2023年12月24日日曜日

クリスマスイブ

今朝も気温は低かったのですが、風がほとんどなかったので霜が降りていました。
一方、雪の被害が出ています。

大雪 輪島市で10地区の97世帯が孤立状態 790戸が停電」(NHK石川)
今朝は、ぎっくり腰もだいぶ楽になりました。
12月21日の日記に「日にち薬」と書きましたが、どうも関西の方で使われているみたい。
日にち薬」(新聞に載らない内緒話 コラム 長野朝日放送 2017年7月)

 ヒニチグスリ

 秋風が吹き出すと、どっと疲れが出てくる。
夏から秋への急な変化からか、少し寝込んでしまった。
見舞いに来た祖母が、「夏の疲れやろうし、ヒニチグスリやわ」といって、帰った。
日数がたてば、自然になおる。
ゆっくりと養生することをヒニチグスリという。
そのことばには、気をもまずに待つようにという心づかいがこめられている。
しかし、忙しい現代、そうゆっくりとはヒニチグスリをとってもいられない。
(『京都歳時記』宗政五十緒・森谷尅久編集 淡交社 昭和61年)
ワンちゃんがサンタさんを背負って、
子どもたちにプレゼントを配るのかなと思ったらトナカイでした(^_-)
今日は、クリスマスイブ

 サンタクロース 彼には素敵な奥さんがいる

 サンタクロースはクリスマスの傍題。
彼には献身的な奥さん、「ミセスクロース」(Mrs.Claus)がいる。
英語圏ではお馴染(なじ)みの存在で、19世紀半ばのアメリカの書籍「A Christmas Legend」の中でその存在が言及されている。
イギリスではマザークリスマスと呼ばれている。
ミセスクロースは夫と同じ赤と白の衣装を身にまとい、老齢で白髪、メガネ姿で描かれることが多く、エプロンを着用していることもある。
各地で行われるクリスマスイベントなどにも登場し、子ども達にも大人気である。
普段は妖精(ようせい)たちとクッキーを焼き、プレゼントを運ぶ用意、洗濯、トナカイの世話などをして夫の活動を陰で支えている。
落ち着いた忍耐強い優しい状勢として描かれる。
 一方、フィンランドのミセスクロースは「ヨウルムオリ(ヨウルマー)」。
魔女の家系に生まれた芯(しん)の強い神秘的な女性だという。
「ヨウル joulu」とは、フィンランド語で「クリスマス」、「ムナリ muori」とは「おばあちゃん、老いた母」などの意味。

  この出逢ひこそクリスマスプレゼント 稲畑汀子
(『季語ものしり事典』新海均編 角川ソフィア文庫 2021年)
今日の朝日新聞「天声人語」

…前略…

▼母親たちは全員、病気で子どもを亡くした経験を持つ。
坂上さんは32年前から、入院中の子どもたちの心を癒やすために一緒に遊ぶボランティアを続けてきた。
昨年、息子を失った母親から「グリーフケアの場が欲しい」と相談され、みんなで料理をしてはどうかと思いついた。
▼悲しすぎて本も読めない。
家にいるとつらいのでただ外を歩く――。
喪失感と孤独に苦しむ親たちを、坂上さんは長く見てきた。
子どもの闘病中は看護師や介護スタッフらが懸命に支えてくれるが亡くなった後のサポートはない。
▼母親の一人は3年前、小学生の息子を脳腫瘍(しゅよう)で亡くした。
街が浮き立つこの時期は特に心が沈む。
だが最近、戦禍や貧困にさらされた子どもの報道に目が行くようになった。
「気づかずに生きてきたけれど、暗闇のクリスマスもある。今でも息子に教えられています」という。
▼ここなら泣いても笑ってもいい。
悲しみを包み込む小さな救いの場は、ハウスグラマ(おばあちゃんち)と呼ばれている。
 2023・12・24
 朝ドラ「ブギウギ」第12週「あなたのスズ子」 (60)

茨田りつ子が

そうだ。 モデルしてみる?
美術学校で ヌードモデル。
私 音楽学校の学費を稼ぐためにやってたのよ。
冗談よ。 その華奢
(きゃしゃ)な体じゃ無理。
魅力的じゃないもの~。


とスズ子に言っていましたね。
淡谷のり子さんの自伝にスズ子(笠置シヅ子)ではなく、ある小説家のことを書いています。
 失神したヌードモデル

…前略…

 知った人など誰もいないと思っていたモデルたちの中で、その時、見たことのある顔にぶつかったんです。
その人はピアノ科の学生で、私のクラスメートだったんですね。
そりゃあ、お互いにびっくりしましたよ。
そしてすっかりうろたえちゃって……。
こんな仕事をしているのが知られて恥入りたい気持ちだったんですが、考えてみれば相手も同業ですからね。
その人は有名な彫刻家の専属モデルだということでした。
彼女も苦学生だったんです。
私と同じ……。
彼女も頑張っているんだ、と思うと私の中に勇気が湧いてきました。
 先行きの不安がすっかり消えたわけではありませんけれど、その人の存在が私を力づけてくれたことは確かです。
 のちに作家になる林芙美子さんも、その頃モデルをやってらしたんですよ。
林さんには悪いけど、あの人スタイルが悪くて、全然売れなかったようですけど……。

