2021年5月6日木曜日

雨のあと

昨日の雨から一転、青空が広がっていました。
でも、早朝は、なんか空が霞んでいて黄砂の影響だなと思いました。
公園を歩いていると、コヒルガオが咲いていて一気に夏になったような…
5月6日
 天平宝字7年(763.6.21) 〔忌〕鑑真(がんじん 76、唐僧)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

東征伝絵巻」(小学6年)
唐大和上東征伝
(前略)
 天平宝字7年(763)の春、弟子の僧忍基は、講堂の棟梁が摧(くだ)けて折れる夢を見た。
目覚めてから驚き、懼(おそ)れ、大和上の亡くなられる相であると知った。
そこで弟子たちを率いて、大和上の真影を写した。
 この年の5月6日、結跏趺坐(けっかふざ)して、西に面して、亡くなられた。
春秋、七十七歳であった。
死後三日、頭の頂上にまだぬくもりがあったので、長いこと納棺しなかった。
火葬に付するにいたって、香気が山に満ちた。
(『日本の名著2 聖徳太子』責任編集 中村元 中公バックス 昭和58年)
 平生、僧思託に、
「自分が亡くなるときは、坐ったままで死にたいものだ。汝は自分のために戒壇院に別に影堂を建て、それまで住んでいた房は僧に与えて住房となすべきである」
といっていた。
『千臂経』に、「臨終に端坐して禅定に入るようであれば、この人はすでに初地に入っていると知るべきである」とある。
この点からみると、聖人であったか、凡人であったか、測りがたいものがある。
(後略)
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)
 聖徳太子と奈良仏教 ――その普遍的理想の世界 中村 元
 奈良文化のコスモポリタン的性格
  鑑真和上と唐招提寺


 古代仏教のコスモポリタン的性格は、奈良朝の鑑真の登場によってもっとも顕著なものとなる。
さきに述べたように、唐招提寺という名がそれを端的に示しているのである。
 唐招提寺の境内を北へ進むと、黄色く塗った築地塀(ついじべい)にぶつかる。
そこを東へ行くと、「鑑真大和上御影堂」としるされた大きな建物がある。
さらに東へ進むと、鑑真の墓がある。
「鑑真大和上御廟」としるされた門屋を入ると、正面の高く土盛りしたところにお墓があり、それを半円形に池が取りまいている。
静寂そのものである。
参道には紅葉がとぎれとぎれに散っていた。
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)
 日本へ渡来した外国の僧侶は少なくなかったわけであるが、これだけ広い墓域を与えられた人は、ほかにはないであろう。
朝廷から与えられた保護の大きかったことがわかる。
それと同時に、鑑真が後代の日本の支配者たちや他の諸宗派から、憎まれていなかったことを示すものである。
もし憎まれていたならば、破壊されてしまっていたにちがいない。
諸外国の例を見るがよい。
また憎まれるほどでなくても、無視されて忘れられるという例だってありうる。
インドの仏教高僧たちの墓は、まず全部不明になっているといってよい。
モッガラーナ(目連)などのストゥーパがやっと判明したが、それは近年の発掘の結果なのであり、かれの存在はとっくの昔にインド人に忘れられていたのである。
あの有名な玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の墓さえも忘れられ、日中戦争のころ、ようやく発掘によってわかったにすぎない。
  ところが日本人は、異国からの僧鑑真を忘れなかった。
仏教が忘却されがちであった徳川時代にも芭蕉はこの寺をたずねて

  若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく) (ぬぐ)はばや

という句を詠んでいる。
(芭蕉は『笈(おい)の小文』の旅で伊勢・吉野・高野山などをへめぐって、奈良、西ノ京に回ったが、法隆寺には行かず、大阪・須磨・明石へと旅したようである)
 鑑真は日本に来て、日本人と一体になった人である。
かれの墓の近くの、唐招提寺東門のあたりの秋景色の風景を、「もっとも日本的だ」と評した人びとがいた。
もっとも日本的なもののなかに、かれは溶けこんでいるのである。
 唐招提寺の寺域の西の方に塀に囲まれた数十メートル四方の区域があり、そこに鑑真のとき建設した戒壇(かいだん)の基壇がみごとに残っている。
十メートル四方もあるであろうか、なかなか高くあり、威圧的でもあった。
わたくしは下野の薬師寺の戒壇のあと、大宰府の観音寺の戒壇のあともみたことがあるが、なんといっても唐招提寺のものが完全なかたちで残っていて、威風堂々という印象を与える。
 鑑真の伝えた戒律(かいりつ)を、日本人はやがて時代の経過とともに捨ててしまった。
それは日本の現実の生活に適合しないからである。
しかし鑑真に対する尊敬と親しみは決して失っていないのである。
(『日本の名著2 聖徳太子』中村元責任編集 中公バックス 昭和58年)
 招提寺(しょうだいじ)鑑真和上尚来朝の時、船中七十余度の難をしのぎたまひ、
  御目のうち塩風吹入て、終(つい)に御目盲(めしい)させ給ふ尊像を拝して

 若葉して御(おん)めの雫(しづく)ぬぐはゞや  (笈の小文)

