2023年12月9日土曜日

南高北低

歩き始めは曇っていて少し寒かったのですが
途中で青空が見えてくると暑くなったので一枚脱ぎました。
今朝の天気予報で初めて知った気圧配置 

なんこう・ほくてい・がた【南高北低型】
 日本付近の地上気圧配置型の一つ。
夏に多く出現する。
南の気圧が高く、北の気圧が低い。
南の高気圧は、ふつう北太平洋高気圧で、高湿・晴天が続く。
(『広辞苑 第六版』岩波書店 2008年)

今年は、暖冬ということなのでこれからも夏型の気圧配置が出現するのかな?
1980年12月8日、ジョン・レノンが銃弾に倒れました。

アナザーストーリーズ ジョン・レノン そして「イマジン」は名曲になった

そして2022年7月8日に安倍元首相が銃弾に倒れた後、
いろんな事が明るみにでている。
統一教会問題、そして

自民 安倍派 10人以上の議員側が1000万円超のキックバックか」(NHK)

そしてジャニー喜多川氏による性加害問題も
安倍元首相が存命なら明るみに出なかったかもしれない。
 昨日の朝日新聞「天声人語」
吉村昭の『白い道』が紹介されていました。

読んでいると
朝ドラ「ブギウギ」第10週「大空の弟」 (47)
のスズ子と梅吉の姿が重なりました。
もし、母ツヤが生きていたらどうなっていたんだろと思いました。

義母・亀井うめが胃がんと心臓病で亡くなったのは1939(昭和14)年9月11日
弟・八郎は1941(昭和16)年12月6日に戦死。
12月8日、日米開戦(「太平洋戦争」小学6年)。

ニュースきん5時で亀井八郎が飛行機に搭乗している写真が映し出されていました。

こちらの記事も参考になると思います。
大空の弟。(長め)」(boogie1219)
 Ⅰ 歴史の流れ
 戦争体験記の変質


 私は、昭和二年(1927)五月に東京の日暮里町で生まれた。
 四歳の年に満州事変、上海事変、十歳の年には北支事変(後に支那事変)と言ったように、物心ついてから戦争の連続で、私にはそれが日常であり、戦争というものになれきっていた節がある。
支那事変――中国との戦いは長期戦の様相をおび、さらに十四歳の年の十二月には、大東亜戦争が勃発した。
さすがに、その時は、世界の強大国である米、英両国との戦争であるだけに不安を感じ、緊張した。
(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)
 開戦日の朝の記憶は、鮮明に胸に残っている。
中学二年生の私は、家を出て学校へ向ったが、路の両側の家々からは、軍艦マーチとともに大本営陸海軍部発表の開戦を告げるニュースがラジオから流れ、軒先には国旗がかかげられ、町全体が沸き立っているような感じであった。
そして、それにつづく真珠湾攻撃の大戦果とイギリス東洋艦隊の主力艦であった戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパレス」撃沈の報に、人々は狂喜した。
 しかし、その年は、私の家族にとって悲しい年であった。
中国の戦場に出征していた四番目の兄が八月に戦死し、開戦の二日後に遺骨が送還されてきたのである。
近所の人に泣声をきかれぬように、雨戸をしめ、母は発狂するのではないかと思うような激しい泣き方をし、父や兄たちも号泣していた。
 日本軍は優勢で南方方面の攻略作戦も順調に効果をおさめ、私は、戦争の将来について不安を感じることもなかった。
周囲の大人たちも、私と同じ気持であったらしく、表情はきわめて明るかったが、例外が二人いた。
中学校の神崎という英語の老教師と父であった。
神崎先生は、
 「おい、お前たち、今度の戦争をどう思う。いけないよ。うまくゆくはずはないんだよ」
と、低い声で言った。
 私は、それを重大な意味には考えず、横暴な配属将校がいる学校で、神崎先生が、配属将校の耳にでも入ったら手ひどい目に遭うような言葉を口にしたことに快感をいだいた。
 しかし、父が、教師が同じことをもらした時、私は堪えがたい憤りを感じた。
戦場では多くの男たちが戦死しているのに、戦争を傍観しているような父の言葉が許せなかった。
私は、珍しく反発したが、父は、だめなものはだめなんだ、と言ったきり口をつぐんでいた。
 私にとって、戦争は海の彼方でくりひろげられている幻影に近いものであった。
が、中学三年生になって間もない昭和十七年四月十八日、戦争の一つの具体的な貌(かお)を見た。
 その日は土曜日で、正午に学校から帰宅した私は、家の物干台で武者絵の大きな六角凧をあげていた。
 かすかに爆音がし、東の空をみると、驚くほどの低空で緑色の迷彩をほどこした見なれぬ形の飛行機が一機、近づいてきていた。
双発機で、垂直尾翼が二枚であるのも珍しかった。
 飛行機が、ゆっくりと凧の上方を通過した。
その時、私は、機銃の突き出た銃座と、窓ごしに茶色い服を着た少なくとも二人の飛行士を見、さらに胴体と翼に星形のマークが描かれているのを眼にした。
中国軍のマークに似ているので、私は、中国大陸で捕獲した敵機を、戦意昂揚のため都内を示威飛行させているのだ、と思った。
  飛行機は、少し翼をかたむけて、満開の桜で白く煙る谷中墓地の方向に去っていった。
 私は、そのまま凧をあげていたが、やがて東京に米機が侵入し、退避したことを知った。
飛行機は、太平洋上の空母から発進したノースアメリカンB25であったのである。
 私は、近々と見た敵機と飛行士の姿に、アメリカが、遠く本国から空母を出発させ、それに搭載した飛行機をはるばる日本の上空まで到達させたということに、戦争とは多くの労力と費用を要する煩(わずら)わしいものなのだ、と妙なことを考えていた。
そして、アメリカの飛行士は、まちがいなく私のあげていた凧を眼にしたはずだ、とも思った。

…つづく…

(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)
本を読みたくて図書館で借りました。
12月8日のことを1日遅れで記事にしています(^^ゞ

沖縄に米軍が上陸する前
母は日本軍の戦闘機だと思い手を振ったら米軍の艦載機
機銃掃射に追いかけられるように逃げたそうです。
弾があたり頭が飛び散った死体も見たそうです。
ですから戦争の映画などは嫌いで見ようとしませんでした。
母が、鉄の雨の中を生き残ってくれたから私がこの世に存在している。
今朝の父の一枚です(^^)/
アオバトに出会っていました。

第1章 ハト(鳩)とイエバト(鴿)
 4 日本のハト
  ハトという名の登場と変遷


 日本でハト科の鳥を「ハト」と呼ぶようになったのは8世紀、奈良時代のこと。
この時代に編纂された『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』の中に「はと」の名を見る。
『古事記』の成立が奈良時代の初頭であることを考えると、その前の飛鳥時代(7世紀)には、ハトを「ハト」と呼び始めていた可能性がある。
 山や林に暮らすキジバトやアオバトには、早い時代から「山のはと」という認識が日本人の中にあったようだ。
5世紀に実在したと考えられている允恭(いんぎょう)天皇の『日本書紀』の項にも「山のはとのように」という文章がある。
こうした記述から、『日本書紀』の編纂者が「山のはと」以外のハト、すなわち「いえばと(=ドバト)」の存在を知っていた可能性は高い。
…後略…
(『鳥を読む 文化鳥類学のススメ』細川博昭 春秋社 2023年)