2021年3月28日日曜日

雨の日曜日

雨の朝。
挨拶する方に「雨でもくるのですか?」と聞かれたので
風が強くなければ来ますと答えました。
心筋梗塞を発症したあと気圧の変化に体調が悪くなって寝込むことが多かったのですが
ほぼ毎日、リハビリ散歩を続けることで、
体調が悪ければ悪いなりに歩けるようになりました(今朝も腹痛などがあります)。
この季節、雨に濡れた新緑の匂いなどが好きですし、花粉も飛ばない。
そのうえ日曜日でも雨の日は来園者が少ない(^_-)-☆
シャガの花が咲いていました。
発病前、二上山などを歩いていると出会えた花です。

シャガ(射干)
アヤメ科・アヤメ属
アヤメ属はほとんどが日当たりのよい場所で生育するが、本種は薄暗い林内などの日陰に耐えてよく咲く。
交互の分枝して斜上する花茎に、紫と黄橙色の斑点を散りばめた白紫色の花を咲かせる。
花は朝開いて夕方にはしぼむ一日花だが、毎日違った花が次々と咲く。
花が咲いても果実はできず、根茎を旺盛に伸ばしてふえ、群落をつくる。

「射干」は漢名でヒオウギを指す。
古い時代に中国から渡来したものではないかといわれている。
(『道草の解剖図鑑』金田初代 エクスナレッジ 2021年)
くらしの季語「花見」

 例年の私の花見は、徒歩3分ほどのところにある児童公園の染井吉野(そめいよしの)と、電車の窓から見える城山の山桜です。
絶えて久しく花の名所というところに出向いたことがないのです。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
  それでも冬芽のころから蕾(つぼみ)を持ち、三分咲き五分咲きと満開までを楽しみ、今が見ごろという朝に見るしっとりとした花、昼間の白っぽい花びら、ベンチから見上げる夜花には

  さまざまな事思ひ出す桜かな  芭蕉(ばしょう)

に通う風情があり、さながら名所の名木に見(まみ)えているような気分になるのです。
 阪神淡路大震災の1995年1月17日、寒い朝でした。
二度と復興の日は来ないのではないかとしばらく絶望的な日々がつづきましたが、あの年の花の時季が到来して被災を免れた桜が咲いたとき、多くの人が肩を抱き合って泣きました。
 東日本の野山にも今年の桜が咲いているだろうと思いつつ、児童公園の桜を見ています。
(『NHK俳句 暦と暮す 語り継ぎたい季語と知恵』宇多喜代子 NHK出版 2020年)
自然災害でなく軍の残虐な行為で人々の命が奪われている。

ミヤンマーオタクさんのTwitterに

目を疑うし、思わず声が出てしまった。
ミャンマーのダウェー。
奥から軍人を乗せたトラックが止まった瞬間、バイクに乗っていた人を至近距離で銃撃。
2台目の車はナンバープレート隠している。

これが国の軍?通り魔だよ。
肯定なんか出来ない。
どうかミャンマーの現状をたくさんの人に知ってほしい。


ミャンマー 最多の犠牲か 1日で“114人死亡” 抗議デモへ発砲」(NHK)
なかのとおるさんのTwitterに

『本を読まへん大人が増えた。そやから「コドモ」みたいな国になってしもたんやわ』
いい記事でした。

(一語一会)俳優・國村隼さん 作家・田辺聖子さんからの言葉」(朝日新聞デジタル 3月25日)
 
Eテレ100分de名著
 第4回 池田晶子「14歳からの哲学」 ~「自己」とのつながり」~
で紹介されていた 池田晶子さんは、研究者でなく哲学者だと思っています。
日本に研究者はたくさんおられますが、哲学者は少ないのではないかと思っています。
取り上げられていた『14歳からの哲学―考えるための教科書―』の中に「20 メディアと書物」という節があります。
転記しながら池田さんの言葉が刺さってきました。
Ⅱ 14歳からの哲学[B]
 20 メディアと書物


 新聞を毎日読みますか、テレビでニュースを見ていますか。
 社会的な出来事に関心があるかないかが分かれ目だ。
まあ、新聞やニュースは見ないけれどもファッション誌やマンガ雑誌なら欠かさず買って読むってところが、大方だろうな。
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)
 いずれにせよ、これらはすべて、人々に何がしかの情報を提供するメディアだ。
「メディア」とは、「媒体・手段」の意味で、情報の媒体、情報提供の手段ということだ。
だから、新聞から雑誌、テレビ、インターネットまでの全部がメディア、だとすると、現代生活のすべてがメディアによって成り立っているということになる。
このことについて、君はどう考える?
 たぶん、もうそんなことは当たり前のことになっているのだろう。
テレビを見るのもマンガを読むのも、ものごころついて以来やっていることだものね。
加えて、この頃はケータイやパソコンでメールのやり取りだ。
当たり前になっているメディアの存在と意味について、一度考えておく必要があるんじゃないだろうか。
今考えておかないと、ひょっとしたら一生考える機会はないかもしれない。
だとしたら、君は、取り返しのつかないお馬鹿さんになっちゃうかもしれないよ。
 よくも悪くも現代は情報の時代だ。
君は当たり前に思っているだろうけれども、地球の裏側で戦争をやっている映像を生放送で見るなんてことは、とんでもないことなんだ。
百年前を思ってごらん。
電話もテレビもなかった時代には、国内どころから隣り村で起こっていることすら、そうすぐには知られなかったんだから。
たった百年でこの変化だ。
この変化のことを「進歩」だと、君は思うだろうか。
 もしも進歩だと思うのなら、地球の裏側の戦争のことを知ることが、君にとって意味のあることでなければならないね。
地球の裏側の戦争は、君にどんな関係があるかしら。
 身内や知り合いがそこにいるとでもいうのでなければ、まあまず関係ないよね。
関係ないのになぜ君はその映像を見るかしら。
人が死んだりビルが倒れたりしている映像を見ることは、君にとってどんな意味があるかしら。
 衝撃的、刺激的、つまり見たいから見ているということだね。
これは、テレビがなかった時代に、人がよその火事を見に走る心理と同じ、つまり野次馬根性だ。
でも、他人の不幸を刺激するのはあまりいい趣味じゃない。
その証拠に、次に始まる下品なお笑い番組なんかを見て、平気で人は笑ってるだろう。
戦争からお笑いまで、全部が一律に電波で流されるから、人は、大事なことと大事でないことの区別がつかなくなっちゃうんだ。
 私は戦争のことは大事だとわかります、地球上のいかなる戦争も私とは無縁ではないから、戦争の悲惨を知るために、それを知る必要があるのです。
真面目な君なら言うかもしれない。
頼もしいね。
でも、だとしたら、なぜ戦争というものが起こるのかということを、自分で考えなければならないということもわかるよね。
目に見える映像を追うのではなくて、目に見えない観念の動きを捉えることだ。
外界を疑って、内界を見据(みす)えることだ。
でも、今や世のほとんどの人は、外界から与えられる大量の映像情報をただ受け取るばかりで、見えない内界を自力で考えるなんてことは忘れ果てているんだ。
(『14歳からの哲学―考えるための教科書―』池田晶子 トランスビュー 2003年)

つづく