2023年12月11日月曜日

下り坂

歩きだした時は、曇っていても暖かかったのですが
風が吹いてきて寒くなり
これから天気が崩れるのだろうと思っていました。
夕方、買い物に出かけると降り出しました。

近畿 12日未明~朝 突風・落雷・急な強い雨に注意」(関西NHK)
朝ドラ「ブギウギ」第11週「ワテより十も下や」 (51)の冒頭のナレーションで

昭和18年6月6日
山本五十六
(いそろく)海軍元帥の国葬が行われました。
午前10時50分多くの国民が起立 東方に遥拝
(ようはい)しました。

チズさんが
皇軍は無敵なのに元帥死んじまって 大丈夫かい?
と呟いていましたね。

山本五十六元帥の動きを解読したのがコード・ガールズと呼ばれたアメリカの女性たち
8月18日の記事に転記しましたφ(.. )

山本元帥国葬」(NHKアーカイブス 1943年)
お別れの会なら分かるのだけど国葬となった故安倍元首相。
それにしてもいろいろ膿が出てくるものです。

自民安倍派 派閥幹部6人含む大半の所属議員側にキックバックか」(NHK 12月9日)

元首相のキャッチフレーズ(?)に「美しい国へ」
本も出している(読んでいませんのでコメントは控えます)。

大阪で支持者の多い政党のキャッチフレーズ(?)
「身を切る改革」
万博に湯水のように税金を使っていてよく言うなぁと思います。
民間企業なら事前に物価の上昇率などを計算に入れた企画書を提出するはず。
小出しにする内に2倍近い増額などあり得ないと思うのだけど。
オリンピックにしても経費や費用などを少なく報告することで
国民の目を誤魔化そうとしているだけだと思う。
山本五十六は、日露戦争の時に巡洋艦日進に乗り組み、日本海海戦において左手指と右下腿部に重傷を負っています。(山本五十六記念館

Ⅲ 人間としての魅力
 凜とした姿勢


 父は明治24年(1891)生まれで、夕食後に、若い頃、見聞したことをよく口にしたが、その話の中に、日露戦争の講和条約が結ばれた後に起こった日比谷騒擾事件があった。
 外相小村寿太郎が全権となってアメリカのポーツマスに赴き、ロシア側全権のウィッテと講和条約を締結したが、その内容に憤激した群衆が東京のすべての交番を焼き払い、各所に押しかけて放火、投石をした。
戦争が連戦連勝であったのに、小村がロシア側に大譲歩をし屈辱外交をおこなった、という避難の声が一斉に起こったのである。
(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)
 私は、日本海海戦を素材に小説に書き、その折、講和条約のことも調べたが、その条約が決して屈辱的なものではなく、妥当なものであるのを知った。
小村に対する関心はつのり、かれを主人公にした小説も書いた。
 三年前、小村の生地である宮崎県日南市に行った時、小村の着ていたフロックコートを眼にし、一瞬、呆然とした。
かれの身長が四尺七寸(1.42メートル)ということを知っていたが、そのフロックコートは、七・五・三の祝いに男児が着るような小さいものであった。
 かれは、親戚の借財をそのまま負っていたので、外交官になってからも生活は貧窮していた。
廃屋同然の借家に座ぶとんが二枚しかなく、客が二人くると、かれは畳の上に坐らねばならず、傘もなく雨に日は濡れて歩いた。
二度、外務大臣に就任した身でありながら、死ぬまで借家を転々とした。
その上、家庭人として不幸で、そのような悪環境にありながら、ひたすら国のために全力をつくした。
 現在の政治家が、とかく選挙の票を得ることのみに専念し、国の将来に眼をむけるのを怠っている節があるのとは対照的に、かれは自分の利益など念頭になく、外交官として凜とした姿勢をくずさなかった。
ポーツマス条約の会議場入り口で、日露全権に捧げ銃をした元アメリカ兵士の老人は、小村が短軀であったという印象などなく、むしろ毅然とした大人物にみえたという回想を持ちつづけているのは、そうした小村の偉大さ故にほかならない。
 講和条約締結後、かれは随員に、
 「日米間には広大な太平洋が横たわっているが、交通機関の発達につれてその距離は短縮され、やがて隣国として武力衝突することになるだろう」
と、太平洋戦争の勃発を予言している。
 かれは、藩閥とは無縁で、政党に属すこともかたく拒んだ。
外交官に徹し、そして死んだ。
その後、日本は、太平洋戦争の敗戦へと急傾斜してゆく。
 明治維新以後の偉大な外交官として、小村の写真が、陸奥宗光、吉田茂の写真とともに外務省外交史料館に並んでいるが、当然のことである。
小さなフロックコートを思い出すたびに、胸が痛くなるのを感じる。
Ⅳ 歴史の町
 小村寿太郎の椅子


