2023年12月6日水曜日

暖められて

昨夜の雨が暖められて水蒸気になっているようで、
遠くの山がかすんで見えませんでした。
この天気は、

西~北日本 今夜から大気不安定 落雷や激しい突風などに注意」(NHK)
父が釘付けになったニュース

米軍統治下の奄美大島 カラー映像発見 大島紬の製造工程を撮影」(鹿児島NHK)
当時の様子が映っていて懐かしいと呟いていました。
祖父も大島紬を織っていました。
父の話では、米軍は奄美大島には駐留していたけど、徳之島には来なかったようです。

戦時中の父の体験
谷間をグラマン戦闘機が飛来するのに気がつき松林に隠れていると
パイロットの顔が見えるくらい低空飛行をしていったそうです。
飛んでいった先で、兵隊でない住民に向かって機銃掃射、
辺りは血の海になっていたと話していました。
イスラエル軍 地上侵攻進める “民間人犠牲やむなし”」(NHK)

イスラエルは、パレスチナの人たちを皆殺しにするつもりだと思う。
彼らは、これまでパレスチナの人々を虐待してきた。
その結果、今回の事態を招いたことを承知している。
再び、パレスチナの人々が襲ってこないか不安なんだろう。
その不安を消すためには、たとえ、赤ん坊であろうが殺戮するのもやむえないと思っている。
朝ドラ「ブギウギ」、今週の「大空の弟」も辛いですね……
戦場へ紙切れ一枚で送り出され
戦死したことを紙切れ一枚で知らされる。
笠置シヅ子さんの弟・八郎は仏印(フランス領インドシナ)で戦死しています。
  英霊

 辞典には、大別して二つの字義が示されている。
一つは、「すぐれた人の霊魂」、一つは「死者の霊の尊称。とくに戦死者の霊」で、戦中用語として後者が妥当である。
 第二次大戦中に成人した日本人なら、当時の「英霊」が、どんな形状のものだったかを記憶しているにちがいない。
それは両手で捧げ持ち得るほどの大きさの、ほぼ立方体の木の箱で、白布で被われている。
「英霊」は必ずその箱の中に入っているのだが、公けには、それをあけて中を見ることは許されない。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)
 この「英霊」の実体はなにか。
白布で包まれた木の箱の中味はなにか。
それを手渡され、これはあなたの許へ帰っておいでになった「英霊」なのですよと、おごそかに告示されて、当初はそのものものしい荘厳な雰囲気に気押(けお)され、有難く受け取ってしまうが、要するに箱の中味が戦死した近親者の遺骨、つまり「お骨(こつ)」であることを、当時のしきたりによって知らされている。
だから受けとるほうも、いかにもしおらしげに、しかし、「英霊」の近親者であることを十分に意識しながら、凜(りん)とした態度で受けとらなければならない。
それが戦時の日本国民に強いられた一つの<社会的通念>であり、エチケットだった。
 戦場での死は、死者である当人ばかりか、当人の遺族一同にとっても名誉ある事実であり、白い布で包まれた箱は、その〝名誉ある事実〟を具象化したものに他ならない。
その遺骨の箱、つまり英霊は、ほとんど例外なく儀式のとりおこなわれる中で遺族に手渡され、やがて遺族の自宅に持ち帰られた。
 英霊の実体、つまりその箱の中味が本当に自分の父なり兄なりの遺体を焼いた灰であるかどうか、そんな疑念を抱くことは、当時の一般的通念の中では<禁忌>の一つとされていた。
疑うなどは、もってのほかであった。
おごそかに自宅の仏壇なり祭壇なりに安置し、朝夕の礼拝をしていればよいのである。
 しかし、ひそかに囁かれる内緒ばなしは、いつの世にもあるもので、こっそり箱の中を見ると、砂のようなものが少し入っていて、それは骨を焼いた灰のようでもあり、そうでないようなでもあった、つまり、遺骨どころか、ただの砂であったのかもしれない、というような流言は、いつのまにか国民の間にひろまっていたし、なにも入っていなかった、という証言も、無いではなかった。
 さらに深刻なのは、「英霊」を収めたはずの箱が、荒縄で十文字にしばられて遺族のもとに帰されてきたので、おそるおそる然るべき筋に伺いを立ててみると、あの遺骨の主は、お国のためにならない死に方をした、つまり軍隊内での犯罪者として死んだのだから、〝縄つき〟で帰されてきたのだ、と説明された――という噂を聞いたこともある。
当時の日本なら、ありそうなことである。
 また、私が見たものに、「英霊」のピラミッドがある。
それは昭和19年3月2日のことで、初年兵の私は、はるばる満州の新京から部隊ごと<移送>されて青森駅につき、すぐ青函連絡船の乗船場へ向かわされたが、桟橋の手前、乗船者の待合室あたりに、見上げるばかりの白い巨大なピラミッドがあるのを見た。
 それは、他ならぬおびただしい数の遺骨の箱の堆積であった。
あたりが線香くさいと思っていたが、やはりそれは山なす英霊のピラミッドの前に焚(た)かれている香の匂いであった。
 それにしても、なぜ連絡船の乗り場などに、白い箱の山ができているのであろう。
 乗船してから、初年兵の私は、連絡船の船員らしい人物に、そのわけをきいてみた。
彼は言った。
「そりゃそうだろう。この船がアメリカの潜水艦にやられて、英霊が海に沈んでみろ、北海道の遺族になんといって申訳するんだ。お前らとちがって、あっちは神様なんだからな……」
 皇軍(天皇の軍隊)の一員としてすでに「名誉の戦死」をとげた軍人の遺骨は、いやしくも故山(こざん)の北海道を目前にして、津軽海峡をわがもの顔にして遊弋(ゆうよく)しているアメリカ海軍の潜水艦などの砲撃で海底に沈んだりさせてはならない。
満州から転属してきた北海道とは無縁の兵隊などとはちがい、大切な遺骨すなわち英霊には、よくよく海峡の安全を見定めてのちでなければ、海など渡ってもらえないのだ。
「それくらいの理屈がわからないのか」、船員はそう言っているのであった。
 なるほど、それはたしかに理屈だ。
〝身を鴻毛(こうもう)の軽きにおく〟とは、入隊第一日に訓示される兵士の心得の一つである。
自分の肉体の生命などは、「大君(おおきみ)」(神格化された天皇)の命令の前には、一羽の鳥の一枚の羽根ほどに軽いものである。
それを思えば、戦場で死に、<靖国の神>とも崇められるべき「英霊」を収め、密封した白い箱は、遺族の手に確実に還されるまでは、万難を排して安全な場所に保護されていなければならぬ。
 不幸にして当時の津軽海峡は、ほとんど<敵国>の制海権下に8あった。
無事にそこを航海して函館港に入港できれば、よほどの幸運としなければならなかった。
 満州などから、のんきに列車にゆられてやってきた関東軍の新兵である私たちは、この船員のぶっきろぼうな説明をきいて、はじめて現実のきびしさを知ったのであった。
 私たちは、内地から直接に関東軍に入隊した新兵の部隊だったが、ろくに新聞などを見ない生活の中にいたせいか、当時の戦況の推移をよく知らなかった。
 しかし、いま当時の記録を見ると、私たちが北海道出身の勇士の「遺骨」よりひと足先に海峡を渡らされた昭和19年3月は、実は「本土決戦」が時局語化して二か月後という時点であった。
(『戦中用語集』三國一朗 岩波新書 1985年)

山崎部隊 合同慰霊祭」(NHKアーカイブス 1943年)