2022年10月15日土曜日

雲がない…

雲がない快晴で歩いていると汗ばむくらいなんですが
もう準備が始まっているそうです。

近づくウインターシーズン、スキージャム勝山でリフト取り付け……、12月17日営業開始予定」(福井新聞)
 安田菜津紀さんのTwitterに

《母富子さんは1974年、強盗に入った米兵にブロック片で頭を殴られ、頭蓋骨骨折による脳内出血で亡くなった》

《「この日数は、基地押し付けと抵抗がこれだけ続いていることを示している。本土の人が見れば、放置してきた恥ずかしさが出てくるはずだと思う」》


ひろゆき氏に「汚い字」と言われた掲示板 作った住民、母を殺された過去「腹を割って話してみたい」〟(沖縄タイムス 10月13日)
1927年『文藝戦線』4月号に初出の随想です。

  戦争について

 ここでは、遠くから戦争を見た場合、あるいは戦争を上から見下ろした場合は別とする。
 銃をとって、戦闘に参加した一兵卒の立場から戦争のことを書いてみたい。
(『黒島伝治作品集』紅野謙介編 岩波文庫 2021年)
 初めて敵と向いあって、射撃を開始した時には、胸が非常にワクワクする。
どうしても落ちつけない。
(やや)もすると、自分で自分が何をしているのか分らなくなる。
でも、あとから考えてみると、チャンと、平素から教えならされたように、弾丸をこめ、銃先(つつさき)を敵の方に向けて射撃している。
左右の者があって、前進しだすと、始めて「前へ」の号令があったことに気づいて自分も立ち上る。

 敵愾心(てきがいしん)を感じたり、恐怖を感じたりするのは、むしろ戦闘をしていない時、戦闘が始まる前である。
シベリアでの経験であるが、戦闘であることを思うと、どうしても気持が荒々しくなり、投げやりになり、その日暮らしをするようになる。
(うち)から、手紙に札(さつ)を巻きこんで送られて、金が手に這入(はい)ると、酒を飲み、女を買いに行く。
明日の生命も分らないといことが常に心にあって、今日のうちに出来るだけ快楽をむさぼっておかないと損だ、というような気持になるのだ。
 街へ出ると、露西亜(ロシア)人がいる。
露西亜の兵隊が、隊伍を組んで歩いている。
始めは、そういうのを見ても何ともない。
ところが、一度、日本人が彼等に殺されたのを目撃すると非常な敵愾心が湧き上って来る。
子供の時からつめこまれた愛国心とかいうものがまだどっかに残っているのかな。
何故、吾々がシベリアへよこされて、三年兵になるまでお国のために奉公して、露西亜人と殺し合いをしなければならないか。
その根本の理由はよく分っている。
吾々が誰れかの手先に使われて、馬鹿を見ていることはよく分っている。
露西亜人に恨(うらみ)がある訳ではない。
そういうことはよく分っているつもりだのに、日本人がやられたのを見ると、敵愾心が起って来るのをどうすることも出来ない。
 人を殺すことはなかなか出来るものではない。
身体の芯から慄えてきて、着剣している銃を持った手がしびれて力が抜けてしまう。
そしてその時の情景が、頭の中に焼きつけられて、二、三日間、黒い、他人に見えない大きな袋をかむりたいような気がする。
しかし、それも、最初の一回、それから、二人目くらいまでである。
戦闘の気分と、その間の殺気立った空気とは、兵卒を酔わして半ば無意識状態にさせる。
そこで、彼等は人を殺すことが平気になり、平素持っていそうもない力が出てくる。
 ある時、三人の兵卒が、一つの停車場(ていしゃば)を占領したことがある。
向うは百人ばかり押しよせてきて、そこを奪いかえそうとした。
銃を持たずにやってきた者も大分あったらしい。
二人は、無茶苦茶に射ったのであるが、その間、彼等は、ほとんど無意識で、あとから、自分等のやったことに気づいて吃驚(びっくり)したということだ。
 兵卒は、誰れの手先に使われているか、何故こんな馬鹿馬鹿しいことをしなければならないか、そんなことは、思い出す余裕なしに遮二無二(しゃにむに)に、相手を突き殺したり殺されたりするのだ。
彼等は殺気立ち、無鉄砲になり、無い力まで出して、自分達に勝味が出来ると、相手をやっつけてしまわねばおかない。
犬喧嘩のようなものだ。
人間は面白がって見物しているのに、犬は懸命に力を出して闘う。
持主は自分の犬が勝つと喜び、負けると悲観する。
でも、負けたって犬がやられるだけで、自分に怪我はない。
利害関係のない者は、面白がって見物している。
犬こそいい面の皮だ。
(『黒島伝治作品集』紅野謙介編 岩波文庫 2021年)
戦争について」が発表された1927(昭和2)年の状況について

第1話「大学は出たけれど」の時代――昭和2~4年
 昭和2年(1927)


 昭和という時代は、不幸なことに、大正時代からの多くの重たい難題を抱えて開幕せざるをえなかった。
それは否応なしに近代日本のさまざまな遺産を継承することでもあった。
 その第一の難問は第一次世界大戦後に襲ってきた不景気である。
戦争終結とともに輸出がいっぺんに止まって、輸入超過となる。
物価は下落するいっぽうということで、ぬきさしならぬ不況がつづいていた。
その上に異常気象による東北地方の凶作が重なった。
弁当ももっていけない欠食児童、娘の身売り、そうした悲惨な状況解決のための緊急の、思いきった対策が強く要求されていた。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)
 ところが対策もままならないうちに、各銀行の経営悪化にともなって、東京渡辺銀行の破産にはじまる金融恐慌が社会をいっそう混乱させる。
銀行にたいする不信は、そのまま国にたいする信頼の喪失となり、民心は動揺し落ち着きを完全になくしてしまった。
 こうした情勢下に、昭和に入って早々に対外宥和(ゆうわ)路線をすすめる若槻礼次郎内閣が倒れ、〝強硬外交〟をスローガンとする田中義一内閣へと代わることになる。
そしてこれが内に鬱屈した国民感情を外へ向かって奮い立たせる結果を生んだ。
すなわち第一次の山東出兵である。
 つまり第二の難関は対中国政策ということになる。
田中内閣は満蒙分離政策を堂々とかかげた。
その意味するところは、万里の長城の北の満州・蒙古は中国本土とは別のものとみなす。
ゆえに満蒙問題についての交渉はそこの実力者とだけ行う。
中国統一をめざす国民政府は交渉相手にしない、と日本政府は勝手に決めたのである。
 7月に田中内閣が策定したアクティブな「対支政策綱領」は、これからの「軍国主義外交」の端緒をひらいたものとみることができる。
のちの昭和7年(1932)、日本の指導で満州国がつくられる。
それはませしくこの満蒙分離政策の実行そのものであった。
(『B面昭和史 1926-1945』半藤一利 平凡社ライブラリー 2019年)

「国民に告ぐ」 田中義一首相〟(NHKアーカイブス 1927年)

国連総会「ロシアによる併合は国際法違反」非難決議を採択〟(NHK 10月13日)