2026年11月6日金曜日

雨もあがり

昨夜からの雨も止み青空が広がっていました。
朝夕と昼間の気温差が大きく体調管理が大変です(^_^;
アメリカの中間選挙のニュースを見ていて、一番、嬉しかったのは
Deb haalandさんがニューメキシコ州の知事に当選されたことです。
アイヌの方が北海道知事になるみたいだなぁと思っています。
日本でもそんな時代がくるといいなぁ!

そして
加藤郁美さんの投稿に

アメリカ中間選挙、ヘグセス長官による米軍破壊の影響がこんな形に。
女性退役軍人が少なくとも10人、選挙に勝利し国会議員になったそうです(8人の民主党員と2人の共和党員)。
トランプ政権のあまりの無法ぶりで、いろんな政府機関から追い出されたり飛び出た優秀な人材が、国会議員になったという動き
前回、伊藤博文と山尾庸三が塙忠宝(はなわただとみ)を殺害したことを転記しました。

 第二章 維新前夜 

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 …前略…

 孝明帝は極度の夷人嫌いで、これはひろく知れ渡っていた。
勅許をあたえるはずがないと思われていた。
そのため、幕府は孝明帝を退位させることを企んでいるらしい、という観測が流れた。
老中の安藤信正(あんどう のぶまさ)が坂下門で襲撃されたのも、廃帝の先例を調べさせたことが理由の一つになっていた。
攘夷党としては、そういう閣老に天誅を加えるのを当然ということになる。
(『史伝 伊藤博文(上)』三好徹 徳間書店 1995年)
 そこで次の鉾先は、先例を調べた者に向けられる。
有名な国学者塙保己一の子の次郎がそのことにあたった、というのが世間に流れた噂だった。
事実はそうではなかった。
塙が安藤から調査を命じられたのは、寛永以前における幕府の外国人待遇の例式がどういうものだったかの先例であって、廃帝の故事ではなかった。
 伊藤は、山尾庸三と組んで、塙次郎に天誅を加えることにした。
「塙は不届きなやつだ、殺(や)ってしまえ」
 と二人を教唆したものがいたのか、二人だけの思いつきで暗殺することにしたのか、それはわからない。
山尾は天保8年の生れだから、伊藤より四歳年上である。
身分は卒族だから大差はない。
御楯組の同志のなかでは、伊藤が気楽につきあえる一人だった。
 伊藤と山尾は、まず麹町三番地の塙の自宅をたずねて、国学勉強のために入門したい、面会を求めた。
自宅には家族や門弟がいるので剣をふるうことはできないが、塙の容貌を確かめておくためにそうしたのだ。
 決行は文久2年12月21日の夜で、イギリス公使館の焼打ちの八日後である。
この日、塙は中坊広伴の歌会に出て、帰途、九段坂付近にさしかかったとき、
「国賊!」
 と叫んで襲いかかった伊藤と山尾に斬殺された。
つきそっていた門弟の加藤一周も殺された。
伊藤と山尾の衣類には、返り血が点々と付着したが、藩邸に帰るまで気がつかなかったという。
 伊藤も山尾も人には語らなかったが、のちに明治4年の岩倉使節団に加わった伊藤が、随員の一人の田中光顕にこのときの状況を語った。
田中はそれをよく憶えていて、伊藤の伝記が編纂されたときに、そのことを証言した。
誤解された塙次郎にとっては、とんでもない災難だったが、伊藤は、廃帝調査は本当だったと信じこんでいたようである。

