2021年3月22日月曜日

早いな…

 
昨日の冷たい雨でサクラはどうなっているかなと…
今朝も冷たい風が吹いていたので花が散り始めていました。

早いといえば
 盛田隆二さんのTwitterに

麻生氏「マスクはいつまでやるの?真面目に聞いてるんだよ、俺が。あんたら新聞記者だから、それくらい知ってんだろ」

記者は「全成人の半数が1回目の接種を受けたワクチン先進国の英国が『マスク着用、あと数年必要』と言ってます。日本政府の見解は?」と訊いてほしいです

マスク着用、あと数年必要 英のワクチン接種責任者」(共同通信社)

政府はコロナ対策について何の対策案をもっていないことを暴露しているのだと思う。
麻生氏の“民度”は、このレベルなんだ
そんな無能な政府だからこんなに早く緊急事態宣言を解除したんだろうなぁ…
第3波の患者、22都道府県で想定上回る 甘い見積もり」(朝日新聞)
 中満泉さんのTwitterに

#武田真一 さんには2017年 #核兵器禁止条約 採択後にNYでインタビューいただき、誠実なお人柄に触れました。
このメッセージも素晴らしいです。
自分に何ができるのかを考える、共感することに努める、怯まずに伝える。
本当に大切だと思います。
一層のご活躍をお祈りしています。


20日の記事で紹介したように

NHK「クローズアップ現代+」公式の動画に
武田真一さんのメッセージがアップされています。
この動画は、武田真一さんのお別れのメッセージです。

 クローズアップ現代+「“リコール不正署名問題”の深層
(お別れの挨拶の前に、放送内容に関連して)
民主主義は常に変わらずそこにあるものではなく、悪意によって容易にゆがめられるおそれがあるということ。
それを機能させていくためには、一人一人の努力が必要であることを改めて心に留めておかなくてはならないと思います。
そして私たちメディアが、そのプロセスをしっかり監視していく、責任の重さを強く感じます。

 安田菜津紀さんのTwitterに

名古屋の入管施設で亡くなったスリランカ人女性のニュース、現地メディアでは実名で報じられています。
歩けないほど衰弱し、嘔吐してしまうため面会中もバケツを持っていたと支援団体が指摘。
スリランカ大使館は彼女の死について、日本の入管側の責任だとコメント。


Wishma's unfortunate death in Japan: Who is responsible?
(CEYLON TODAY 3月16日 日本語に翻訳されます)

どのような背景があっても、不当に人権が踏みにじられていい人などいません。
そして、国が管理する施設で死亡事件が起きるのは重大なことです。
「在留資格のない人間は、亡くなっても致し方ない」かのような声が社会に根強く残る限り、同じことが繰り返されてしまうでしょう。

今日は新美南吉の命日です。
1943年(昭和18)3月22日

 春 風
  ――母死にまして二十年
    兄も亦幼にして逝けり

お母さん あなたの俤(オモカゲ)
春 乳母車にのつてやつて来る
わたしが戸口に凭れて
埃を追つてゆく春風を見てると
あなたは乳母車に乗つて
私の兄さんに押させて来る
お母さん あなたは
やさしい佛様達の国から
 来たのに
大きな明るい蓮の花の傍から
 来たのに
何といふ貧しさでせう
あなたは窶(ヤツ)れてゐる
(『校定 新美南吉全集 第八巻』大日本図書 1981年)
あなたの着物は手織の木綿です
そしてこの乳母車は強い匂ひのする
 藤車で
きゆろきゆろと小鳥のやうに
 鳴くのです
お母さん あなたは何処へいくのですか
 と私が訊くとあなたはかう答へる
――私はまたお医者へいくんだよと
お母さん あなたはさういつてまた
まだ羽織の肩揚げのとれない兄さんに
押されて行く
幼い兄さん 桃の木の下を通るときには
一枝をお母さんが折りとれるやうに
その乳母車をとめて下さい
桃の蕾(ツボミ)はまだ小さくつても
お母さん あなたの俤は
かうして春の真昼ころ
私が戸口に凭れて通りを見てると
乳母車がやつて来てやがて行つてしまふ
――春風と来て春風といつてしまふ
(【解 題】より)
 1937年5月25日の日記に次の記述がある。
 
