2021年3月18日木曜日

ひんやりした朝

今朝も冷たい風が吹いていました。

18日朝はひんやり 日中は春本番の暖かさ」(えりの気象日記 3月17日)
シジュウカラが朝ごはんでなく、何かいっぱいくわえていました。
樹洞に新居を作っているようです。

3月頃になると、オスはあちこちの木の穴をのぞいてまわりだす。
そして巣を作るのに良さそうな穴をメスに紹介して、自信があれば、自ら中に入って入口から横顔をちらちらさせてみせる。
頬の白さでメスの気を引く作戦らしい。
メスが卵を抱いている時期まではオスからメスへの求愛給餌もよくみられ、仲が良い。

(『鳥のおもしろ私生活(旧版)』ピッキオ編著 主婦と生活社 1997年)
 なかのとおるさんのTwitterに

どんなコメントを出されるか興味津々だったけれど、素晴らしすぎる。
ええ感じやなぁ。

「聞いていた演出と違う、驚き」渡辺直美さんがコメント〟(朝日新聞)
…略…
「私自身はこの体型で幸せです。なので今まで通り、太っている事だけにこだわらず『渡辺直美』として表現していきたい所存でございます」
…略…
一人の人間の思いとして、
「それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております」
とコメントしている。

今月の100分de名著の第1回が
 寺田寅彦「天災と日本人」 ~「自然」とのつながり~でした。

科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』もおススメです。
解説を池内了さんが書かれています。
若い人(中学生以上)に向けて書かれていて寺田寅彦の魅力がよくわかります。
 解 説

 人との出会いとは不思議なものです。
その人と出会ったことで、一生の方向が決まることがあるのですから。
その人が、両親や兄や姉のような肉親である場合も、友人である場合も、先生である場合もあるでしょう。
隣のおじさんかもしれないし、本で出会っただけの人かもしれません。
その人から何らかの影響を受け、それが自分の生きる道を考えるきっかけになって、進みたい方向が見えてくる、そんな経験は人生にとってとても大切なもの、と思っています。
(『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2000年)
 実は、私にとって、寺田寅彦の随筆との出会いが科学者となる重要なきっかけとなった、と言えるかもしれません。
初めて寺田寅彦の随筆集を読んだのは高校生の頃です。
もともとは文学好きであった私でしたが、彼の随筆を読むうちに科学の面白さに目が開かれたのです。
花火をただきれいだと楽しむだけでなく、火の飛び方や燃え進む速さを観察し論理を組み合わせれば、直接目にしなくても、花火の芯(しん)で何が起こっているかがわかる、同じように星や遠くの銀河も観測して考えることで、見ることができない過去の誕生の姿や未来の運命がわかる、それは素晴らしいことではないか、と思ったのです。
見えないところのものが、科学の力によって見える(わかる)ようになることを教えてくれたのが寺田寅彦でした。
以来、宇宙の研究を続けながら、彼の随筆集を読み続けてきました。
 以下に、寺田寅彦の略歴と彼の随筆の後日談を紹介しておきましょう。
 寺田寅彦は、1878年(明治11年)に東京に生まれました。
父は、土佐藩士で明治政府の官員(かんいん)でしたが、寅彦が8歳のとき、退職し一家は高知に戻りました。
寅彦は18歳まで高知市で過したのですが、彼が子ども時代を過ごした旧家は、昔の姿のまま建て直され、現在は記念館として開放されています。
寅彦は高知市を自分の故郷と思っていたようで、肺尖(はいせん)カタルをわずらった23歳のとき、1年近く帰郷して療養しました。
 18歳で熊本の第五高等学校へ入学し、ここで彼の一生を決める二人の先生と出会いました。
一人は、数学と物理学を教えていた田丸卓郎(たまるたくろう)先生で、寅彦は物理学科へ進学することにしたのです。
もう一人は、英語を教えていた夏目金之助(なつめきんのすけ<後の夏目漱石>)先生で、漱石から俳句の手ほどきを受け、文学への興味を広げていきました。
寅彦が東京帝国大学の物理学科に入学してから、再び田丸先生や夏目漱石にめぐり会い、物理学と文学を学び直すことになったのです。
この二人の先生との交流の中で、寅彦にとっては、科学の仕事には文学者の直感力が背景にあり、文学の仕事には科学者の目が光っている、そんなふうに科学と文学は切っても切り離せないものになったのでしょう。
 大学院で実験物理学の研究を行なった寺田寅彦は、「尺八(しゃくはち)の物理学的研究」というユニークな博士論文を提出し、理学博士となりました。
日常生活のなかに見出すさまざまなことがらを科学の目で見直し、そこから新しい科学の原理や法則を導き出すという、寅彦らしい科学研究の出発点でした。
そのような寅彦の科学の方法や考え方は、本書にまとめた多くの随筆から読み取れると思います。
 寺田寅彦は、当時の世界第一線の研究テーマにも重要な業績を残しており、「ラウエ映画の実験方法およびその説明に関する研究」で学士院恩賜賞(おんししょう)を授けられました。
結晶にX線を当て、その写真像(彼は「映画」と呼んでいる)から結晶の構造を決定するもので、ラウエはこれによってノーベル賞を授与されたのですが、寅彦もその一歩手前にいたのです。
  後に、地球物理学に興味を移し、地震・火山・海洋・気象などについての研究をもとに、自然災害の多い日本の防災のために、数々の提言を行なっています。
1935年(昭和10年)、持病であった胃の病気のため57歳で亡くなりました。
 寅彦は生涯の間に約300編もの随筆を書いています。
それらの随筆の中に、現在の科学の第一線のテーマが多く潜(ひそ)んでいることがわかってきました。
60年以上も前に重要な科学の概念を発表していたのです。
たとえば、「金平糖(こんぺいとう)」で、あめの表面から角(つの)が生えてくる現象を取りあげています。
どこから角が生えてくるかはわからないけれど、角の数はどれもほとんど同じになる、それはなぜ、という問題です。
これと似たことは、皿に入れた牛乳にしずくをポトンと落したときにできる、あの王冠のようなしぶきの形で見ることができます。
表面にある、目に見えないごく小さな凸凹(でこぼこ)――これを「ゆらぎ」といいます――が、ちょっとした刺激によって大きく成長する現象です。
この「ゆらぎ」が原因となって、多くの分子が集まって生命体の源(みなもと)になったり、ガスが集まって星が誕生する雲になったりする、と現在では考えられるようになり、研究の大きなテーマとなっているのです。
 また、「鳶(とんび)と油揚(あぶらあげ)」や「ほととぎすの鳴き声」では、鳥の行動や生態が物理学の考え方で解釈できる可能性を論じています。
この考え方は、脳が行なっているものの識別や生物全般が採用してきた生き残りの知恵をさぐる上で、有効であることがわかったきたのです。
最近、鳩(はと)がピカソとモネを見分けていることが実験で証明されました。
寅彦が生きていればそんな実験を率先して行ったのではないかと想像しています。
 他にも、大陸移動説をいち早く紹介したり、カオスという現象に注意をうながしたりと、まだ誰も注目していないアイデアの重要性を、時代に先駆けて指摘していました。
文学者的な直感が働いたのでしょう。
しかし、あまりに先を見過ぎていたためか、当時の専門家の理解は得られなかったのですが、自分の弟子には新しい分野へ進むよう励まし、新しい物理学の分野を切りひらく原動力となりました。
  最後に、寺田寅彦と夏目漱石の交友についてちょっと触れておきましょう。
寺田寅彦にとって、夏目漱石との出会いがいかに衝撃的であったかは、漱石を追悼(ついとう)した短歌、

