2018年8月8日水曜日

平年並みだと…

5時前に戸をあけると少し涼しい(^。^)
朝のニュースのなかで平年並みの暑さだと気象予報士の方が話していました。
毎年、暑い暑いと言っていたこの時期だけど、
平年並みが涼しく感じるなんて(°0°)

目が笑ひつゝくれなゐの蓮咲けり
(『句集 猩々』岡井省二 角川書店 平成6年)
タイワンウチワヤンマは、暑さなんか感じないようで
日向でノンビリしていました(^。^)
  頭の中で白い夏野となつてゐる  高屋窓秋(たかやそうしゅう)

 百草生い茂る<夏野>は、青野、五月(さつき)野という傍題季語でも言い換えられる。
周囲に見られる日常次元の夏野にあって、<頭の中で>は別な夏野を考えているのだ。
句の素材として新しかった。
虚子のホトトギス俳句に対抗した、いわゆる新興俳句の先駆けとなる昭和7年の作。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
子規にはじまる近代俳句は直接自然の対象を観察することによって、
その物のありのままの姿、ひいてはその内奥(ないおう)にある本質に迫ろうとするものである。
作者はこれを一歩進めて自然の真という素材を己のうちに溶かしこみ、鍛錬加工した文芸上の真を求めてゆく。
言葉は言葉を生み、文字が文字を呼ぶ、とは作者の言だ。
秋を季語で白秋ともいうが、<白い夏野>は作者個人の独特なイメージ、新しい俳句の作り方であった。
  1910~1999 名古屋市生まれ。水原秋桜子門。句集『白い夏野』『河』など。
(『きょうの一句 名句・秀句365日』村上護 新潮文庫 平成17年)
(きみ)に恋(こ) 
いたもすべなみ 
奈良山(ならやま) 
小松(こまつ)が下(もと) 
(た)ち嘆(なげ)くかも
  巻四.593 笠女郎(かさのいらつめ)

あなたに恋をして
どうしていいか
わからなくなったから
奈良山の
小松の下に
ぼんやり立って
ため息ばかりついています
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)
[選者 金田一秀穂(きんだいち・ひでほ)]
 この歌は、最後の「立ち嘆く」という言葉がとても素敵です。
立ったまま嘆くという動作が、恋する女性の気持ちを痛烈に表している。
現代ではありま使いませんが、すごく強い言葉ですね。

――日本語学者の金田一秀穂さんは、
中国やアメリカで日本語を教えることから研究を始め、
現在は、外国語として日本語という視点から研究に取り組んでいます。

[金田一]
 笠女郎という人が、若い家持に恋をした。
そのときの気持ちをそのまま詠っている。
その強さと素直さが、この歌に凝縮されています。
笠女郎の歌はいくつかありますが、この歌がいちばん純粋で彼女の気持ちを見事に表している。
そこが魅力だと思います。
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)
――笠女郎が思いを寄せる大伴家持は、奈良山の近くに住んでいました。
この歌からは、奈良山に立つ笠女郎の切ない思いが伝わってきます。
万葉集巻四には、笠女郎が家持を慕う歌が、24首も収められています。

[金田一]
 ただただ好きだ、恋しいんだと素直に詠う歌は、いまの時代にはたくさんあります。
この歌はそういうものの源流です。
ただ素直に詠っても、立派な詩になる。
テクニックとか、文学的な教養や知識とか、そんなものは必要ではない。
万葉集は、そういう伝統を作りますが、笠女郎のこの歌は、それの典型の一つだと思います。

 万葉集は、文字ができる以前の、日本人の気持ちをうまくまとめている。
そして中国から渡来した漢字によって、それを記録することができるようになり、大慌てで書き残した。
ですから、文字ができる以前の日本人の感じ方を私たちが知ることができる。
でも、じつはあまり変わってない。
二千年経とうが、僕らの心の底には万葉集的な感じ方が残っているはずです。
それを少し知ることができるという意味で、万葉集は日本人にとって、
とても大切な美意識の辞典というか、索引みたいな気がします。
(『NHK 日めくり万葉集 vol.6』中村勝行編 講談社 2009年)
言語学者・金田一秀穂が今「若者言葉」より気になっているもの
「AERA dot.」(2014年7月28日)に掲載の金田一秀穂さんと林真理子さんの対談記事ですが、
言葉というものの価値を、政治家がバカにするなよ、と思ったんです。
という金田一さんの 言葉、ますます政治家の言葉はひどくなるばかり。
9時前の気温が30度を超えなかったのはいつのことかな…?
カナムグラの若葉かなと思ったら…
ヒメクダマキモドキかな?

ヒメクダマキモドキ
[体]19~23mm(翅端まで34~42mm)
[生]本州では海に近い温暖な地域や都市公園の樹上など
[産]生息する樹木の葉柄や枝
[声]♂は「シュ・シュ……」、♀は「プチプチプチ……」と鳴き交わし、
2匹の声が同調すると「ヂプチッ」と1つの声のよう聞こえる。

温暖な太平洋側の海岸にある広葉樹に普通で、
海浜公園やそれほど内陸でなければ都市部の公園でもよく見かけ、アカメガシワなどを好んで食べている。
本土には似た種はおらず、この形態をもつツユムシはほぼヒメクダマキモドキで間違いない。
(…略…)
(『鳴く虫ハンドブック――コオロギ・キリギリスの仲間
      奥山風太郎 文一総合出版 2016年)
うごいてみのむしだつたよ
(『山頭火著作集Ⅳ 草木塔』潮文社 昭和46年)
  海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 
           寺山修司『空には本』(昭33、的場書房)

 海を見たことのない少女がいる。
その少女の前に立った麦藁帽の少年が、海ってこんなに広いんだぜと、
両手をいっぱいに広げて説明をしているのであろう。
映画の一場面のような、くっきりとした映像が読者に伝わってくる作品である。
少し得意げな少年の表情まで想像できるだろうか。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)
たぶんその解釈でいいのだろうが、こんな採りかたはどうだろう。
海を見たこともない少女は、海へのあこがれを抱いている。
一度見てみたいと思う。
幼いときから海を見ることもなく、海とは隔たった片田舎でだけ生きてきた二人。
少女の海へのあこがれは、外のもっと大きな場所、まだ見ぬ世界へのあこがれであろう。
この閉ざされた場から出ていきたいという意志。
少年は、自分とは別の「大きな外への世界」へ飛び出そうとしている少女に、
行くのは止せ、と両手をひろげてたちふさがったのかもしれない。
俺と一緒にずっとここに居よう、そんな少年のちょっと切ない動作を思うのである。
 さて、どちらの解釈を採ればいいのだろう。

(…略…)

 歌の読みに正解はない。
これが私の信念である。
どう読めば、自分にとって歌がいちばん立ちあがってくるか、
魅力的に映るかが大切なのであって、
客観的にこれが「正解」という読みは、短歌にはないのである。
(『現代秀歌』永田和宏 岩波新書 2014年)

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