 アメリカ北部ニューハンプシャー州の大西洋岸にあるポーツマスという人口二万余の市に行った。
日露戦争の講和会議がおこなわれた地で、その折結ばれた条約は一般的にポーツマス条約と呼ばれている。
 三月中旬であったが零下十度前後の気温で、町には氷状の雪が所々に残っていた。
その小地方都市がなぜ会議開催地にえらばれたのか。
会議がおこなわれたのは夏季で、避暑地でもあるその地が快適であったからである。
 私がポーツマスを訪れたのは、全権小村寿太郎を主人公にした小説を書く準備を進めていたたまで、その地を自ら踏んでみたかったからである。
ハーバード大学東アジア研究所の小久保武氏が案内役を引き受けて下さり、氏の車でボストンからポーツマスに行った。
1時間余のドライブであった。
 私は、小久保氏と同じホテルに部屋をとり、車で町の中をまわった。
静かな港町で、家々のたたずまいも落ち着いている。
 講和会議中、小村全権一行とロシア側全権ウィッテ一行が泊まっていたウエントワース・バイ・シー・ホテルに行ったが、その豪華な造りと環境には驚いた。
木造四階建ての白いホテルで、海の輝きと樹木、芝生が見事に調和している。
 私が意外にと思ったのは、建物も内部も74年前の明治38年(1905)に講和会議がおこなわれた頃と、ほとんど変化がないということであった。
ホテルは時期はずれのため無人で内部に入れなかったが、小村全権が泊まっていた部屋も当時のままであるときいた。
 町の中心部に会議を取材した新聞記者たちの泊まっていたロッキンガム・ホテルがあるが、その風格のあるホテルも外観、内部とも少しの変かもない。
また、ウィッテが足を運んだ教会も当時の写真そのままで、町並みもほとんど変わりはない。
 小説の実地調査に来た私にはまことに好都合だったが、時間が逆行したような不思議な気持でもあった。
 会議場にあてられた建物は、アメリカ海軍造船所内の原子力潜水艦設計場になっている。
当然、所内に入るのは許可がいるが申請を出し、入ることができた。
 案内に立ってくれた広報官はきわめて親切で、会議のおこなわれた建物に導いてくれた。
煉瓦造りの三階建ての建物で、会議のおこなわれたところには設計机が並び、多くの人が仕事をしていた。
 記録写真とは異なって床には合成樹脂製のものが張られ、壁もペンキが塗られている。
しかし、全権団の控室はそのまま残され、ドアのノブも真鍮製の古いものであった。
 「ここに会議のテーブルが置かれていました」
 広報官は、設計机の並んでいる一部をさし示した。
 建物の外に出た私は、入り口の傍の外壁に大きな銅板がうめこまれ、そこに、この建物の中で日露講和条約が調印された旨が彫りこまれているのを見た。
建物が歴史的なものとして扱われていることを知った。
 広報官は、私たちを他の建物に連れて行き、内部の壁に飾られた大きな額をおろした。
額の中には、横に筋の入った変哲もない板が物々しくおさめられ、その上に菊の御紋章とJAPANの文字を刻んだ真鍮板がはられていた。
係の人の説明をきいた私は、呆気にとられた。
それは、会議中、小村の椅子が置かれていた部分の床板で、改装の折に切りとって額に入れ、飾ってあるのだという。
 私は小久保氏とその額を両側から持たされ、広報室専属のカメラマンのフラッシュを浴びた。
 私は、日本を発つ前、ニューヨーク総領事館の領事であったことのある松村正義氏に二度会っていた。
松村氏は、講和会議のおこなわれた建物を解体して日本に送り、明治村に残す仕事を託され、ポーツマスに行った。
建物の移送は不可能と知り、せめて小村全権の坐った椅子を、と願う。
そして、ポーツマス市在住の日露講和条約研究家の元大学教授トーマス・ウイルソンという人に会ってその所在をたずねたが、言葉を濁して教えてくれなかったという。
 松村氏は、後になってその椅子をニューヨーク州トロイ市のエムマ・ウイラード女学校で発見し、またウイルソン氏が椅子の所在を教えなかったのは、その椅子をアメリカの歴史的遺産と考え、日本に持ち去られるのを欲しなかったためであることを知った。
 私は、講和会議開催中の当時の町の動きを知りたいと思い、ウイルソン氏を訪れた。
恐ろしいほど体の大きい七十年輩の人で、待ちかねていたように書斎に招じ入れてくれた。
挨拶がすむと、氏は、皮張りの椅子をさし、小村全権の坐った椅子です、坐りなさい、と言った。
私は、氏のすすめるままに坐り、小久保氏の通訳で氏の話を録音におさめた。
 椅子はトロイ市にあったが、いつの間にかウイルソン氏が入手し、書斎に保存するようになっている。
松村氏とのやりとりを知っていただけに、その椅子がウイルソン氏の家にあることが面白かった。
 建物、額に入れられた床板、椅子とつづけて眼にした私は、ポーツマス市が講和会議を市の重要な歴史として考えていることを知った。
と同時に、額に入れた床板にみられるように、その保存の仕方にも驚きを感じた。
アメリカは歴史が浅いからそのように大切にするという説があるが、私には解釈を下す資格などない。
ただ私は、自分たちとは異質のアメリカ人気質をみたのである。
(『白い道』吉村昭 岩波書店 2010年)

ポーツマスの旗・外相小村寿太郎』(新潮文庫)
今朝の父の一枚です(^^)/

第1章 ビル街の鳥――ハクセキレイ
✤ネオン街で眠る


 ハクセキレイが最も都会的な鳥として話題になったのは、何といってもネオン街で夜を過ごすことである。
真っ白な野鳥が、数百羽、時には千数百羽もが繁華街や駅前のビルなどに集まって夜を過ごす光景は、都市鳥の極めつけてといってもいいだろう。
 ハクセキレイは、冬季には、橋の裏側の配管・配線などにとまって集団で夜を過ごす習性は昔から知られていた。
しかし、人や車でにぎわう繁華街の街路樹やビルの窓枠などにびっしりと並んで夜を過ごすようになったのは、ごく最近のことである。
 首都圏では、柏駅西口の銀行の看板、高崎駅前の高島屋デパートの外壁、渋谷駅に近い協和埼玉銀行支店前の街路樹(イチョウ)、大手町合同庁舎前の街路樹(イチョウ)などが有名だ。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)