2021年3月7日日曜日

ヒンヤリとした風

今朝は、ヒンヤリした風が吹いていましたが
青空で、日ざしのおかげで歩くのにはちょうどいいくらいでした。
スモモの木を見るとポツンと咲いていました。
 安田菜津紀さんのTwitterに

東京入管の収容施設で、新型コロナウイルスに収容者58人感染、全収容者の4割以上。
以前から、体調不良を訴えても1,2週間もの間、医師の診察を受けられなかった、など深刻な状況が指摘され続けている。
中の状況を確かめたくても、家族が外から電話をかけることもできない。


初の入管クラスター 収容者58人感染、施設内の閉ざされた実態」(毎日新聞 3月6日)

安田菜津紀さんのTwitterに

今日、3月7日。
公文書改ざんを強いられ、命を絶った赤木俊夫さんの命日。
亡くなられてから3年。
真相解明を求め、赤木雅子さんは声をあげ続けている。


「苦しんだのは間違いなく、改ざんさせられたこと」 提訴と手記の公表から間もなく1年、赤木雅子さんインタビュー〟(安田菜津紀 2月16日)
そして安田菜津紀さんのTwitterと記事の引用が続きますが、

沖縄の、「ちむぐりさ」という言葉。
「肝苦りさ」と書く。
単純にかわいそう、たいへんね、という意味ではなく、
「あなたが悲しいと、私も悲しい」という共感の言葉なんだ、と教わった。
海が、戦争で犠牲になった方々の遺骨と共に、埋め立てられていくのか。
「ちむぐりさ」。


戦後76年たっても尽きない遺骨 沖縄の壕で子どもが2体 大人も6体 靴やボタンの遺留品も」(沖縄タイムス 3月5日)

「ちむぐりさ」あなたが悲しいと、私も悲しい -15歳で見つめた沖縄から学んだこと〟(安田菜津紀 2020年4月13日)

この遺骨の中には沖縄の住民だけでなく、日本兵の遺骨も当然あります。
政府は、「戦没者の遺骨収集事業の概要」(厚生労働省)にあるように、遺骨があると分っていながら使おうとしている。

辺野古移設1兆円、「謎」支出も 土砂単価、1.5倍超〟(朝日新聞)

辺野古、入札経ず増額続々 工費157億円増に 防衛省が契約変更」(朝日新聞)
中国 習主席 少数民族に対する中国語教育の強化を指示」(NHK)

中国全人代が開幕、香港の選挙制度を見直しへ 政治参加は「愛国者」が条件〟(BBC 3月5日)

まさに戦前、戦中の大政翼賛会そのものです。

臣道完遂の誓中央協力会議開く」(NHKアーカイブス 1941年)

ただ、天声人語「翼賛選挙と香港」(朝日新聞)を読むと
日本の翼賛選挙では推薦されなかった人たちも立候補はできた。選挙で妨害を受けながらも2割弱の議席を得た。暗い時代の日本にも、この程度のわずかな自由はあったのだが
 昨夜の新美の巨人たち
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ『山の上ホテル』×又吉直樹
スィートルームの値段は、どこかの接待費よりも安いのだけど…
スタンダードシングルは背伸びをしたら泊まれそう。

番組を見た人たちがいっぱいアクセスしたみたいでホームページのサーバーがダウンしたようです。
2021年3月6日ホームページサーバーダウンのお詫び

番組の中で紹介された創業者の吉田俊男の言葉、

私がここの従業員に期待するものとは、
仮に、このホテルが不況の波につぶされる様なことがあっても、
直ちに立派な社会人として独立して行ける、
良い人となりを持つ様になってくれることでございます。


BSテレビ東京を見ることができる方は、
再放送が3月13日土曜日 23時30分~あるようです。

坂口安吾は、山の上ホテルに宿泊した文人の中には入っていないようだけど(^_-)
(坂口安吾が亡くなったのは昭和30年<1955>2月17日、山の上ホテルの開業は昭和29年<1954>)

火宅の人』は、檀一雄と入江杏子との同棲生活の舞台が山の上ホテルのようです。
(「梟雄」続き)