 4月9日ごろ、奈良の西郊、律宗の本山唐招提寺での作。
裏手の開山堂には、鑑真和上の脱活乾漆の結跏趺坐(けっかふざ)した盲目の肖像が安置してあり、それは天平肖像の傑作である。
 四辺には折しも樹々の若葉が照り映え、そのやわらかな若葉を以て、盲眼の涙を拭って上げたい、という意。
鑑真が来朝の船中でたびたび難儀にあい、目のうちに塩風が吹き入って、ついに盲(めし)いたという、その悲しみを受取って、「御目の雫」という一つの虚像を描き出したのである。
 「若葉して」は「若葉を以て」の意で、「若葉のころになって」の意ではない。
『笈日記』には「青葉して」とあるが、「若葉」の若々しさや柔かさつやつやした感触を表しているのに及ばない。
(『芭蕉全発句』山本健吉 講談社学術文庫 2012年)
 田中均さんのTwitterに

五輪開催契約の71条は、契約時に予見できなかった不当な困難がある時には合理的な変更を要求することが出来るが、決定はIOCの裁量とある。
昨年3月、国際社会の健康を守るため一年延期された。
さらに状況が悪い時、再延期の要請は当然で、IOCが合理的と判断しない場合は理由を説明しなければならない。
戦火に消された「東京オリンピック」 川本信正
 カイロ総会の嘉納代表

 川本 昭和13年2月、カイロでIOCの総会が開かれました。
ナイル河に船を浮かべてやるという趣向で、そこで東京で開催するかどうか最終的に決定するということになったのです。
 その前、昭和12年の秋、IOC委員になった永井事務総長が、イギリスでIOC理事会で、日本の事情を釈明して、向うの世論を日本に有利に誘導しようということになったんです。
 それに私が指名されていっしょについていくということになりました。
読売の正力社長も行ってこいというので、そのつもりでいたところ、皮肉なことに、行くと決まった日に、大蔵省が為替管理を発表し、外貨の持ち出しが出来なくなり、私どもも向こうに行けなくなった。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)
  ―― それで、釈明も弁明も、機会がなくなったわけですか。

 川本 そうです。それで翌年2月のカイロのIOCの総会になるわけです。
 首席代表で嘉納さんが行ったんです。
嘉納さんは、明治42年(1909)からの委員で、各国委員の間で非常に人望があったんです。
あの人は、どれだけ柔道が強かったのか、ほんとうのところはよくわからないんですが、嘉納さんの演じた柔道の型は、絶品でした。
能を見るようなりっぱなものでした。
それを時々外人に見せるんで、うけるんですね。
 IOCの委員とやってうまく技をかけてみせたりしたものだから嘉納さんは人気があったんです。
風ぼうも、おきなの面のような、東洋的で柔和な感じの風格がある人でした。
 ―― その嘉納さんが、カイロで、各国のIOC委員を説得したわけですか。

 川本 はい、それじゃ、ここは一つ嘉納の顔を立てようということもあったと思います。
元来、IOCというのは非常に個人的なつき合いを優先させる、つまりクラブ意識の強いところなんです。
それで、とにかく、満場一致で、東京開催が最終的に決定したわけです。
 それで嘉納さんの非常に安心して、アメリカ経由で帰ってくるんです。
氷川丸で太平洋を渡って帰ってくるんですが、横浜につく二日前に肺炎を起こしたんです。
そして明日横浜という5月5日に未明に、金華山沖で嘉納さんは亡くなりました。
 この船には、今NHKで解説している平沢和重さんも乗り合わせていましてね。
横浜についたのが5月の6日でしたが、私も取材に横浜港にまいりました。
波が荒くて大分待たされたんですが、平沢さんが嘉納さんの棺に付き添って降りてきました。
平沢さんは、当時アメリカ大使館の書記官でしたが、あの人は不思議な因縁で、もう一回、船から棺をかついで降りたことがあるんです。
それは駐米大使だった斉藤博さんで、アメリカで亡くなったんですね。
 それはともかく、それからわずか二か月で東京オリンピックは消えてしまうわけです。
 ―― 事態は急激に悪化したわけですね。

 川本 そうなんです。
そのころは、もう東京でオリンピックが開けるような状況ではなかったですね。
軍部が圧力を加えるだけでなく、鉄とセメントが統制されたから駒沢に新しい競技施設を作るなんてとてもできない。
そこで駒沢をあきらめて、再び神宮競技場にもどって、原形をこわさず、芝生スタンドに木造の座席を作るということに落ち着いたんです。
(『昭和史探訪3太平洋戦争前期』三國一朗・井田林太郎編 角川文庫 昭和60年)

つづく…
今朝の父の一枚です(^_^)v
所狭しとカメが日向ぼっこをしています。

 カメは日向ぼっこが大好き

(前略)
 甲羅干しともいわれるこの日向ぼっこ、実はカメにとって、とても大切なことなのです。
その理由は三つ挙げられます。
① カメは爬虫類で外温性の動物なので、哺乳類や鳥類とは違い、自ら体温を作り出すことはできません。
日光を浴びることで体温を上げたり、逆に水や泥に潜ることで体温が上がり過ぎるのを防いだりしています。
行動によって、体温を調整しています。
② 日光に含まれる紫外線を浴びることで、ビタミンDのもとになる物質を合成し、
カルシウムを吸収しやすい状態にして甲羅を硬く維持しています。
③ 甲羅や皮膚についたヒルなどの寄生虫や藻の繁殖を抑える効果があると考えられています。
 ちなみに、甲羅は乾くと白っぽく見えます。
(後略)
(『かめの ひなたぼっこ』越智典子文、金尾恵子絵 ちいさなかがくのとも 2011年)