2019年5月9日木曜日

朝の楽しみは…

今朝は、曇り空でしたが
ナツミカン(?)の花の香がしている。
この時期の楽しみです(^^)v
バイカウツギの花の上にツユムシの幼虫かな?
昨日の保育園の子どもたちが犠牲になった事故は胸が痛くなります。
テレビをつけていると保育園の記者会見がありましたが、
見ているとなんで事故を起こした責任者のような扱い方をされるのだろうと
途中で見るのが嫌になりました。
現在、多くの自治体が保育所を民営に移管しています。
人件費の節約なんでしょうが何か間違っている。
保育園の園庭で遊んでいると子どもたちの声がうるさいと苦情があり
今回のように園庭をもたない所では散歩に出かけている。
公園などに行くときに保育士の方が
大勢の子どもを引率している姿をみかけます。
小さい子どもと手をつなぎ歩いているのですが
十数人の子どもに対して3人ほどの保育士で歩いている。
いつも大変だなと思っています。
昨日は、信号を渡った後、つないでいた手を替えて
子どもが歩道側になるように配慮していました。
散歩に出かけたことが事故の原因の一つになったような
質問をする記者は子育てのことや
保育士の苦労が分かっていないと思う。
子どもたちには遊びが大切な栄養源です。
「散歩中止の保育園も ネットでは保育園を応援する声が…」(NHK)

そのことは、平安時代末にも歌になっていました。
以前にも紹介したことがありますが、
後白河院が編纂した『梁塵秘抄』より転記したいと思いますφ(..)
遊びをせんとや生(う)まれけむ 
(たはぶ)れせんとや生(む)まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば
わが身さへこそ揺(ゆ)るがるれ  (四句神歌・雑・359)
(『梁塵秘抄』植木朝子編訳 ちくま学芸文庫 2014年)
現代語訳
遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか、
戯れをしようとして生まれてきたのだろうか、
一心に遊んでいる子どもの声を聞くと、
私の体まで自然に動きだしてくることだよ。

 子どもの遊びに引き込まれていく大人の感慨を歌った一首。
子どもたちの遊ぶ姿をほほえましく眺めているうちに、
自分も浮き浮きと楽しくなってくる経験は、
多くの大人が持っているものであろう。
 遊女を主体とみて、無邪気な子どもに対置される罪深いわが身を、
身を揺るがすような悔恨をもって見つめているとする説
(小西勘一『梁塵秘抄考』三省堂、1953年)、
そのような罪の意識を抱えながらも、今様唱歌へと引き込まれ、
生業に執着せざるを得ない遊女がわが身を認識する歌ととる説
(馬場光子『走る女』筑摩書房、1992年)、
罪業観から離れて、遊女が遊ぶ子どもの声を契機として、
自らも歌を歌うという行為、
つまりアソビへとそそのかされることを歌ったと見る説
(西郷信綱『梁塵秘抄』筑摩書房、1976年)などもあるが、
軽やかな繰り返しの律調からは、
少なくとも、罪深い生活を悔いるといった暗さは
受け取りにくいように思われる。
主体を遊女に限定すべき強い根拠は見出しにくく、
ある程度の年齢を重ねた大人一般の感慨と見ておきたい。
 『梁塵秘抄』が発見され、
刊行されて間もない大正初期の詩歌作品には、
『梁塵秘抄』今様の影響を受けた作が少なからず見出されるが、
当該今様を引いた例は特に多く、
好まれた一首であったことが窺われる。

  うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌(いは)の陰よりのびあがり見つ (斎藤茂吉)

  一心に遊ぶ子どもの声すなり赤きとまやの秋の夕ぐれ  (北原白秋)

  おもてにて遊ぶ子供の声きけば夕かたまけてすずしかるらし  (古泉千樫 ちかし
メキシコマンネングサ

 また、川端康成は1954年に書いた舞踊劇「船遊女」において、
白拍子たちに歌わせるという設定で、
当該今様を次のような替え歌にしている。
  遊びしたくて生まれ来た 戯れしたくて生まれ来た 
  遊ぶ子供の声聞けば わが身の春も思はるる 
  散らぬものかは咲く花の 手を取りかけて いざや遊ばん


この替え歌では、子ども遊びから、白拍子(遊女)の遊びが連想され、
にぎやかな宴の場を彩るようなものになっている。
(『梁塵秘抄』植木朝子編訳 ちくま学芸文庫 2014年)
赤い花でも咲いているような
よく見ているとなんか顔にも見える…
虫こぶ(ハルニレハフクロフシ?)です。