 或日見てゐると二人の子供がお母さんを乳母車にのせて通つていつた。
若いお母さんは足かどこかを患つてゐたのであらう。
それは春の初めの頃で桃の花が路傍にきれいな花を見せてゐた。
「ちよつと止めて」とお母さんは桃の木の下で言つたかも知れない。
「一枝折つてゆくから。」
(『校定 新美南吉全集 第八巻』大日本図書 1981年)
林達夫著作集に「支那留学生」という論文が載っています。
解題」には「この論文は発表されたのは戦後だが、執筆されたのは1940年某月であることが記されている」

 支那留学生

 支那に対する戦争のはじまる直前、私のつとめていた東京のある私立大学には、何百人という支那の留学生が詰めかけていた。
新学期に教室に出てみて、私の講義を聴く学生の殆ど九割までが、この隣邦の若い人たちによって占められているのを見ると、私は他の教授たちと共に、いったい四、五人の――というのは当時の文学部に席を置いていた日本人学生の数は殊に少なかったので――同胞学生を中心にして話をすべきか、あるいはこの遠来の客を勘定に入れて講義プランの建て直しを講ずべきか、に甚だ迷わざるを得なかった。
私は当時わが国学生の大部分に見られる無気力、無反応の態度に失望していたので、この潑刺(はつらつ)として何かの希望に燃えている支那の若い世代のためになることなら、何かやってみたいと思ったのである。
中には明らかに立身出世主義だけで動いていた arriviste たちもいなくはなかったが、それにしても新支那建設のために何か積極的に役割を果たそうとしている意欲の動きを見ると、魯迅の『藤野先生』ではないが、ある使命のようなものがわが身にも感じないわけには行かなかったのである。
(『林達夫著作集5 政治のフォークロア』平凡社 1971年)
 だから、まさかこんな講義には支那学生は来まいと独りぎめにきめていた、私の「宗教学」の講義の、最初の時間に、こうした留学生が男女取り雑ぜ二、三十人どやどやと顔を揃えて机の前に坐っているのを見ると、私はちょっと虚をつかれた形で面食わざるを得なかった。
私はとっさに一たん開いた講義ノートを伏せて、暫く黙思した後、次のように improviser しはじめたのである。――
 支那の留学生諸君――
 あなた方のお国の小説家で、私の尊敬措く能わざる人が一人おります。
それは魯迅(ルーシン)であります。
その魯迅の小さな作品に、『風波』――と黒板に書いて――というのがあることを、みなさん御承知であろう。
  あの作品に書かれている事件には、そこには描かれていないひとつの支那的現実がその土台になっていることをお気附であろうか。
それは、支那では、少なくとも過去において、都会と村落とがそれぞれ別世界のように殆ど交流という交流なしに別々にその存在を続けていたという事実であります。
都会で起こっていることが正確なニュースとして田舎に伝わるのではなしに、流言蜚語のような、歪曲された噂として、しかもそれがひどく時期遅れた断片的に這入って来る――町に出掛けた村の者が、市(いち)とか、どこか大きな屋敷の裏口とかで小耳にはさんだ噂として、国の運命を左右するような、いわば国家的大事件を妙な形で田舎に伝える――『風波』もまさにそれであります。
辮髪(べんぱつ)を切るの切らないのと……そんなことがあの辛亥革命の勃発について田舎の人々が知った唯一の事柄だったのです……。
 こうして国家的なものと、村落的なものとが、都会と田舎とに別箇の存在を続けているということは、支那の宗教にも歴然たるものがあります。
支那には、全然性質を異にする国家的宗教と村落的宗教といったものがある。
フランスの社会学者マルセル・グラネ――この人は有名な『人類進化叢書』に『支那文化』及び『支那思想』を書いた、すぐれた支那学者でありますが――そのグラネはこのテーマを取り上げて、『支那人の宗教』という書物を著わしている。
