2021年3月27日土曜日

天気もよくて

今朝は青空が広がっていてサクラも満開。
人も満開とは言わないけど、来園者は、多かったです。
父は、土日など休日は人出が多いので散歩を止めています。

27日は晴れ  28日は雨」(えりの気象日記 3月26日)
せっかく咲いた桜の花を散らしていた、意外な犯人は?」(ウエザーニュース)

犯人にされたのは(^_-)-☆
この記事を読んで思い出したのが

平川克美さんのつぶやき

母校(大森第七中学校)の校庭の桜が、今年で見納めとのこと。
近隣住民からの落ち葉に対する苦情が関係しているようである。
落ち葉掃きのボランティアが残念がっている。
こうやって、合理性だけの殺風景が出来上がっていくのだな。

「聖火は消されるべきだ」 米NBCがオピニオン記事―東京五輪〟(時事ドットコム 3月26日)

ジュールズ・ボイコフ氏の寄稿文の全文を読むことはできていないけど
NBCがこの寄稿文を掲載した意味は大きいと思う。

MIKIKO先生のTwitterに

一連の報道に関しまして MIKIKOより
mikiko_comment_20210326.pdf


このコメントを出すのに相当勇気がいったと思います。
国立公文書館のTwitterに

今日(3/27)はさくらの日。
東京では桜が見ごろを迎えています。
画像は、江戸時代後期の幕臣、屋代弘賢
(やしろひろかた)が編纂した百科全書『古今要覧稿』より「楊貴妃」というサトザクラの一品種。
当館では同資料の
桜の図をモチーフとした絵はがきも販売しています。
桜の花で思い出す方がいます(2019年12月23日に訪ねた記事)。
本によって違いがあるのですが…
そんな逸話がたびたびあったのかな?

書、画、歌、焼きもの、…都に棲んで鄙(ひな)ぶり尼 
 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)

(前略)

(西賀茂神光院<じんこういん>)庫裏の前には蓮月尼の歌碑がある。

  宿かさぬ人のつらさを情にて
  おぼろ月夜の花の下臥

張りのある独特の文字は彼女の自筆だという。
この歌については有名な話がある。
(『歩く旅シリーズ 時代別・京都を歩く 歴史を彩った24人の群像』蔵田敏明 山と渓谷社 1999年)
ある人が蓮月尼の庵を訪ねたところ、主の姿はない。
土鍋には炊きかけの粥がこげついている。
鍋を下ろして帰りを待つが、一向に帰ってくる気配がないので程経て再訪したところ、尼はほほえんでいきさつを語った。
粥の菜にしようとおかべ(豆腐のこと、白壁から)を買いに出たとき、ふっと吉野の桜を思ってそのまま赴いた。
ところが旅費も持たず、日暮れてしまい一夜の恵みを請うたが許されなかったので、仕方なく花の下を草枕にして思うまま花を見た、というのである。
このように蓮月尼は風流を解した人であった。
(後略)
(『歩く旅シリーズ 時代別・京都を歩く 歴史を彩った24人の群像』蔵田敏明 山と渓谷社 1999年)
第一部 旅日記と作者 第二章 自由な旅

