2023年12月29日金曜日

仕事納めかな?

公園に向かう途中、トラックや業務用の車などが少ないなぁと思いました。
昨日が、仕事納めかな?
病院は、午後から休診なので心臓リハビリもお休みです。
現役を退くと季節感などが薄れてしまいます(^^ゞ
道路はすいていたけど…

コロナ5類移行後 初の年末 空港 新幹線 高速道路の混雑は?」(NHK)
 昨日の、【連続テレビ小説】ブギウギ 「今がいっちゃん幸せや」(64)
防空壕で赤ん坊が泣いているのに男性が
「やかましいな!そんなに泣かせたら敵機に見つかっちまうわ。
黙らせるかこの防空壕から出ていけ!」と、怒鳴った。
小夜さんが
んなことあんめえ。赤ん坊の泣き声が敵機に届ぐわけねえっつの。
本当は おめえが泣きてえんでねえの!? おっかなくて おっかなくて。

と諫めますよね。
小夜に、「偉い!よく言った!」と拍手をおくりたくなったし、
福島のことばで言ったのもいいなぁと思いました。
標準語で言うときつくなりますが、方言は、いろんなニュアンスを醸し出します(^_^)b
沖縄の人に向かって「日本語がへた」と言った人がいますが……

バスや電車の中で赤ん坊が泣くと怒り出す人がいるとネットやニュースをなどで見ることがあります。
赤ん坊や小さい子は、その場の雰囲気などを敏感に感じて我慢できなくなることがあります。
赤ん坊は、泣くのが当たり前なのですが、寛容の心がなくなってきていると思う。
少子化対策とよく言われるのですが、子育てのし辛い社会になっている。
高齢の男性に無理解な人が多いのは、現役の頃に仕事中心で子育てを妻に押しつけていたのかなとも思います。
朝日新聞で石垣りんさんのエッセイが二日続けてとりあげられていました。

折々のことば 鷲田清一 2950

 せつない、ということばの重みは、心の中のどの部分に寄りかかろうとするのでしょうか。 
        石垣りん

 家族6人の生活を銀行員として独り支えてきた詩人。
入院中の叔父を見舞い心ばかりの金を手渡した時、「せつないのぉ」と叔母が言った。
いろいろな感情が押し寄せ、錯綜(さくそう)する中、「納められる税金を『せつなく』受け取って、大事に使ってくれる施政者はいないのでしょうね」と呟(つぶや)く。
随想「せつなさ」(『朝のあかり』所収)から。
 2023・12・26
  せつなさ

 のし袋に〝お見舞〟と書いて、少々の紙幣を入れて行きました。
それをオバに渡すと、「まあ、あんたがこれを」とおしいただくように受け取ると、ひとりごとのように、けれど私のほうを見ながら「せつないのぉ」と申しました。
 それはすこし複雑な言葉でした。
通常なら「どうも有難う」と礼をいうか、「すみませんねえ」とわびるか、「そんな心配はしないでよかったのに」などと、挨拶するでしょう。
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)
 オバは伊豆の海辺の町から、東京の大病院へ入院した八十三歳の夫に付き添って、来ていました。
この二人に六人の子がいて、それぞれが家庭を持ち、結構に暮しています。
オバ夫婦も、ちいさい旅館の主人です。
私といえば、定職もないひとり暮しで、あまり結構にはみえない、その辺の事情を親類の者は、とうに見通しです。
 その私が包んだ金を、オバは受け取る際に思わず「せつないのぉ」と、お国なまりで言ってしまったのでした。
持参したわずかな志さえ、相手の気持に負担をかけてしまう、そんな自分を、これも通常なら恥じるのがほんとうなのでしょうが――。
私は久しぶりに飾りかえのない人情にふれたと思いました。
 せつない、ということばの重みは、心の中のどの部分に寄りかかろうとするのでしょうか。
寄りかからせるやさしい部分は、どこにどのようなかたちで存在するのでしょうか。
 うれしさとつらさ。
有難さとすまなさ。
恋しさと恨めしさ。
いろいろな感情が、その時その時で違った混ざりかたをする、そのせつなさ。
 話が飛びすぎるかも知れませんけど、じきに三月です。
所得税確定申告の期限を前にして思うこと。
私どもの懐具合を察してくれる人、納められる税金を「せつなく」受け取って、大事に使ってくれる施政者はいないのでしょうねえ。
  (「公明新聞」1977年2月17日)
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)
折々のことば 鷲田清一 2951

