2021年3月15日月曜日

暗い空で

天気予報では晴れだったけど、歩き始めは曇りで暗い空でした。
帰る頃にやっと青空になった。
 この頃地震が多いですね…
和歌山県で震度5弱」(関西NHK)

1月17日の記事で転記した『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』に、
この列島の大地が、現在活動期に入っていると言われる」と書かれていました。
 万城目学さんのTwitterに

76年前、昨夜から今日にかけて大阪大空襲があり、
万城目家も一回目の空襲で家が丸焼けになりましたが、そのニュースに触れるたびに、
祖母がよく口にしていた「御殿のように立派な雛人形が焼けた」と
「江坂から難波の高島屋が見えた」がそれぞれどんな絵だったのだろうと想像してしまいます。


以前、大阪歴史博物館をはじめて訪れたとき、
近代現代フロアの大大阪時代のモダンな住宅展示の前で
「そうそう、私の家こんなんやった」と老婦人が懐かしそうに話していて
「でも、全部、空襲で燃えてもうて」
「私、バケツ持って最初の火を消しにいってん。
でも手前でコケてもうて」「水、全部ばしゃあ」


「そのせいで一気に火が回って、家、燃えてもうた」
「親には最後まで言われへんかったわー」とのどかに話していて、
隣の人も「それは言われへんな」と真面目に相づち打っていて、
笑うところではないけれど、何ともおかしみが宿っていたのでした。

(「講義 文学の雑感」つづき)