   ★

 その四年後に、織田信秀は意外にも若く病死してしまった。
落ち目の家をついだのは、いま評判のバカヤローであった。
 信長は父の葬場にハカマもはかずに現れて、香をつかんで父の位牌に投げつけた。
バカはつのる一方だった。
 信長の代りに弟の勘十郎を立てようとする動きが露骨になった。
その動きは信長にとっては敵であっても、織田家を守ろうとする動きである。
背いてムホンするものは日ましに多くなった。
 平手はたまりかねてバカを諫(いさ)めるために切腹して死んだ。
信秀のあとは、もう信長では持ちきれないと思われた。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年)
 その時である。
道三が信長に正式の会見を申しこんだ。
道三は濃姫をくれッ放しで、二人はまだ会見したことがなかったのである。
「信長のバカぶりを見てやろう」
 道三は人々にそう云った。
  会見の場所は富田の正徳寺であった。
正式の会見だから、いずれも第一公式の供廻りをひきつれて出かける。
 道三は行儀作法を知らないという尾張のバカ小僧をからかってやるために、特に行儀がいかめしくガンクビの物々しい年寄ばかりで七百何十人も取りそろえ、これに折目高の肩衣袴(かたぎぬばかま)という古風な装束をさせて、正徳寺の廊下にズラリとならべ、信長の到着を迎えさせる計略であった。
 こういった凝った趣向をしておいて、自分は富田の町はずれの民家にかくれ、戸の隙間から信長の通過を待っていた。
いかに信長がバカヤローでも人に会う時は加減もしようから、誰に気兼ねもなち時のバカヤローぶりを見物しようというコンタンであった。
 信長は鉄砲弓五百人、三間半の長い槍が五百人、自分の家来殆(ほとん)ど全部ひきつれて、木曾川を渡ってやってきた。
兵隊の数は多くはないが、装備は立派なものである。
 ところがその行列のマンナカへんに馬に乗ってる殿様がすごい。
頭は茶センマゲと云って、髪を一束にヒモで結(ゆわ)えただけの小僧ッ子の頭である。
その日のヒモはモエギであった。
このバカ小僧はマゲを結ぶヒモの色に趣味があって、モエギかマッカの色のヒモしか使わないというのはすでに評判になっている。
 明衣(ゆかたびら)の袖を外して着ている。
大小に荒ナワをまいて腰にさし、また火ウチ袋を七ツ八ツ腰にぶらさげている。
腰に小ブクロをたくさんつけているのは当時猿マワシの装束がそうだった。
信長の様子はその猿マワシにそっくりだった。
 ところがこの火ウチ袋は信長の魂こめた兵法の必然的な結果であった。
それに彼に従う鉄砲組の腰を見れば分るのだ。
みんな七ツ八ツの火ウチ袋をぶらさげているのだ。
袋の中には多くのタマと火薬などが入っていた。
 知らない人々が解釈に苦しむのは無理もない。
彼らにとっては、鉄砲とはただ一発しか射てないものだと相場がきまっていたからである。
多くのタマや火薬を腰にぶらさげる必要なぞ考えることもできなかったのである。
そして猿マワシに似たカッコウを笑うことしか知らなかった。
 しかし、道三に袋の意味が分らぬ筈はなかった。
 信長はまるで風にもたれるように馬上フラリフラリと通って行く。
虎の皮と豹の皮を四半分ずつ縫い合せた大そうな半袴をはいていた。
どこからどこまで悪趣味だった。
 道三は笑いがとまらない。
必死に声を殺すために腹が痛くなるのであった。
 ところが、信長は正徳寺につくと、一室にとじこもり、ビョウブをひき廻して、ひそかに化粧をはじめた。
カミを折マゲにゆう。
肩衣に長袴。
細身の美しい飾り太刀。
みんな用意してきたのだ。
 ビョウブを払って現れる。
家来たちもはじめて見る信長の大人の姿であった。
水もしたたるキンダチ姿であった。
 信長は本堂へのぼる。
ズラリと物々しいガンクビが居並んでいる。
知らんフリして通りすぎ、縁の柱にもたれていた。
 やがて道三がビョウブの蔭から現れて信長の前へ来た。
信長はまだ知らんフリしていた。
道三の家老堀田道空が――彼はこの会見の申し入れの使者に立って信長とはすでに見知りごしであるから、
「山城どのです」
 と信長に云った。すると信長は、
「デアルカ」
 と云って柱からはなれ、シキイの内へはいって、それからテイネイに挨拶した。
 ただちに別室で舅(しゅうと)と聟(むこ)の差向い。
堀田道空の給仕で、盃ごとをすませ、湯漬けをたべる。
二人は一言も喋らなかった。
 道三は急に不キゲンになった。
毒を食ったような顔になって、
「また会おう」
 スッと立って部屋をでてしまった。
(『坂口安吾歴史小説コレクション第1巻 狂人遺書』七北数人編 春陽堂書店 2018年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
河津桜にメジロが来ていました。
私も見に行ったのですが、タイミングが合わず、出会えませんでした。
待っていれば出会えたと思いますが、リハビリ目的で歩いているので運次第です(^^;