2023年12月17日日曜日

冷たい風

昨日までの暖かさから一転、今朝の寒いこと…
冷たい風も吹いていて落葉が道を覆っていました。
メタセコイヤの落葉の上を歩くとフカフカしていて絨毯のようでした。

近畿 各地で冷え込み 寒気ピーク17日夜~18日朝の見通し」(関西NHK)

かと思うと、今頃…
台風17号が発生 フィリピン東海上 日本へ直接の影響ない見込み」(NHK)
 15日(金)、雨が降っていたので掃除をすることにしました。
掃除機を持ち上げようとすると背中にピリッと刺すような痛みが走りました…
痛みに堪えながらトイレ掃除などをしていました。
午後から病院で心臓リハビリ。
トレッドミルをいつもより負荷を軽くして行ないました。
帰宅後、買い物などをしたのですが…

16日(土)は、起き上がるのも大変
これまでのぎっくり腰も翌日がきつかった。
一番大変なのはトイレ。
使用することなく旅立ったのですが
母が退院する時のために取り付けていた手摺りのおかげで
なんとか座ったり立ったりすることができました。
今朝も痛かったのですが、歩けそうなのでリハビリ散歩に出かけました。
辛いのは車から降りる時…
痛いのを我慢して時間をかけて降りました。
かがまないようにして撮影しました。

朝ドラ「ブギウギ」で母親のツヤさんが、亡くなる前、アサさんに腰の按摩をしてもらっていました。
30年以上も前のことですが、
小さいお子さん、それも障碍児だったので
腰が痛いのを我慢していて病院で診てもらわなかった。
そのうちに子宮がんが末期になってしまい亡くなった方がいました。
NHK映像ファイル あの人に会いたいアンコール「 早坂暁(脚本家)

早坂さんには もう一つどうしても書かなければならない事がありました。
海軍兵学校へ面会に来る途中原爆に遭って亡くなった妹、春子さんの事です。

早坂暁
私の妹、捨て子と言いますか
うちの店の前に置いていかれた女の子だったんですけど
一緒に育って向こうは、本当のお兄ちゃんだと思って
なんとなく僕は好きだったんです。
だんだん中学生になって好きだと思ってた。
僕が海軍兵学校に入る時、
どうやら母親は、妹、春子に言ったらしいんです
「お前は兄ちゃんのことどう思う」って言ったら、「好きだ」という。
兄弟としてなんだけど思いは好き。
「本当に好きになってもいいんだよ」というふうな言い方をしたらしんです
「お前は血がつながっていないんだから」
すごくびっくりしたけど、すごく喜んだ。
本当にうれしそうだったと言うんです。
そしてどうしても僕に会いに行くって
「言いたいことがある」って、「行かしてくれ」と言ったらしい。
それが8月だったんです。
廃墟の広島でたくさんのリンが何百何千という
暗い色なんですけどリンがいっぱい燃えている
そして考えてみると、そのリンの中に自分の妹のリンがあったわけなんです。
朝ドラ「ブギウギ」では村山愛助はスズ子よりも十歳近い年下。
スズ子の前に壁として立ちはだかる村山トミを演じる小雪さんの夫も年下ですね。
先日、ツヤが亡くなってから梅吉が酒で寂しさを紛らわしていた時に紹介した
垣添忠生さんも年上の方と結婚しました。
垣添さんも一直線の性格のようで、両親に反対されて駆け落ちされています。
第二章 駆け落ち
 傘一本の家出