 宣長は「大和魂」という言葉をどう使っていたか。
その使用法を見てみましょう。
宣長は契沖(けいちゅう)を大変尊敬していたが、契沖は『勢語臆断(せいごおくだん)』のなかで、業平(なりひら)の辞世の歌を非常にほめています。
辞世の歌というのは、有名な「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」という歌です。
人々は死なんとする時、悟りを開いたような偽りの歌を詠みたがるものだが、これは何と真実な正直な歌であろう、この人は一生のまこと、この歌にあらわれ、後の人は、一生の偽りをあらわして死ぬるなり、と感服している。
これを宣長はまことに同感であると言って、「やまとだましひなる人は、法師ながらかくこそ有けれ」と書いております。
大和魂を持った人とは、人間の事をよく知った、優しい正直な人を言うのです。
「やまとだましひなる人」とは「もののあはれ」を知った人とさえ言えるのでしょう。
(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
 『源氏物語』という大小説が女性の手になったという事には理由があるのです。
一と口に言うなら、男は学問にかまけて、大和心をなくしてしまっていたのです。
大和心をなくしてしまうように、日本人は学問せざるを得なかった、これは日本の一つの宿命なのです。
日本は大昔から、いつでも学問が外からやって来た。
自分に学問がなかったので、外から高級な学問が押し寄せて来て、これに応接しなければならなかった。
だから、日本人はいつも漢文で出来上がった学問と闘わねばならなかった非常に苦しい国民なのです。
『古事記』という日本最初の国文も、漢文との闘いによって書かれた。
この事をはじめてはっきり言ったのが宣長でした。
 ご承知のように、日本人には古くからもう一つ『日本書紀』という歴史がある。
今でこそ「記紀」と言って、先ず『古事記』があり、それから『日本書紀』があると、みな常識のように言っていますが、そういわれるようになったのは宣長からで、それまでは『古事記』というものは殆(ほとん)ど忘れられていて、『日本書紀』の方も誰もが大事にしてきた。
というのは、それが立派な漢文であったからです。
『古事記』も漢文には違いないが、ひどい漢文である。
なぜそんな拙劣な、或(あるい)は奇妙な文体で書かれたかというと、まだ漢文が輸入されぬ前の口承による古伝を何とかして漢字、漢文を利用して現わしたいと努力した、国語はあったが、文字と言えば漢字しかなく、仮名も万葉仮名という仮名が発明されたに過ぎず、後世の平仮名、片仮名もなかった頃だからです。
うまい漢文を書くということが、文章を書くことだったのでしょう。
日本人はそれを日本流に読んでいた。
それを訓読と言います。
今でも僕らは漢文を訓読しているでしょう。
あの漢文の訓読というような方法をとったのは日本人だけです。
お隣りの朝鮮にも、中国の文化は入って来たのです。
しかし、朝鮮の人は漢文を朝鮮語で読もうとしなかったのです。
みんな棒読みです。
だから、朝鮮の知識人の漢文はみな支那(シナ)の人と同じだったのです。
日本人は翻訳しながら読んだ。
その翻訳しながら読むことを、日本語で表わそうとしたのだけれども、発達した仮名がなかったから、漢字を正用するとともに、仮名として使って、非常に複雑な表現法をとらざるを得なかった。
これを読む苦心が宣長の『古事記伝』の苦心だったのです。
 現代は「歴史」ということがやかましく言われているが、歴史の意味はなかなか正確にはつかみ難い。
宣長という人は歴史にきわめて敏感だった人です。
彼の歴史観で一番大切なところは、歴史と言葉、ある国の歴史はその国の言語と離す事が出来ないという考えです。
ところが、今日は自然科学の発達による実証主義の考えが盛んで、歴史観も実証主義的になった。
自然に関しては実証主義の考えは有力ですが、言語学は実証主義ではどうにもならない。
そこで歴史の上で言語の問題が、ややもすると軽視されるとう事になったのです。
 宣長の学問の実証主義的性質は誰も言うところですが、なるほどこの人の学問は慎重着実であるが、研究の対象が歴史と言語にあるのですから、自然科学のように実証主義をどこまでも貫くというわけにはいかない。
『古事記伝』をよくお読みになればすぐわかる事ですが、直覚と想像力の力が大きな働きをなしている。
ご承知のように『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦(あんしょう)したものを、太安万侶(おおのやすまろ)が筆記したものです。
だから、あれはもともと話し言葉なのです。
口承なのです。
それを漢文で筆記したのです。
あの頃は太安万侶の書いた漢文体の文章を訓読すれば、稗田阿礼の口調というものが想像できたに違いないのです。
想像しやすいように、太安万侶も詳しい註を書いています。
しかし、それは恐らくすぐに分らなくなったのだろうと思います。
言葉というものは日に日に変って行くものですから。
何年も経(た)つうちに、誰にも『古事記』は読めなくなったでしょう。
『古事記』の訓点というものが現れるのはずっと後世になってからです。
もうその時には、当時はどういう風に読まれたいたかを想像する以外に方法はないのです。
宣長はそれを想像したわけです。
宣長の読み方は、宣長の発明であり、一つの創作なのです。
『古事記』の書かれた当時に、あの様に読まれていたものかどうか。
恐らく違うでしょう。
では正確にはどう読まれていたか、誰にもそれを正確には言うことはできないのです。
どんなに研究が進んでも、資料はもう出て来ませんから、多少の修正はあっても、宣長の読み方を変えることはできない。
これは宣長の直観力と想像力が、どれほど豊かで強かったかを証明しているのです。
一度こう読めと言われて、なるほどと思ったら、もう仕方がない。
(あ)えて言えば、それは紫式部が『源氏物語』をああいう風に書いてしまうと修正できないのと同じです。
契沖 江戸時代前期の国学者。真言宗の僧。寛永17~元禄14年(1640~1701)。

勢語臆断 契沖の著作。「勢語」は、平安時代前期の歌人在原業平(ありわらのなりひら)らしき人物を中心とする歌物語「伊勢物語」のこと。

(『学生との対話』講義 小林秀雄、編者 国民文化研究会・新潮社 新潮文庫 平成29年)
今朝の父の一枚です(^_^)v
σ(^-^;もマヒワを写したのですが、ピントや露出を合わせられなくてて載せられませんでした(^^ゞ