 太田垣蓮月 「あらし山はな見の記」


 幕末期、高畠式部(たかばたけしきぶ)と並び二大女流歌人と称えられる蓮月は、京のあちこちに住居を変えて移り住み、信仰と歌と陶芸の気ままな老後を過ごした。
その出自ははっきりしないが、生後まもなく京の大田垣家の養女となり、婿養子を迎えたが三〇代で死別し、養父の没後は天涯孤独となった。
(『近世の女旅日記事典』柴桂子 東京堂出版 2005年)
住居を転々と変え、そのつど、宿替と家の修理をした大工の妻の話では、宿替の数は三四度までは記憶しているという。
「大仏のほとりに」、「大原に」、「川べに」、「岡崎に」、「山かげに」、「西加茂に住みけるころ」と、詞書のある歌からも蓮月の宿替は伝説ではなかったことがうかがえる。
宿替の理由として、一つには蓮月の評判を聞いて歌などを所望する俗客の来襲を防ぐことと、もう一つは志士たちとも交流のあったことで幕府の役人の目を逃れることであったという。
  蓮月は、そこここで風流に過ごしたためか、あまり旅に出たようすはないが、気ままな旅の逸話が残る。
 親しい友人が蓮月を訪ねたところ、火鉢に鍋をかけたまま家を空け、待てども帰ってこないので焦げた粥(かゆ)を片付けて帰り、二、三日後再び訪問して先日の留守のことを糺(ただ)したところ、夕食の粥を煮、漬物を買いに出かけたら友人に出会い、山越えをして志賀に遊ぶことを勧められたので、そのまま出かけ、昨夕帰ってきたという。
 大坂や兵庫などで詠んだ歌などはあるが、きちんとした旅日記は残っていない。
村上素道の収集した「拾遺」の中に、小さな近郊の旅の跡が見出せる。
歌の友一井しず子らと嵐山に遊んで嵯峨野を逍遥し、ともに一夜を過ごして歌を詠み交わしている。
  しばしうちやすむほどに法りんじにやあらん かねのおとの聞ゆるにぞ やおらかしらもたげ まどおしあくれば雨ははれて軒の雫も光りみえゆくほどなりけり まだねたる人々おどろかし うちつれだちて川のわたりにいでてみれば ほのかなる霞の間より こぼれいでたる匂ひよ 露の光りさへそひて いひしらぬけしき そぞらさむきここちす

  しらみゆく花の匂ひにけおされて雲のいづこに有明の月
 風流の世界に生きた蓮月ではあるが、戊辰戦争の勃発には心を痛め、

  うつ人もうたるる人もこころせよおなじ御国の御民ならずや

  あだみかたかつもまくるも哀なりおなじ御国の人とおもへば

と戦いのおろかさを声高らかに詠った歌もある。
 明治8年(1875)、85歳の生涯を閉じた時、残された白木綿の風呂敷に蓮と月を詠み込んだ「願くばのちの蓮(はちす)の花の上にくもらぬ月をみるよしもがな」との自筆の辞世が書かれてあった。
人々は蓮月が今世も後世も心清く潔く、高く明らけくあらんと念願したことを知り、その白風呂敷に遺骸を包み葬ったという。
(『近世の女旅日記事典』柴桂子 東京堂出版 2005年)
 (『海人のかる藻 春の部」より)

  三月三日
このとのにけふさく花は幾春の百よろびの始なるらむ

  待 花
花をまつ人のこころや雲となりて山のはごとにたちまよふらん

東山花まつころの朝ぼらけかすみににほふ鐘のおとかな

如月のいまか桜のこのもとにいほりしをれば春雨ぞふる
(『②富岡鉄斎 大田垣蓮月』新学社近代浪漫派文庫 2007年)
  花
いちじろく匂へるものを桜花くもか雪かとなにまがふべき

真さかりの花のかげにてのむ酒はちるとないひそあえもこそすれ

  花のころあらし山にまかりて
みをかえへし心地こそすれうき世にはあらしの山の花の明ぼの
  花のころたびにありて
やどかさぬ人のつらさを情にておぼろ月よの下ぶし

  山 花
うかれこしはるのひかりの長等山花にかすめるかねの音かな

  名所花
さがの山峰にも尾にもさくら花松も匂ひに埋みけるかな
  社頭花
野の宮の春の手向の白ゆふは榊にまじるさくらなりけり

  暁 花
明ぬるかほのがすみつつ山のはの昨日のくもは花になりゆく

  落 花
うらやまし心のままに咲てとくすがすがしくも散さくらかな
(『②富岡鉄斎 大田垣蓮月』新学社近代浪漫派文庫 2007年)