こんどは嘉納さんが口説いたんです。
 岸さんという人は、みるからに傲然(ごうぜん)とした人でしたが、嘉納さんは、温厚な人でした。
 しかし、嘉納さんは、大学時代でも、IOCでも岸さんの先輩なんです。
嘉納さんがIOCの委員になったのは明治42年で、日本が最初にオリンピックに参加した第5回オリンピック(明治45年、ストックホルム)も、嘉納さんが選手を連れていったんです。
体協を作ったのも嘉納さんです。
岸さんが、嘉納さんに頼まれて、体協の二代目会長になったのが大正10年です。
 そんなわけで、岸さんも嘉納さんに言われると、いやとは言えないんです。
それで、一つお互いに努力してみようじゃないか、ということになる。
それに時あたかも紀元二千六百年になるからということで、岸さんもようやくやる気になるんです。
そして昭和7年のロサンゼルスのオリンピックのときに、各国のIOC委員を、岸さんが晩さん会に招待し、その席上で、日本招致の名のりをあげたんです。
これが発端といえるでしょう。
 ―― しかし、名のりをあげてからが、たいへんですね。

 川本 まず第一に施設を作らなければならない。
それから、オリンピック選手村をどこにするとか、とにかく、何にもないんですから、あると言えば明治神宮外苑競技場ぐらいなものでしょう。
  ―― 施設のモデルとしては、どこかを参考にしたんですか。

 川本 ロサンゼルスとか、東京開催に決まった1936年のベルリンを一応モデルにしたと思いますね。
 しかし、オリンピックがあんなに大きくなったのは、1932年からなんです。
つまり、十万の観客をいれるスタジアムというのは、それまでにはなかったわけです。
1932年は、アメリカでやったからあんなに大きなものを作ったわけです。
 次のベルリン、これはヒトラーが、ナチスのデモンストレーションの場として、それに輪をかけた大きなものを作ったんです。
となると、日本でやるとしても、少なくとも、同じくらいのものを作らなければならない。
こうなるわけですよ。
  民族の祭典

 ―― ヒトラーは、最初はオリンピックに反対だったと聞きましたが……。

 川本 そうなんです。ベルリン開催は、ヒトラーが政権をとる前にすでに決まっていたんです。
ところが、政権をとったヒトラーは、オリンピックが、ユダヤ人の仕事だとか、ユダヤ人の陰謀だとか言って反対したんです。
 なるほど、当時のベルリンの組織員会の会長は、レーワルドという実業家、事務総長が、ディームというすぐれた体育学者でしたが、二人ともユダヤ系でした。
ヒトラーは、この二人を罷免しようとしたんです。
そこで、IOCがクレームをつけたんです。
もしこの人事を強行するなら、ベルリンからオリンピックをとり上げて、ほかの都市でやると通告したんです。
それでヒトラーも二人に手が出ませんでした。
しかし、この二人は、ベルリンのオリンピックが終わるや否やスイスに亡命してしまうんです。
戦後、ディームは帰ってきましたが、レーワルドはスイスで亡くなったそうです。
 それから、ベルリンでは、ドイツの選手が入賞しますと総統席に呼んで、ヒトラーが握手をするんです。
それを見て、IOC会長のラツールが、やるならすべての入賞者に平等に握手をしなさい、と注文をつけたんです。
ヒトラーは、そのあと行われた走り高跳びでアメリカの黒人選手が優勝するとわかると、握手をするのがいやで、そそくさと席を立って帰ってしまって、握手は一日だけでやめになりました。
IOCが政治権力に、不屈の権威をみせたのは、このベルリンのときで、毅然(きぜん)たるものでしたね。
 ―― しかし、ヒトラーは、ベルリンオリンピックを民族の祭典とか言って、プロパガンダ―にフルに使いましたね。

 川本 そうなんです。これはナチの宣伝になると気がついたんでしょう。
建設途上の競技場を見てまわったりして、これはいけるぞと思ったんではないですか。
急に今度は開催論者になって、おしみなく金を注ぎ込んだわけです。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)

つづく