 何の変哲もない一本のこうもり傘――。
 それが私たちの夫婦の始まりだった。
 出会ってひと月足らず、「彼女と結婚したい」という想いは、日増しに募っていった。
 私は、医学部を卒業してまもない二十六歳。
まだ医師免許も持っていない研修医ではあったが、結婚して家庭を持っても何とかなるだろうと楽観的に考えていた。
(『妻を看取る日 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録』垣添忠生 新潮社 2009年)
 しかし、事はそう簡単には運ばなかった。
なぜなら、彼女が三十八歳の既婚者だったからである。
子供はおらず、十数年暮らした夫とはすでに別居していた。
でも、離婚はまだ正式に成立していなかった。
 また、彼女は病弱であった。
このことも世間一般では結婚の妨げとなるだろう。
年齢と病弱であることを考えると、子供は望めない可能性が高い。
だが、子供のいない人生だっていい、私は思っていた。
 彼女の年齢も結婚歴も、そして病気がちなことも、私にはまったく問題とはならなかった。
「この人しかいない」という想いに、わずかでも迷いが入り込むことはなかったのだ。
 かといって、「恋」という熱病にかかって浮かれていたわけではなかったと思う。
燃え上がる想いの一方で、冷静に考えている自分もいた。
あの頃に戻り、じっくりと考えてみたとしても、私は同じ決断をしたと断言できる。
 もっとも、私より冷静だったのは彼女のほうである。
離婚して十二歳下の男性と再婚するとなれば、考えることも多かったに違いない。
私よりずっと経験が豊富で、精神的にはるかに大人だった彼女は、私に出会って、
「こんなに世の中のことを知らないで、すくすく育ってきた人もいるのか」
 と驚いたそうだ。
 彼女が結婚していた男性は、ジャーナリストだった。
彼の仕事の関係で、二人は一年ほどドイツに住んでいたこともある。
 私は会ったことはないが、聞くところによると、非常に頭のいい人だったという。
ただ、頭がよすぎてクールなところにだんだん耐えられなくなっていたと、妻はのちに話してくれた。
波長が合わなかった、ということなのだろう。
 四十年前の離婚は、今よりもはるかにエネルギーを要したはずである。
しばらく経ってから当時の気持ち訊いたことがあるが、彼女の背中を押したのは私だったという。
夫と別居中に現れた私の存在が、彼女を離婚へと踏み切らせたようだ。
 そのころ、私は杉並の実家に両親、兄弟たちと住んでいた。
 ある日、両親がそろっているところを見計らって、
「結婚したい人がいる」
 と切り出した。
二人は驚いた様子で、話を聞こうと身を乗り出してくる。
「十二歳年上で、これから離婚することになっているんだ」
 みるみる両親の表情が険しくなった。
「あなた、何を言っているの。冗談はよしてちょうだい」
 母親の叫びにも似た声に、部屋の空気は凍りついた。
 どんな女性なのか説明する前から、拒絶反応である。
父親も頭に値が上がってしまい、それ以上、私の話には耳を貸してくれなかった。
 今でこそ、女性が年上の結婚は珍しくなくなり、ひとまわりほど上でも大騒ぎすることはなくなった。
離婚、再婚も当たり前のようにおこなわれている。
ただ、何せ四十年前である。
当時、この条件に反対しない親はいなかっただろう。
  もちろん、私とて最初からすんなりわかってもらえるとは思っていなかった。
とにかく根気強く説得を続けるしかない。
 しかし、その後も変わらなかった。
私は何度となく両親との話し合いを試みたが、話し合うどころか、聞く耳さえ持ってもらえなかった。
壁のように頑な両親の態度は、ビクともしなかった。
 彼女を家に連れてきて紹介するなど、もってのほかである。
 特に大変だったのは母親だった。
まなじりを決して、
「あなたがその人と結婚するなら、私は自殺します」
 と言い出す始末だ。
 それまで母親と散々やりあっていた私は、ほとほといやになった。
そんなことで自殺するならしてくれと、開き直るしかなかった。
 両親の様子を見ていた兄弟たちも、私に背を向けるようになった。
家の中では孤立無援、四面楚歌である。
会話がなくなり、針のむしろに座っているような毎日だった。
 いてもたってもいられなくなり、私は傘を一本つかんで家を飛び出した。
 向かったのは彼女の家である。
身ひとつ、でなく傘一本で彼女のもとに転がり込み、その日から一緒に暮らし始めた。
 傘を持って出たのは、たんに雲行きが怪しかったから、であった。
(『妻を看取る日 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録』垣添忠生 新潮社 2009年)