ここにみなさんの前にその大要を紹介しながら、併せて私が私の宗教学の講義の中心題目としている、宗教の本質規定に関する、フランス社会学、いわゆるデュルケーム学派の方法、次いでプレハーノフを始めとする一連の史的唯物論者の主張を批判的に取り上げて、この一学年間をみなさんと共に有効に勉強してみたいと思うであります……。
 プレハーノフで思い出したが、ある日、上海から芸術学専攻の支那留学生がひょっくりやって来た。
文学部長はT氏が不在なので私に代わりに会ってやって欲しいと言って来た。
英語のほかには共通に話せる言葉がないので、お互いに相当ブロークンな、この外国語で話し合った。
わが大学で大学院生として勉強しようというのである。
色々研究プランについて聴取したのち、どんな書物を既に読んだかを聞いてみた。
 テーヌ、プレハーノフ……それをテン、プレカーノフという風に彼は発音していた。
私は差し当たっての文献指示を少しばかりしてやったが、それを彼は一々ノートした揚句、最後に私の方を向いて
 ――先生のお名前を伺わせていただけないでしょうか(メイ・アイ・アスク・ヨア・ネーム・マイ・プロフェッサー)
 ――私の名前(マイ・ネーム)? そう(ウエル)……リン・ターフ。
 ――リン・ターフ?(目を円くして)
 ――支那流に発言すれば。多分。――林は林語堂(リンユータン)の林。達夫は郁達夫(ユーターフ)の達夫。どちらのお国の有名な作家(フエーマス・ライターズ・オブ・ヨア・カンツリー)
 ――オー・アイ・シー。先生にはどんな著述がおありでしょうか。
 ――私はしがない無名の書かない作家(プア・アノニマス・ライター・フウ・ドウ・ノット・ライト)。しかしひょっとすると、私は日本の林語堂かも知れない。呵々。
 ――おお。(笑って)
 ――では、失礼。
 ――お近づきになれて非常にうれしく存じます。近いうちにまた伺います。さようなら。
 蒼白な、美しい眼をした、人馴つこい青年であった。
その洗練された慇懃さは、彼の国のキリスト教大学で彼が欧米流の雰囲気の中で教育を受けたことを物語っていた。
 私が本腰を入れて支那の勉強に着手し、青年支那のために一臂の力を藉そうと色々の計画をめぐらしはじめたとき、突然、あの悲しむべき事件が惹き起こされたのである。
四十の机の並んでいた私の教室は、間もなく、片隅にちらほら同胞学生の三、四人を残して、あとはがらんとして一人の隣邦人の影さえ見えなくなってしまった。
ジャン何某とかいった、あのキリスト教青年も二度と姿を現わさず、従って彼と日本の林語堂との間に展開されるはずだった、興味ある対談もそれっきりになってしまった。
私の希望、支那よ、さらば !か。
私はこころの引っ込みがどうにもつかず、『サーカス』のラスト・シーンにおけるチャップリンの恰好よろしく、取り毀された小屋掛けの跡の空白の中に、孤影悄然(こえいしょうぜん)、暫くのあいだはぼんやりと地平線の彼方に目をやっているばかりであった……。
 運命は、ここでも、又しても私を翻弄したのである。
(『林達夫著作集5 政治のフォークロア』平凡社 1971年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
カンヒザクラは、散ってしまっていました。

昨日は、父と一緒に宿題に取り組んでいました。
89歳の父が、頭がボーッとなるほど頑張ったのに1200円ほど納付の必要があるという結果にボヤいていました。
私は、子どもの頃から夏休みの宿題など寸前になるまでほったらかして(逃げて)いて、
にっちもさっちもゆかなくなってから慌ててしていました。
今朝は、期限が迫っている仕事に追われて困っている夢で起こされました(^-^;