 …後略…

(『史伝 伊藤博文(上)』三好徹 徳間書店 1995年)
塙忠宝を殺害した伊藤博文も…

 終章 それでも続く暗殺
 朝鮮半島をめぐる暗殺
 

 明治日本は国防上、朝鮮半島がロシアの影響下に入ることを恐れた。
だが、韓国李王朝の閔妃(ミンビ)は日清戦争後、ロシアに接近して勢力を拡大し、韓国の内閣を支配して日本側の圧力を排除しようとする。
このため駐韓公使の三浦梧楼(みうらごろう)は明治28年(1895)10月8日払暁(ふつぎょう)、政変を起こさせて閔妃を暗殺し、親露派勢力を一掃した。
そして、閔妃の舅(しゅうと)で対立関係にある大院君(たいいんくん)を擁して親日的政権を樹立する(乙未<いつび>事変)。
だが、翌29年2月には再び政変が起こり、親日派の多くが惨殺されて親露派が政権を奪った。
(『暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂太郎 中公新書 2020年)
 日露戦争に勝利した日本は韓国を保護国化し、伊藤博文が初代韓国統監として赴任する。
伊藤は韓国の宮廷や政府を支配し、外交は内戦の全権を掌握して韓国軍隊を解散させ、抗日運動を鎮圧した。
こうして韓国併合への道筋がつけられてゆく。
 明治42年6月、約3年間務めた韓国統監を辞した伊藤は満州に赴いたが、10月26日午前9時、ハルビン駅(ロシア管轄。現在の中国黒竜江<こくりゅうこう>省哈爾濱<ハルビン>市)で至近距離からピストルで右胸部や腹部を撃たれ、落命した。
享年69。
 狙撃したのは韓国人の独立運動家安重根(アンジュングン)で、外務省管轄下の関東都督府地方法院で裁かれ、翌43年3月26日、旅順(りょじゅん)監獄で絞首刑に処された。
 安が書いた「伊藤博文罪悪」は伊藤が孝明天皇を殺したとか、閔妃(ミンビ)暗殺を指示したとか事実誤認も少なくない。
権力を握った伊藤が明治天皇を欺き、皇帝を斥け、韓国を好き勝手に支配していると繰り返し訴え、最後に「これにより東洋の平和は永久に破れ、幾億人が将(まさ)に滅亡を免れ得ないこと」(許世楷<きょせいかい>「伊藤博文暗殺事件」『日本政治裁判史録 明治・後』昭和44年)としめくくる。
背後関係については諸説あるが、いずれも推測の域を出ない。
事件の翌年の明治43年8月、韓国併合に関する条約が調印され、韓国は朝鮮と改称されて朝鮮総督府が設けられた。
 だが太平洋戦争が終結し、日本による植民地支配が終わった朝鮮半島では安重根は昭和7年(1932)に昭和天皇めがけて手榴弾(しゅりゅうだん)を投げた李奉昌(イポンチャン)や、上海(シャンハイ)の天長節祝賀会場に爆弾を投げた尹奉吉(ユンポンギル)とともに抗日、独立運動の「義士」として顕彰される。
特に安は反日感情のシンボルに祭り上げられてゆく。
韓国では2003年から、安は韓国独立のみならず、「東洋平和」のために伊藤を暗殺したとの評価が学校教育の中に取り入れられた。
 こうした安重根顕彰に対し、日本側には強く反発する向きもある。
伊藤は戦後日本では近代天皇制を築いた政治家として批判された時期もあったが、昭和38年(1963)から約20年間千円札の顔となり一般に親しまれた。
近年では史料に基づく研究・再評価も進んでいる。
たとえば瀧井一博(たきいかずひろ)『伊藤博文』中公新書 平成22年)では伊藤を「知の政治家」とし、「彼は日本で行ったのとまったく同様に、韓国人民を文明の民へと導こうとしたのである」と評す。
日韓両国の伊藤・安に対する評価が大きく乖離するのは当然で、その溝は怨嗟(えんさ)の感情や政治的な圧力で埋められるものではない。
(『暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』一坂太郎 中公新書 2020年)

伊藤博文を暗殺したのは安重根ではないという説もあります。
三好徹さんの『史伝 伊藤博文(下)』に書かれていました。
他の本にも書かれているようなので調べたいと思います。
午後からは心臓リハビリ。
月初めは、エルゴメーターを漕ぎながら心電図、脈拍、酸素飽和濃度を測りました。
(血圧は、血圧計を使用)
運動時間   31分
消費カロリー 19.29kcal
回転回数   1532回

リハビリ終了後、理学療法士のNさんから
「リハビリテーション実施計画書」の説明を受け
コピーをいただきましたp(^^)q