 お嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで――。 
 石垣りん

 銭湯で、一人暮らしと思(おぼ)しき女性から、衿(えり)を剃(そ)ってくださいと剃刀(カミソリ)を差し出された。
明日「嫁入る」のだと言う。
前夜に「美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている」と、詩人は思った。
こっちがお礼を言いたいほどだったと。
随想「花嫁」(『朝のあかり』所収)から。
 2023・12・27
 花 嫁
 
 私がいつもゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。
そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりの貧弱なお風呂だ。
 その晩おそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。
手をとめてそちらを向くと「これで私の衿(えり)を剃(そ)って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。
剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断わると「いいんです、ただスッとやってくれれば」「大丈夫かしら」「ええ、簡単でいいんです」と言う。
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)
 ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」私は二度びっくりしてしまった。
知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突(とうとつ)なら、そんな大事を人に言うことも驚かされた。
でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。
私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。
明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。
 剃られながら、私より年若い彼女は、自分が病気をしたこと、三十歳をすぎて、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、今度縁あって神奈川県の農家へ行く、というようなことを話してくれた。
私は想像した、彼女は東京で一人住いなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない。
そしてお嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで――。
私はお礼を言いたいような気持ちでお祝いをのべ、名も聞かずハダカで別れた。
 あれから幾月たったろう。
初々しい花嫁さんの衿足を、私の指がときどき思い出す、彼女いま、しあわせかしらん?
   (「暮しの手帖」1967年秋号)
(『朝のあかり 石垣りんエッセイ集』中公文庫 2023年)

あの人に会いたい(石垣りん)」(NHKアーカイブス)
今朝の父の一枚です(^^)/
昨日、野鳥を撮影している方と
最近、特に今年は野鳥が少なくてなかなか出会えませんねと話していました。
今までよく出会っていたカメラマンも何処か別の場所へ撮影に行っているそうです。
私の場合は、リハビリで歩いているので会えなくてもいいのですが…
父は、野鳥をなかなか写せないので残念がっています。

第1章 ビル街の鳥――ハクセキレイ
  ✤ネオン街で眠るつづき
 
 柏駅西口の場合には、夕方になると、つぎつぎと銀行の看板の文字盤や窓枠などにとまり、その数は1000羽を越えることもある。
駅前なので、建物の真下は帰宅を急ぐ人でにぎわい、車のヘッドライトや騒音、ネオンの光が点滅するにぎやかな場所である。
初めてこのハクセキレイの塒(ねぐら)を見た人は、どうしてこんな場所で野生の鳥が夜を過ごすのか不思議に思うにちがいない。
 渋谷駅に近い協和埼玉銀行前のイチョウの木でも、木の下は人や車でにぎわい、さらに首都高速道路に面していることもあり交通量はきわめて多い。
ここでは、イチョウが葉を落してしまった1月~2月になっても、ハクセキレイが塒として利用する。
葉のない枝に数百羽もの真っ白な野鳥がとまって夜を過ごす様子が、歩道から丸見えである。
しかも、近くのビルの屋上で点滅しているネオンの中に飛び込むハクセキレイもいる。
ネオンの点滅も気にしないばかりか、ネオンから発生する熱を利用して越冬しているようでもある。
もっとも、地上を歩いている人のほとんどは、頭上に眠る数百羽の小鳥には気づかないで通り過ぎていく。
…つづく…
(『都市鳥ウオッチング 平凡な鳥たちの平凡な生活』著:唐沢孝一、絵:薮内正幸 ブルーバックス 1992年)