…後略…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
 (「一度だけステージで泣いた」つづき)

 九州、関西、名古屋……駐屯地のあるところには全国どこにでも慰問に行きましたね。
九州が特に多かった。
楽団員も次々に出征したあとは、内地の演奏旅行には妹を連れ、妹のピアノで歌うようになっていました。
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
 長崎に行った時、軍艦島っていう小島があるんですが、そこに頼まれて慰問に行ったんです。
兵隊さんを前に仮設のステージで歌った。
でも兵隊さんたちは歌を知らないのか、パチとも拍手しない。
ただボーッと見てるだけなの。
タンゴなんかも歌ったんだけどウケないから、じゃ日本の歌曲だったら知っているだろうと思って『宵待草』なんかを歌った。
でも反応なしなんです。
拍手が来るのは後ろからばっかりなんですね。
なんでだろうと思って振り返って見ると、それが外人の捕虜たちなんです。
その人たちが拍手してたんですね。
 で、私は前の兵隊さんたちは無視、捕虜たちのほうに向き直っちゃって、ここぞとばかりに歌ったんです。
ウケましたね。
捕虜たちは大喜びですよ。
前の日本の兵隊さんたちは田舎出の人が多いらしくて、なんにもわからず、あっけにとられていましたね。
 そのあとがたいへん。
将校が「あの態度はなんだ!」って。
だから言ってやったんです。
「私は芸人ですよ。ウケるほうに向くのは当たり前でしょ。前にいる人たちは私がなにを歌ったって拍手ひとつしないじゃないですか!」
「あんなわけのわからん歌を歌うからだ」
「あれはアルゼンチン・タンゴですよ。あれだけは許可になってるのをご存知ないんですか? しかも日本語で歌ったでしょ。だいたい、兵隊さんが聴きたいからというから、私は無料でこうやって歌っているのに、それを拍手もしないで、反対に恥かかせたじゃありまえんか!」
 歌手というのは拍手があればあるほど調子に乗って何曲でも歌うもんなんですよ。
反対にウケないとつらい。
恥ずかしいですよ。
いまでも歌ってて、何かの拍子にシラけてしまったりすると、これ以上いやな気持ちってないですからね。
 それにしても、よくあんな反抗ができたものだと思います。
兵隊さんに背中向けて歌って、将校には啖呵切るなんて……。
だからにらまれるんですよね。
これもあと先考えない性格なんでしょうね。
 慰問に回っていた時のことで、いまでも忘れられない光景があるんです。
戦争はいよいよ敗色濃く沖縄決戦が叫ばれていました。
いま思うと、特攻隊員たちに最後のはなむけとして歌を聴かせるために、私が派遣されたんですが、九州の特攻基地を回ったんですよね。
 ある基地でのこと、会場の隅っこに二、三十人白鉢巻をした兵隊さんがいる。
たぶん十六、七歳でしょう。
みんな、まだあどけないんですよ。
会場のほかの古参兵たちとは違う。
童顔なんです。
世話役の人に聞いてみると、「あれは特攻隊です」って言うの。
そして続けて「もし淡谷さんが歌っている間にも命令が出れば、彼らはすぐ出撃しなければなりません。歌の途中で失礼ですが、その時はどうぞお許しください」って。
 ああ、せめて私の歌が終わるまでいてほしいって、祈るような気持ちで歌いました。
ところがやっぱり命令はきてしまった。
すっといなくなれってくれればいいのに、少年たちは静かに起ち上がると、ほほえみを浮べて、ひとりひとり私に敬礼をして、その場をあとにしていくんです。
 その時の少年たちのまなざしが心に焼きついて離れないんです。
これから死地に向かうというのに澄みきっていたんです。
 私は歌を歌いながら頭を下げて、敬礼に応えていましたが、涙が出始めたらもう止まらないんです。
私はステージで泣いたことのない人間です。
お客さまを感動させて泣かすのが私の仕事であり、私自身はどんなに悲しくとも泣くことはおろか、悲しい顔すら見せてはいけないと自戒してきたのです。
でも、あとにも先にもあの時だけは涙を止めることができなかったんです。
「ちょっと泣かせてください」ってお願いして、兵隊さんたちに背中を向けて泣きました。
年端もいかない少年たちが片道切符だけを手にして出て行くんですよ。
それも微笑すら浮べて。
泣かずにいられませんでした。
…後略…
(『女の自叙伝 歌わない日はなかった』淡谷のり子 婦人画報社 1988年)
特別攻撃隊出撃」(NHKアーカイブス 1945年)

偉勲 體当たり震天隊」(NHK 1945年)

航空特攻作戦の概要」(知覧特攻平和館)