2023年12月10日日曜日

蕾が膨らんでいる

青空が広がり、気温も高かったので遠くの景色がぼんやりとしていました。
ここ数日暖かかったためか梅の蕾が膨らんでいました。
予報を見ていると、季節外れの暖かさがしばらく続くようですが、
週明けは、低気圧の接近で天気が荒れるとか…
今は、冬なのですが…

第4章 天気図と人による天気予報
 [J]夏型・南高北低型


 夏になると、「太平洋高気圧」が発達し、その西端は図4-21(「南高北低型の天気図」省略)のように日本の南海上に位置する小笠原諸島を覆うようになり、「小笠原高気圧」とも呼ばれます。
気圧は日本の南で高く、北の大陸側で低くなるため「南高北低」とも呼ばれます。
図のように小笠原高気圧の等圧線が九州の西の海上まで伸びて、西縁がクジラの尾のように北に跳ね上がっているときは「クジラの尾型」と呼ばれ、予報者の間にも、昔から安定した夏型として知られていました。
(『図解・天気予報入門』古川武彦、大木勇人 講談社ブルーバックス 2021年)
 一方、夏季、チベット高原では日射による加熱で気柱が温められ、地上付近で低気圧、上空で高気圧になります。
チベット高原の上空に形成された高気圧を「チベット高気圧」と呼びます。
 夏のチベット高気圧は、ときおり日本列島の南まで張り出してきます。
このようなときには、小笠原高気圧の上空にチベット高気圧が重なるため、勢力の強い高気圧となり、一段と猛暑となります。
図4-22(「猛暑の天気図」省略)はその天気図で、クジラの尾型のチベット高気圧が重なったところがさらに強化され、太平洋高気圧の西側にもう一つの高気圧の中心ができた天気図となっています。
(『図解・天気予報入門』古川武彦、大木勇人 講談社ブルーバックス 2021年)
「最後の同窓会」青春と沖縄戦伝え60年余 元女学生たちは今〟(NHK 11月30日)

沖縄戦を体験 した 和子さん(95)
「当初、戦争は『お国のためだ』と植え付けられていたので、艦砲射撃の爆音も怖くはありませんでした。
しかし、アメリカ軍の攻撃が続く中、アメリカの艦船、戦車を見て、日本が太刀打ちできる相手ではないと感じがっくりしました。
もう日本はだめだと。
ロシアのウクライナの侵攻を見ると、私利私欲に見えてしまいます。
戦争がないことが一番の幸せです」
母は、海を真っ黒にするほどのアメリカ軍の艦隊を目の当たりにしていました。
そして艦砲射撃の砲弾が飛んでくる音でどこに落ちるか分かるほどになったそうです。
父が住んでいた徳之島にも艦砲射撃の音が響いてくるほどの鉄の暴風でした。
戦争体験記の変質」つづき

 この東京初空襲を境に米軍の反攻が開始され、日本軍の優位は崩れてゆくが、その頃から生活必需品の不足が目立ちはじめ、それにつれて、私は、人間というものの恐ろしさも知った。
 親しい八百屋があって、私の家では野菜類をその店からしか買わず、住込みの従業員もいたので、それはかなりの量であった。
店の主人も妻も誠実で、心の美しさがそのまま顔にあらわれているような人柄であった。
(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)
 しかし、野菜類が不足しはじめると、夫婦の態度は一変した。
それまで買ったこともない客に野菜を売るのに、母の使いでその店に行っても、けんもほろろに手を振り、売る物はないという。
顔つきも険しく、別人のようであった。
その夫婦は、衣類や他の日用品を裏口から渡す客のみしか野菜を売ろうとしないのである。
このような商人は多く、私は、その変わり方に呆然とした。
 戦局は悪化し、学校の授業は廃されて軍需工場で勤労学徒として働くようになった。
 やがて、空襲がはじまった。
初めの頃は、軍事施設や軍需工場を目標とした爆撃で、晴天の日の昼間に飛来した。
幾何学模様のようにB29が編隊を組んで、高空を過ぎてゆく。
薄絹のような飛行機雲を長々と曳き、機体が雲母に似て透き通ってみえた。
その編隊の前方から、微細な錫片のような日本の戦闘機が陽光に光りながら近づき、体当たりするものもある。
時折B29の機体から煙が流れ、中には飛散して落下してゆくものもあり、その度に私は、周囲の人たちと歓声をあげた。
 昭和二十年に入ると、都市の焼夷攻撃が本格化し、夜間に飛来するようになった。
三月十五日には、下町が広範囲に焼け、私は、隅田川に浮かぶ多くの死体を橋の上から見た。
すでに死体に対する感覚が麻痺していて、それらを眼にしてもなんの感慨もいだかなかった。
 四月十三日夜、町に焼夷弾がばら撒かれ、私の家も焼けた。
避難した谷中墓地から見た町をおおう壮大な炎の乱舞は、灯火管制で光というものに飢えていた私の眼に、きらびやかなものとして映った。
 八月上旬、日暮里町の焼跡に外壁だけ残っていた第二日暮里小学校で徴兵検査を受けた。
肋膜炎、肺浸潤と二度も肺結核で休学した過去をもつ身であったが、第一乙種合格であった。
終戦は、それから一瞬間ほど後であった。
 本誌(『新潮45+』1982年9月号)に発表されている「子供たちに残す戦争体験」を読み、あらためて戦後四十年近い歳月の重みを感じた。
戦後、戦争体験記と言えば、戦場で戦闘に従事した将兵の戦記、またはソ連軍占領地での悲惨な体験、またはシベリアへの抑留を記したものに限られていた。
それに属するものは、先月号までの小倉厚氏「ソ連国境の「大根おどり」」、尾崎竹一氏「絶望に海に漂った四日間」、井上寿老氏「サマルカンド収容所の墓標」、高橋邦安氏「ガダルカナル島の野戦病院」、本号の中川義勝氏「ある少年航空兵の死」、秋野耿氏「南鳥島の守備隊」の六篇に過ぎず、他の十篇はすべて銃後生活の体験記である。
これは、戦場体験者が戦後四十年の間に死を迎える者が年ごとに増し、その後の世代の者が戦争を語りつぐ層として浮上してきたことをしめしている。
 終戦直後、ラジオで九十歳代の男の方の話を興味深くきいた。
かれが少年の頃、彰義隊の戦さがはじまり、現在の上野公園から広小路におりる道の片側に大きな天水桶があって、そのかげに身をひそませて、斬り合いをみた。
斬り合いと言っても、官軍、彰義隊ともに二十名ほどが、かなりはなれた位置で向い合い、互いに刀を「やあ、やあ」と言ってかざしているだけだったという。
その話に実感がこもっていて、戦とはそんなものだろう、と思った。
 上野の戦争の回想が、戦った彰義隊、官軍の者のそれではなく、商家に奉公していた少年のものであることは、本誌の体験記にみられる戦争の語部(かたりべ)の変質と共通している。
それは歳月の経過にともなう必然的な現象で、すでに戦争が遠い過去のものになり、歴史の襞(ひだ)の中に埋もれかけているのを感じた。
(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)