2020年10月20日火曜日

朝露がおりて

今朝は、青空が広がり朝露がおりてキラキラしていました。
歩き始めはヒンヤリしていましたが、しだいに暖かくなりました。
帰る頃には雲が消えてしまって青空が眩しかったです。
Agnes Chow 周庭さんのTwitter

ツイッターを再開したのに、なぜあまり発信しないのか、よく聞かれます。
言いたいけど言えないことが多いからです。
香港人の心の中には、とんでもない恐怖感があります。
批判的意見を言えば犯罪になるんじゃないかなとか、
外国語で発信すれば「外国勢力と結託」で逮捕されるんじゃないかなとか。→

反対意見をすべて消すことは、決して本当の平和ではありません。
口は自由じゃないけど、私の心は自由です。
恐怖の中で生きているからこそ、自分の主張を決して諦めてはいけないと信じています。

NHKスペシャル「香港 激動の記録~市民と“自由”の行方~
を見ていると胸が苦しくなりました。
よく取材できたなと思います。
アグネスさんたちが自由に、安全に発信できる日がきますように…
よそ事ではないです

なかのとおるさんのTwitter

なんかもう最低やなぁ。恥ずかしくないんですかねぇ。

菅首相の著書、改訂版が発売 公文書管理の記述消える:朝日新聞デジタル

追加)
「政府が記録残すのは当然」新書版で削除 菅首相の著書「政治家の覚悟」(毎日新聞)
10月20日
 蒙古軍が博多湾に上陸した。 1274(文永11)年

 元と高麗あわせて3万余りの蒙古軍は、10月3日高麗の港を出発。
対馬・壱岐(いき)を襲い、19日には北九州沿岸に達し、20日未明から上陸を開始した。
迎え討つ日本の大将は少弐景資(しょうにかげすけ)
博多に陣を整えた。
わが国の武士は勇敢(ゆうかん)に蒙古軍に立ち向かった。
しかし敵は歩兵を主とした集団戦法で、太鼓や銅鑼(どら)をならし、毒矢と、火薬をつめて爆発させる「てつはう(鉄砲)」で攻撃をかけてきた。
日本軍は多くの死傷者を出して次第に後退、敵は博多に侵入した。
しかし、夜に入り船に引き上げた敵の大軍は、暴風のため壊滅してしまった。
(『カレンダー日本史 岩波ジュニア新書11』永原慶二編著 1979年)
蒙古襲来絵詞」(中学・高校 動画1分19秒)

