2019年5月6日月曜日

大型連休最後の日ですね

10日間という大型連休も最後の日となりました。
公園では、お父さんやお母さんが
子どもたちのために頑張っている姿を何組も見かけましたp(^^)q
母さんや子どもが、まるで白目をむいているみたいですが
これは「瞬膜(しゅんまく)」という第三のまぶただそうです。

● ● ● ●

 眼球を保護しているまぶたはふつう上下のまぶただけですが、
鳥には三番目のまぶたがあります。
この三番目のまぶたは〝瞬膜〟とよばれて
人間の眼では内側のすみに痕跡として残っています。
瞬膜は半透明な膜で、
くちばしから耳に向かって斜めに横切って閉じます。
疑いなく瞬膜は眼の表面をきれいにし、
保護する役割を持っています。
別の表現でいえば、瞬膜はビルトインされたサングラス、
ゴーグルあるいはアクアマスクです。
それは太陽からの直射や水面からの反射光のぎらぎらを減光し、
風から眼を守り、
潜水性の鳥のとっては水中での遊泳を助けるしくみです。
ほとんどの鳥はこの瞬膜でまばたきをします。
このまばたきは目の大きいフクロウなどでよく観察されます。
ハトその他、二、三の鳥は全部のまぶたでまばたきをします。
(『鳥についての300の質問』A&H・クリュックシァンク著
  青柳昌宏訳 講談社ブルーバックス 昭和57年)

昨夜の情熱大陸#1051「書家・金澤翔子」を見ていてビックリしたのは
2015年に建仁寺を訪ねたときに見た「風神雷神」は、
風神雷神図をまったく知らなかったのだそうです( ゚Д゚)
最後の方で良寛の「天上大風」を良寛記念館で実演されていました。
そして

過去と未来をつなぐために私は死にたくないし
がんばって生きようと思います。


と語ってくれました。
来週まで無料で見ることができます。
良寛の書について『庶民と歩んだ僧たち』より一部転記しますφ(..)
 良寛は書のほうでも新しい境地を開き、
江戸時代末期を飾るにふさわしい書風を創造した。
その手本とした古典は、中国の王義之(おうぎし)・懐素(かいそ)
日本の小野道風を初め、数多くのものがあげられる。
彼はとくに草書を好み、
懐素の「自敍帖(じじょじょう)」や
道風の「秋萩帖(あきはぎじょう)」に親しんだといわれる。
堀江知彦は良寛の書について、次のように紹介している。

 良寛は、上代様に中国唐代の名筆もとり入れて、
 独自の書を創造した。
 しかもそれは単なる敷き写しではなく、
 彼独自のくふうをこらしている。
 その胸中に去来する詩情を書に託して吐露するには、
 良寛の場合、従来の観念的な書法では満足できなかったのである。
 いいかえれば、良寛だけの書法を案出することによってのみ、
 満足できる表現が成り立ったともいえる(『書の日本史』)。
(『庶民と歩んだ僧たち<日本人の仏教8>』
  中尾 堯 東京書籍株式会社 昭和58年)
 江戸時代初期の書を代表する本阿弥光悦に対して、
良寛は江戸時代後期を代表し、
書の世界における二大巨峰として輝いている。
 良寛の書について、おもしろい逸話がある。
彼がいつも座右にしていた「秋萩帖」は、
原本とはまったくかけ離れたまずいものであった。
しかも彼は、有栖川宮(ありすがわのみや)家に
秘蔵されていた原本は一度も見たことがなかったが、
その書はあたかも原本を見習ったかと思われるほど、
すばらしいものであるという。
良寛の書の能力は、よく古今を超えていたというべきであろう。
(『庶民と歩んだ僧たち<日本人の仏教8>』
  中尾 堯 東京書籍株式会社 昭和58年)
池上彰さんの「ニュースの見方を考えよう」の続きを転記しますφ(..)
 テレビの世界では、どんなインタビューを採るか、
ということを先に決めてから行く場所を決める、
ということもしばしばです。
つまり、街頭インタビューをどこで行うか、
ということを決める段階で、
番組制作者の判断が行われているのです。
(『新編 新しい国語1』東京書籍 平成28年版)
 ニュースというのは、「客観的なもの」と考えている人が多いと思います。
確かに、ニュースを取材して放送する人たちは、
客観的なニュースを視聴者に伝えようと努力しています。
でも、番組を作っているのも人間。
どこで取材するか、何をどのようにニュースとして伝えるかは、
制作する人の考え方で決まってくるのです。
ニュースは編集されているのです。
 編集の例を、更にいくつか見てみましょう。
 2010年6月に南アフリカで行われたサッカーのワールドカップ。
毎日のように大きなニュースになりました。
とりわけ日本代表チームの試合になると、このニュースばかりでした。
 では、この間、世界は平和だったのでしょうか。
残念ながら、そうではなかったのです。
イラクでもアフガニスタンでも、パレスチナでも、
紛争で大勢の人が命を落としていました。
なのに、そのニュースは、ほとんど出てこなかったり、
出ても小さな扱いだったりしました。
 視聴者の関心が高い話題は
ニュースで長い時間取り上げられるけれど、
「視聴者はたいして関心を持たない。」と
ニュース制作者が判断したニュースは、
取り上げられなかったり、
小さなニュースにしかならなかったりするのです。
 つまり、取り上げるニュースは制作者が決めているのです。
 ニュースの制作者が、
ある世論調査の結果を取り上げようと決めたとします。
そして、昨年の調査では「賛成」が59パーセントだったのが、
今年は51パーセントだったとしましょう。
このとき、「半数以上が賛成」と伝えることもできますし、
「賛成、8ポイント減」と伝えることもできます。
視聴者が受ける印象は異なりますが、どちらも事実なのです。
制作者がどちらを重要視するかによって、
伝え方が異なってくるのです。
  つまり、ある出来事のどのような面に着目して
ニュースにするかも制作者が決めているのです。
 ニュースではよく専門家へのインタビュー映像が流れます。
ほんの短い時間のものが多いのですが、
実は、実際に収録されている映像はその何倍にもなるのです。
私の知人はテレビ局に入ったとき、
ロケに行く前に先輩から
「一分の番組に二十分は回せ。」とよく言われたそうです。
決められた時間の二十倍の時間は撮影してきなさいということです。
 そのような膨大な量の映像から、
視聴者に伝えたいことを短い時間で分かりやすく伝えるために、
制作者がカットを選びぬいて、順番につないでいくのです。
 ただ、その結果、重要かもしれない情報が
抜け落ちてしまう危険性もあります。
例えば、インタビューを受けたご本人から、
「私の話したことのごく一部しか伝えられなかった。
 これでは視聴者に誤解されかねない。」
というような抗議が出ることも、ときにはあるのです。
 つまり、ニュースの内容は加工されたものなのです。
(『新編 新しい国語1』東京書籍 平成28年版)
 続く…
今朝の父の一枚です。
なんじゃもんじゃの木の側にある休憩場所で
母と一緒にコーヒータイムをしました。