2023年12月25日月曜日

12月25日

初めは曇り空でしたが、次第に青空が広がってきて暖かかったです。
しばらくいい天気が続くみたいですが、大晦日は雨がふるかも…
今日の朝日新聞
 折々のことば 鷲田清一 2949

 心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、
 心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている。

    松岡享子
 
 子どもにサンタクロースの話をするのは、「見えないものを信じる」能力(キャパシティ)を養うためだと、児童文学者は言う。
サンタの話を聞いたこの中には、サンタがいなくなってもサンタのいた空間は残る。
「ふしぎの住める」この空間は、「のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ」そんな心の場所なのだと。
『サンタクロースの部屋』から。
 2023・12・25

サンタクロースの部屋』(松岡享子 こぐま社 2015年)
昨日、買い物に行くとクリスマス用のローストチキンがいっぱい並んでいました。
さすがに七面鳥は、なかったなぁ……

 クリスマス : クリスマスに七面鳥を食べるわけは?
   聖夜 降誕祭 聖樹 クリスマスツリー 聖歌 聖菓 クリスマス・イブ

 欧米のクリスマスで七面鳥の丸焼きを食べるのは、宗教的理由からではない。
じつはアメリカ建国時代の苦労をしのび、感謝の気持ちを思い起こすアメリカ発の風習なのだ。
17世紀、ヨーロッパから新大陸アメリカを目指して移住した人々は、収穫がうまくいかず、飢えて死にそうになっていた。
その際、ネイティブアメリカンから七面鳥を与えられ、彼らは飢え死にせず越冬できたという。
 無事に冬を越した移民たちは、翌年は収穫がうまくいき、ネイティブアメリカンたちにお礼として、七面鳥を含め、収穫できた食料を渡したという。
アメリカが今あるのは、ネイティブアメリカンからの七面鳥という貴重な食料だったのだ。
以来、飼育しやすくて大きい七面鳥は、「縁起物」として、感謝祭、クリスマス、結婚式などのお祝いの席には欠かせないものとなった。
日本に広まらなかったのは、入手困難で、大型のオーブンが普及していなかったため。残念。
  
  聖夜かな水にかそけき火の匂ひ  二川茂徳
(『季語ものしり事典』新海均編 角川ソフィア文庫 2021年)
 「日にち薬」は、広辞苑の六版(2008年刊)には載っていませんでしたが
気になって図書室で調べると

ひ・にち【日日】ひ。ひかず。
――・ぐすり【日日薬】時間が経つにれて症状がやわらいでいくこと。時薬。
(『広辞苑 第七版』新村出編者 岩波書店 2018年)

他の辞書には、すでに載っているようです。
「日薬(ヒグスリ)」という言葉はあるか。〟(レファレンス協同データベース 2018年)
『養生訓』には、

巻六 慎病
 急がずに


 病気を早くなおそうと思って急ぐと、かえってからだをそこねて病気を重くする。
怠らず保養してなおることは急がず、その自然にまかすがよい。
万事あまりよくしようとすると、かえって悪くなる。
(『養生訓』貝原益軒著 松田道雄訳 中公文庫 1977年)
12月25日は、蕪村が亡くなった日です。