   俳句とはかかるものぞと説(と)かれしより
     天地開けて我(わ)が眼(め)に新(あらた)

からわかると思います。
漱石は、生涯、寅彦の文学の「先生」であったのです。
一方、科学好きの漱石にとっては、寅彦は文学と科学を結ぶ貴重な「友人」でした。
やはり、寅彦の短歌に、

  或時(あるとき)は空間論に時間論に
     生まれぬ先の我(われ)を論じき

があります。
当時、アインシュタインが発表した相対性理論が二人の話題になり、漱石は寅彦に宇宙の始まりのことなどをあれこれ尋ねたのだろうと想像されます。
微笑(ほほえ)ましい光景ですね。
  有名な『吾輩は猫である』に登場する水島寒月(みずしまかんげつ)君は、寺田寅彦をモデルにしていることはよく知られています。
この小説で、寒月君の結婚話の経緯(けいい)が一つの主題になっていますが、それは寅彦の実生活ともよく一致しているのです。
おもしろことに、漱石は寅彦が作った俳句をうまく小説の中で使っています。
それは、

  寒月に腹鼓(はらつづみ)うつ狸(たぬき)かな

という俳句です。
そもそも、漱石がこの小説に登場する理学士の名前を水島寒月としたのは、この句が頭にあったと思われますが、それだけではありません。
小説の第三章で、理学士の寒月君が送った葉書(はがき)には、狸が腹鼓を打っている絵が描(か)かれているのです。
また、寒月君が深夜に山でバイオリンを弾く最終章では、やはり狸が腹鼓を打って寒月君を脅(おど)かす場面があります。
漱石は、きっとこの俳句を思い浮かべながら小説を書き進めたのでしょう。
(そう思って、この俳句をもう一度読んで下さい。)
 漱石が亡くなったあと、寅彦は自分が持っていた『吾輩は猫である』の本の巻頭に、

  乾鮭(ほしざけ)や苦沙弥(くしゃみ)は遂(つい)に冬の人

  山茶花(さざんか)や君在(あり)しし日さながらに

という二つの俳句を書き付けています。
漱石への思慕の気持ちが強く感じとれる俳句ですね。

 君たちにも、この本が良い出会いになればいいな、と思っています。
   2000年春    池内 了(いけうち さとる)
(『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』池内了編 岩波少年文庫 2000年)
今朝の父の一枚です(^_^)v

カワラヒワ スズメ目アトリ科
英名のオリエンタル・グリーンフィンチ、が大体の特徴を表している。
中国東部、カムチャッカ半島、朝鮮半島、日本などに分布。
フィンチ、つまりアトリ科らしいしっかりしたピンクの嘴(くちばし)、少し褐色の入ったグリーンはオリーブ、と呼ぶべきか。
雌は褐色味が勝つ。
大きさはスズメ程。
羽の黄斑(おうはん)が鮮やかに目立ち、美しい。
この鳥の、目の部分だけが黒ずんでいるのが何かとても深刻な悩みを抱えているような気がして、見るといつも気になる。
(『渡りの足跡』梨木香歩 新潮文庫 2013年)