蒙古襲来』より「大風雨はあったか」を転記しますφ(..)
文永の役
 異国人との戦い
  大風雨はあったか

 しかし元軍は博多にとどまらず、すべて船に引きあげた。
高麗の将金方慶(きんほうけい)は決戦を主張し、船を焼いてみずからの退路を断つ気がまえで戦うことを進言したが、元側の将軍忻都(きんと)は弱気であった。
副将劉復亨(りゅうふくこう)が負傷したこともあり、日本の武士との激闘で疲れた兵を休ませるために、船にもどることを上策とした忻都は、陸をすてた。
そして一夜明けた21日の朝、博多沖の海上には、志賀島(しかのしま)にのこった一艘をのぞき、元軍の船団の姿はまったくみえなかったのである。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
 これまで、この急な撤退の原因は20日夜半におこった大暴風雨のためといわれ、これこそ「神風」とされてきた。
しかし昭和33年、気象学者の荒川秀俊氏はこの通説を批判し、10月20日(太陽暦11月26日)は台風シーズンが去ったあとであり、信頼すべき文書(もんじょ)には大風雨があったとは書かれていないとして、この日の「神風」の存在を否定した。
また筑紫豊(ちくしゆたか)氏もこの説をうけて、風雨のあったのは11月5日ごろと主張された。
この新説に対して、通説を基本的に認める龍粛(りゅうすすむ)氏、中村栄孝氏とのあいだにあいだに論争があったが、最近、川添昭二氏は両説の根拠をこまかく再検討しつつ、新しい史料を提示し、ほぼ通説を支持するという見解を述べている。
 いま10月20日に大風雨ありとする説の根拠をあげてみると、
(1) 都にいた藤原兼仲(かねなか)が11月6日、その日記『勘仲記(かんちゅうき)』(兼仲卿記)に、ある人の言として、「逆風が吹き、元船はほとんど本国に吹き返された。わずかに陸にのりあげた船の兵は、大友頼泰の郎従に捕えられ、やがて京都につれられてくるであろう」と記し、これを「神明(しんめい)の加護(かご)」としている。
(2) 1年ほどのちの建治(けんじ)元年(1275)11月、薩摩国天満宮と国分寺が朝廷にだした訴えのなかに「神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、その乗船は海底に沈み、浦に吹きよせられた」と述べて、神仏の加護を強調し、宮寺の造営を願っている。
(3) さらにのち、乾元(けんげん)2年(1303)4月の肥前国河上社座主の解状(げじょう)に「文永・弘安の今は風雨の神変を施(ほどこ)して、幾多の賊船を波濤(はとう)に摧(くじ)き……」とある。
(4) 『高麗史』『東国通艦(とうごくつがん)』などの朝鮮側史料にも「たまたま、夜大風雨があり、戦艦は巌崖(がんがい)にふれて、多く難破した」とし、水に堕(お)ちて死んだ将の名前をあげている。
 この説の問題は、(1)が人の伝聞、(2)(3)は近い時期とはいえ後年の史料であり、神仏の加護を主張しようとする意図で書かれている点にある。
(4)も、「たまたま」ということからすぐに風雨を20日夜といえるか疑問をはさむ余地がのこり、また撤退の理由としてとくにそれを強調した可能性もある。
 これに対して、20日の大風雨を否定する主張の根拠をあげると、
(1) 当時の戦況をもっともくわしく伝える『八幡愚童訓』は、とつぜん、21日朝に船影がみえなくなったとし、もともと八幡神の威力を強調しているこの書が、弘安のときとは異なり、文永の役ではなんら風雨にふれていない。
(2) 元禄年間、西大寺(さいだいじ)の叡尊の自伝をもとに編まれた『西大寺勅諡興正菩薩(ちょくしこうしょうぼさつ)行実年譜』には、11月5日に猛風が吹き、元の大船が漂没したとある。
(3) 『元史』は大風雨にふれず、「戦敗」の理由を「官軍整わず、又矢尽」きたことによるとしている。
(4) 中央気象台『日本颱風(たいふう)資料』の過去50年間の統計では、このころに台風のおこった事例はない。
 この主張の弱点は、(4)は現代の統計であり、(3)は積極的根拠にはならず、(2)も江戸時代の編で、『勘仲記』の記事と月日が近く、注進が都の近辺にとどいたときの可能性が強い。
ただ後世(鎌倉末期ごろ)のものであるとはいえ、(1)は注目に値する。
このように考えてくると、きめ手がない、というのがもっとも確実な答えになってしまうが、あえて推測すれば、私はつぎのように考える。
 風雨はたしかにあった。
しかしそれは弘安のときのように、艦船すべて漂没というほどの大風雨ではなかった。
しかし、はるかに波濤をこえて異境に来り、押しぎみであったとはいえ、決定的勝利を得られなかった1日の激戦に疲れはてた暗夜、風雨が船団を襲ったのである。
さきに高麗の将金方慶(きんほうけい)とモンゴルの将忻都(きんと)とのあいだにあらわれた対立が、さらに拡大されたとみるのは自然であろう。
退いたとはいえ日本の武士たちの抵抗は、たしかに強く、副将は重傷すら負っている。
兵力はこれからの抵抗を打ち破るには好くなすぎる。
しかも決断をくだす権限はモンゴル側にある。
目下の同盟者高麗の将が決戦を主張すればするほど、征服者として高麗を下に見るモンゴル軍の将は逆の方向に動いていったであろう。
風雨にもまれる船中で、遠征完遂は不可能、という意見がふくれあがり、ついに大将忻都は撤退の断をくだす。
元の船団はたちまち錨(いかり)を上げて、朝鮮めざして帰還を開始、朝までに北九州沿岸をはなれた。
 私はこのように想定してみたい。
日本の武士の抵抗と風雨――自然の条件が、征服者と被征服者とのあいだの民族的矛盾を表面化させた結果おこった、意識的撤退と考えるのである。
『高麗史』の伝える1万3千5百余人の未帰還者は、戦闘による損害、このときや途中でもありえたと考えられる風雨による被害とみれば、いちおう解決がつこう。
 もちろんこれは武士たちの勝利ではない。
もしろ1日の戦闘は、明らかに元軍の判定勝ちである。
また風雨も撤退の決定的条件でなかったとすれば、元軍退去の基本的な原因は、異民族連合軍の弱さというほかないであろう。
日本に来た元軍には、ユーラシア大陸を疾駆(しっく)していたモンゴル軍の若々しさはもはやなかった。
いかなる征服者をもむしばまずにはおかない弛緩(しかん)と怠惰が、モンゴル軍のなかにあり、それがこの結果を生んだのではなかろうか。
(『蒙古襲来』網野善彦 小学館文庫 2001年)
今朝の父の一枚です(^^)v
コサメビタキを写していました。
母がいつも腰をかけていた枝垂れ桜の上にいたそうです。
ピントを合わせるのに、もたもたしている私よりもうまく撮れていると思います(^^ゞ