第2章 蕪村
 芭蕉庵のかたわらに


 ときにこんな皮肉っぽい寸言(すんげん)を吐くこともあった蕪村ですが、根は芭蕉崇敬(すうけい)の念をいだき続けていました。
それが実を結んだ最たる事業が、「芭蕉庵再興(ばしょうあんさいこう)」です。
安永(あんえい)5年(1776)4月、京の北西に位置する金福寺(こんぷくじ)という、小さな禅宗寺院に、夜半亭一門の面々があつまりました。
芭蕉ゆかりの庵を再興しようという計画の発足式でした。
かつて芭蕉が京・近江を行き来する際、この近くで一服したという言い伝えがありました。
そのころの住職は、芭蕉の句を聞いて涙をこぼしつつ、禅の境地にひたり、芭蕉没後、草堂(そうどう)を「芭蕉庵」と命名したというのです。
(『俳句のきた道 芭蕉・蕪村・一茶』藤田真一 岩波ジュニア新書 2021年)
 それから八十年、かつてあったその庵を、改めて「芭蕉庵」として再建しようという話がもちあがりました。
発起人は自在庵道立(じざいあんどうりつ)という人物で、蕪村と懇意(こんい)の儒学者でした。
蕪村一門は全面的に協力、年二回の句会をもちながら、基金をあつめて建造にかかりました。
発足にあたって、『写経社集(しゃきょうしゃしゅう)』という小冊の句集をまとめました。
句集の顔ぶれは、かなり遠方のひとも加わっていることからみて、名前だけの参加もあったでしょう。
企画を立ち上げ、実現にいたる過程で、各方面から寄付をつのるということは、現代にも通じるやり方ではありませんか。
 5年後の天明元年(1781)5月、「芭蕉庵」は再建されました。
竣工(しゅんこう)にあたって、蕪村は、『写経社集』巻頭に寄せた「洛東(らくとう)芭蕉庵再興記」(庵の由来と再興のいきさつをしるした文章)を、改めて自筆でしたため、金福寺に寄贈しました。
これは現在もたいせつに保存されています。
しかし、蕪村と芭蕉庵の縁(えにし)はこれで終わったわけではありません。
 2年後の秋、蕪村はさそわれて、宇治田原(うじたわら<京都府南部>)できのこ狩りを楽しみました。
その後まもなく体調をくずし、寝つくようになりました。
亡き友召波(しょうは)の十三回忌追善集(ついぜんしゅう)『五車反古(ごしゃほうぐ)』の序文も完璧を期すのは無理だと悟って、できたところで原稿を渡してしまいました。
 病中、「旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る」(47ページ)とよんだ芭蕉末期の心境には達せそうにないとしつつ、12月24日の夜、最後の力をふり絞って、弟子に三つの俳句を書き取らせました。
その三句めがこの句です。

  しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり
 よんだあと、「初春」という題をおいてほしいと言いそえました。
そして翌朝、「此(この)三句を生涯、語の限(かぎり)とし、睡(ねむ)れるごとく臨終正念(りんじゅうしょうねん)にして、めでたき往生(おうじょう)をとげたまへり」(几菫<きとう>「夜半翁終焉記(やはんおうしゅうえんき)」)と、おだやかな最期を迎えたようです。
六十八歳、天明3年(1783)12月25日、夜明け前のことでした。
 葬儀はひと月後の1月25日、かつて蕪村らが尽力(じんりょく)して建てた、金福寺の芭蕉庵のすぐ近くに葬(ほうむ)られました。
これにつけて、かねて遺言ともいうべき一句をよんでいました。
 
  我(われ)も死して碑(ひ)に辺(ほとり)せむ枯尾花(かれおばな)
 「碑」は、道立が境内に建てた芭蕉碑をさしています。
「枯尾花」は、枯すすきのことですが、芭蕉死後につくられた追悼集(ついとうしゅう)の書名でもあります。
「辺(ほとり)せむ」は、かたわらにいつづけたい、いつづけようという、願望や意思を表現しています。
蕪村生涯の祈りのことばです。
願いのとおりに、芭蕉庵、そして芭蕉碑のかたわらに葬られ、いまも京の町を眺めています。
(『俳句のきた道 芭蕉・蕪村・一茶』藤田真一 岩波ジュニア新書 2021年)
 金福寺を訪ねた時の記事が
京都(金福寺~詩仙堂~圓光寺)」(2016年5月9日)

幕末の天皇も12月25日に亡くなっています。

12月25日 慶応2年(1867.1.30) 孝明(こうめい)天皇没(36)(維新史料綱要)。
(『日本史「今日は何の日」事典』吉川弘文館編集部 2021年)

孝明天皇の死因については、暗殺説もあります。
というのは、孝明天皇が存命なら文明開化は、あれほど一気に進まなかったと思います。